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東京フリー・メソジスト教団付協力牧師 甲斐慎一郎 説教要約

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2016.07.21
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「自信と確信の違い」 
 

インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network
Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しま
した。以下のURLをクリックすると見ることができます。
2014年11月26日放映「人が求めることと神が求められること」 

  「自信と確信の違い」 

         甲斐慎一郎    

         ヘブル十一章1~6節 


 一、自信は神に対する不信仰である

  世の中において偉大であると言われる人は、ほとんどが自信に満ちた人です。「自信」とは、自分の能力や賜物を信じて、それに拠り頼むことです。ですから自 信が高じれば、自負心や高慢になり、反対に自信を失えば、失望したり、落胆したり、果ては自暴自棄に陥ったりしないでしょうか。
  人間の体力や能力は、遅かれ早かれ、衰えていくものです。ですから私たちは、自分の何かに拠り頼んでいるなら、年を取るにつれて失望していくことは避けら れないでしょう。それだけでなく、聖書は、「鼻で息をする人間をたよりにするな」(イザヤ二章22節)、「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離 れる者はのろわれよ」(エレミヤ一七章5節)と教えています。そしてキリストは「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と仰せられたの です(ヨハネ一五章5節)。 

二、信仰は確信にならなければならない

 新約聖書の原語であるギリシャ語には、日本語において「確信(する)」と訳される言葉が六つほどあります。

1.パレスィア――大胆さ(名詞)

▽「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです」(ヘブル三章6節)。

▽「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです」(同一〇章35節)。


2.ペポイセスィス――信頼(名詞)

▽「私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています」(第二コリント三章4節、他に同一章15節))。


3.ペイソー――説得されて確かに信じる(動詞)

▽「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ一章6節、他に同一章25節、同二章24節)。

▽「そのような信仰は……あなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています」(第二テモテ一章5節)。

▽「私は、自分の信じて来た方をよく知っており……その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです」(同一章12節、他にピレモン21節)。 

4.ピストー――確証を与えられる(動詞) 

▽「あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい」(第二テモテ三章14節)。   

5.フポスタスィス――確固たる心(名詞)

▽「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです」(ヘブル三章14節)。

▽「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(同十一章1節)。 


6.プレロフォリア――徹底的(完璧)な確信(名詞)

▽ 「私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです」(第一テサロニケ一章5節)。 エ リファズは、ヨブに「あなたが神を恐れていることは、あなたの確信ではないか」と語っています(ヨブ四章6節)。これはヨブがそうであったのか、エリファ ズの解釈であるのかわかりませんが、その言葉の内容は、間違っています。「神を恐れていることを自分の確信にする」ことは、「自分自身に拠り頼んでいる自 信」にほかならず、徹底的(完璧)に神を信じる「確信」ではありません。 聖書は、「信仰」は信じるだけでなく、「大胆」に「信頼」し「説得されて確かに 信じ」「確証を与えられ」「確固たる心」で「徹底的(完璧)な確信」を持つことが必要であると教えています。これこそ神が私たちに求めておられることです (ヘブル十一章1、6節)。

  甲斐慎一郎の著書説教集

 






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Last updated  2016.10.10 22:06:47
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