2020.03.01

子規の旅64_車上文学01

カテゴリ:正岡子規
 病床の子規は、明治30年に発表された『俳人蕪村』で、蕪村の俳句が技法的に洗練されている点を評価し、蕪村の再評価を図ります。これは、松尾芭蕉を頂点とする俳匠制度に疑問を呈し、芭蕉を学ぶ人たちが商売に傾き、詩としての純粋性に欠けていることを指摘し田母野です。そして、様式的で類型的な元禄時代以後の俳句を「月並俳句」と断じます。
 また、31年からは「日本」に連載した『歌よみに与ふる書』で『古今和歌集』と紀貫之を批判し、『万葉集』を高く評価しました。俳句革新で芭蕉批判を展開した事例にならい、歌人の聖典である『古今和歌集』と歌聖・紀貫之を全否定し、新しい価値観を提示したのです。また、のちに子規は「写生文」を提唱します。画家の中村不折から聞いた西洋絵画の写生理論を俳句、和歌で展開し、文章にもそれを活かそうと考えたのでした。
 
 明治31年3月17日、子規は春の暖かさに誘われて人力車に乗って郊外を逍遥します。子規の体は足が立たず、車に乗るにも人の背を借りなければならない状態でしたが、久しぶりの外出はとても快適で「太刀佩きていくさに行くと梅の花見てし年より病みし我かも」「車して戸田の川辺をたどりきと故郷人にことつげやらん」と詠んでいます。
 こうした人力車に乗っての外出を文章にして発表するのは、明治32年の秋からです。9月28日、御伝院を経て音無川に沿って芋坂、田端を過ぎて道灌山に登ります。道灌山の茶店は荒れ果てていました。かつて虚子と袂を分かったところでしたが、虚子は「ホトトギス」の編集に頑張っています。過ぎ去った日々を実感した子規でした。
 この文は、「日本付録週報」に10月2日と9日に分けて発表されています。
 
