東京フリー・メソジスト教団付協力牧師 甲斐慎一郎 説教要約

2021/04/17(土)22:44

説教要約 1250

​​​​​​​​​「復活された主により頼む」  2021年4月18日​インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年7月13日放映「​根拠に基づいて神と福音を信じる​」​「復活された主により頼む」​            甲斐慎一郎         コリン人への手紙、第二1章8~10節  「人の命は万宝の第一」とか「命に過ぎたる宝なし」また「命あっての物種」等など、生命の尊さを教える諺は数多くあります。  聖書は、「生きている犬は死んだ獅子にまさる」と記し(伝道者九章4節)、主は、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」と教えられました(マタイ一六章26節)。  キリスト教は、十字架の宗教であるとともに復活の宗教です。復活は、生き返ることですから、それは生命を意味しています。そこで「生」という観点から、聖書が教えている人間のありのままの姿およびキリストの驚くべき救いについて考えてみましょう。 ​一、神が与えられる生命の尊さ​  私たちが生命の尊さや神聖さ、また厳粛さを教えられるのは、次のような時ではないでしょうか。  第一は、何と言っても一人の人間がこの世に誕生する時です(生命的な面)。 第二は、電子顕微鏡などで微生物の世界を垣間見る時です(生物学的な面)。  第三は、病気や怪我が自然治癒力によって治っていく時です(医学的な面)。  第四は、人間がその一生を閉じ、この世を去る臨終の時です(人生的な面)。   このようにどのような面から見ても、生命ほど尊く、また生きているということほどすばらしいことはありません。しかし私たちは、この生命の尊さと生きていることのすばらしさをどのくらい自覚しているでしょうか。   もし私たちがほんとうにこのことを知るなら、「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配」する必要はありません。なぜなら「いのちは食べ物よりたいせつなもの」だからです(マタイ六章25節)。 ​ 二、この世で生きることの苦しさ ​ しかし私たちは、次のような時には、生きていることが苦しく、また辛くなるのです。  第一は、肉体的な苦しみで、これは重い病気や重症の怪我などによって、非常に激しい痛みと苦しみがある時です。  第二は、精神的な苦しみで、これは人間関係や様々な苦難によって、失意と挫折と孤独の中に置かれ、お先真っ暗になる時です。  第三は、霊的な苦しみで、これは迫害のように、神に従うことによって、かえって事態が悪くなり、苦しめられる時です。  このような時、私たちは生きていること自体が何と苦しく、また辛いことであるかを痛感するでしょう。この根本的な原因は、こ世に罪がはいったからですが、それ以来、この罪は、私たちからきる喜びを奪い、それを苦しみに変えてしまったのです。  ​三、キリストによる復活の望み ​  この、生きていることの苦しみから救われる道はあるのでしょうか。だれでもすぐに考えることは、死ぬことです。しかし死ぬことは、安息でもなければ勝利でもありません。死んだきりでは完全な敗北です。  それでは、どうすればよいのでしょうか。救いの道は、ただ一つ、死んでまた生き返ることです。生きることが苦しいのは、頼りにならない自分により頼んでいるからではないでしょうか。パウロは、「アジアで会った苦しみ」、すなわち、「非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟し」た時、「自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼」んだのです(8、9節)。  死んでまた生き返る復活以外に救いの道はありません。この救いは、この世(現世)における霊的な復活だけでなく、次に来る世(来世)における肉体の復活をも意味しています。キリストは、私たちが死んでまた生き返るために、「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられ」たのです(第一コリント一五章20節)。甲斐慎一郎の著書→​説教集​久米小百合氏司会「本の旅」→「​聖書の中心的な教え​」​​​​​​​​

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