1945回顧
僕は1939年の初めに生まれた。1945年は、僕は小学校(当時はコクミンガッコウ)1年生だった。狂気の戦争は破局に直面していたが、たぶんほとんどの人はそうとは知らず、家族が次々と兵役にとられても、時の勢いの中にいた。父の弟が、海軍の制服を着て訪ねてきた。おそらく、「出征」披露のような場面だった。彼は、間もなく南洋で戦死している。アベコベ男は徴兵制はあり得ない、と例の軽薄な饒舌で述べている。総理大臣の私が言うのだから(信じろ)、などと最近は末期症状のようなことを口走っている。彼は戦争の病理を全く知らないのだ。戦争は全員を病気にする。国家国民を守るには,有無を言わさず麻酔にかかったように、次々と戦地に送り込まなくてはならなくなるのだ。殺されるから殺さざるを得ないマイナススパイラルにみんななだれこむのだ。後方支援だから、という子供だましはもう通じない。後方支援は兵站、ロジスティックで、まさに最も叩くべき機能だ。安全な参加方法などあり得ないし、安全な参加などあっても恥ずべき行為だ。その前に、そんなものはない。自民公明のあの奇妙な法律家議員の遊び論議はその根底が非現実な漫画のようなものだった。破局不可避のあの頃、小学校の中の階段に使われいた鉄の部分が外されていった。家庭では、貴金属類は{「お国」に供出するようにお達しがあり、熱病のようにみんなが従っていたように見えた。従わないような者はそれでも日本人か!と体制に媚びる連中の抑圧の罵声が来た。そんな、滑稽ともいえる末期症状、断末魔のような世の中が1945年の前半だった。大阪も東京も火の海になり、あげくのはてに、8月6日と8月9日に至ってしまったのだ。諸悪の根源は、当時の政府と軍部の狂気だけれど、それに流された国民も二次的同罪なのだ。僕たちはもう二度と、国民の敵のような政権には従ってはならない。そのような政権は早く潰さなければならない。やりたいほうだいのこの2年半だけど、凶悪な権力乱用には従ってはならない。 日本人には良識がある。まだ間に合うのだ。