 九月廿八日、晴れて快し。遊意やや動く。
   青空に聳ゆる庭の葉鶏頭は我にあるけといへるに似たり
 寐ながらに足袋はき帯結び、車来りてよりやうやうに匍匐ひ出づ。車夫我病を心得顔に背つき出して玄関に待つも可笑し。負はれて車に乗る。会て我に小説など供給したる貸本屋の前を過ぐるに門戸の半ば開きて萩芙蓉などの花僅に漏れたるもゆかしく
   夏されば茨花散り秋されば芙蓉花咲く家に書あり
 御院田を過ぐるに故象堂こゝらに住みし事を思ひいでゝ、世にある中に逢はざりしもくやしく
   我知らぬ小阪の絵師はこのあたりに住みしと聞けど其家も無し
 音無川に沿ひて遡るに右にやきいも屋あり。昔の儘なり。其家の横に植込の小庭ありて、秋海棠一もと二もとづゝ、木の間、石の陰ともいはずまばらに咲き満ちたり。
   我昔よく見て知りし金杉のいも屋の庭の秋海棠の花
 其並びに長屋四五軒ありて三味線の師匠など住む。虚子嘗てこゝに住みし事あれど其家も我は知らず。
   三味の師の同じ長屋に住みきとふ虚子の家いづこ三味の師は居る
 川の上に横さまにさし出たる低き枇杷の木あり。此木兼ねてよりよく知れるが、見れば蕾一つばかりあり。時候の早きにや、木の猶若くして今年始めて蕾みたるにや。
   音なしの川辺に生ひて三年経し枇杷の蕾のともしきろかも
 こゝに石橋ありて芋坂団子の店あり。繁昌いつに変らず。店の内には十人ばかり腰掛けて喰ひ居り。店の外には女二人彳みて団子の出来るを待つ。根岸に琴の鳴らぬ日はありとも此店に人の待たぬ時はあらじ。戯れに俚歌を作る。
   根岸名物芋坂団子売りきれ申候の笹の雲
    道の辺の家に百日紅の赤きと白きと猶咲けるを見て
   萩の花既に散らくも彼岸過ぎて猶咲き残るさるすべりかも
 左へ曲れば乞食坂へ登るべき処を、右へ曲りて少し行けば百姓家に二抱もある南瓜(あるいは金冬瓜の類ならんという)生りありとて、根岸あたりより見に来し者多かりき。そのことを思い出すに、
   をさまれる御代のしるしに二抱え三抱えもある冬瓜生り出でつ
 橋を渡り猶川に沿いて行く。川の上の垣に山茶花の真盛なるが、はや散りなんとするに、秋の深さも覚えて、
   川に沿ふ生垣ありて水の上にこぼれんとする山茶花の花
 垣の上、樫の枝、杉の幹、そこにある限りの物に烏瓜のまといて赤き実を垂れたる、既に田道めきたり。
   道の辺に生る烏瓜又の名を玉づさといふと聞けばゆかしく
 川べりに露草の夥しく咲けるを
   岸の辺の花の露草花垂れてきたなき水によごれてぞ咲く
 田畑停留所の外を廻るに、家居多く出で来て料理屋の看板掛けたるもあり。この辺には歯磨の広告、煙草の広告など目ざましく聳えたり。
   汽車とまるところとなりて野の中に新しき家広告の札
 停車場尽くるあたりに岡を切り取りたる処ありて、さこに上り道出来たり。車夫ここを登らんというに、見あぐれば坂急にして危く、切り下げたるが卦、二十丈もあるべし。目くるめきて胸安からず、ここを登ることいかがあらんと、独りあやぶみおる程に、車夫は一向に平気なるようにて、車ははや停車場を見下ろす程の高さになりぬ。
 両側とも崖にして、いずれへ堕ちんも命あるべくは覚えぬに狭き路、殊に高低さえあれば自由ならぬ身を車にしがみついて、
   壁立つるがけの細道行く車輪をどるごとに生ける心地せず
 上りて見れば平野一望黄雲十里此ながめ廿八年このかた始めてなり。
   山も無き武蔵野の原をながめけり車立てたる道灌山の上
 崖に沿ひて左す。路の辺に檜葉の木多く植えたる処の垣毀ちて、檜葉の根ながら掘り起したるをいくつとなく昇き出ずるは、いずくにか移し植うるなるべし。
   人あまたのゝしる声の近づきて檜葉の森より檜葉擔ひ出づ
 胞衣神社の前の茶店に憩う。この茶店、この頃出来たるものにて、田端停車場の真上にあり。固より崖に臨みたれば、眺望隠す所無く、足下に見ゆる筑波山、青うして消えなんとす。我かつてここの眺望を日本第一という。平らに広きをいうなり。
   武蔵野の空の限りの筑波嶺は我居る家より低くおもほゆ
 この景色、如何に綴れども発句にならずといいしに、しかなり昼にもならずと不折のいいしこと思い出でて、
   昼にもならず歌にもならず武蔵野は只はろはろに山なしにして
 手摺の下より停車場を見下すに、寸馬豆人の働くさまは天上より人間を見る心地して、さすがにうるさからず。
   ガリバーの小人島かも箱庭のすゑものゝ人の動き出でしかも
 柿を喰ひて
   岡の茶屋に我喰ひのこす柿の種投げば筑波にとゞくべらなり
 この茶屋の側の崖に、赤黒き小き花咲ける木あり。この木は度々見たれどその名を知らざるに、もし知ることもやと茶屋の女に尋ねしに知らず。折ふしここに休みおりたる植木屋の、それはくさぎ(常山)とやらんいうという。その名も兼ねて知れど、今この木と知ることのうれしさに、
   其木知りぬ其名も知りぬくさぎとは此名なりけり此木なりけり
 車に乗りて猶崖ぞいに行く。道灌山の茶屋とて、昔よりありし処は木さしこもりて、いたく荒れはてたるに、
   婆々が茶屋はいたく荒れたり昔わが遊びに来ては柿くひしところ
 ここより坂険しきにはあらねど、滑る処なれば心も心ならず
   此坂は悪き坂なり赤土に足すべらせそ我をこかしそ
 滑りながら辛うじて下りつきしに、胸のさわぎなおやまず。向いの坂を上りて諏訪神社の横を行く。行く向うを見るに、人四人横に並びて太鼓敲きながら何やら高声に唱えつつ、こちらへ来なり。近づきて見れば、日蓮宗の葬式と見えて太鼓の後に棺の駕籠あり。駕籠のすぐうしろに車に乗りたる廿余の女あり。この女あでやかにうつくしく、着物さえはなばなしき色なるに、また世にたぐいなきさまなり。されど余りのあでやかさに、涙少き心地して柩の後に見ざらましかばと口おしく思わる。
   ありがたき法の教と思ふかなひつぎを送る観音菩薩
 谷中の墓地を横ぎり、御院田の阪を下りて帰る。歌修行の遊び、今日が始めてなり。〔道灌山〕





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最終更新日  2020.03.01 19:00:05
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