2006/04/04(火)20:54
マラッカの海に消えた
高校二年の二学期が始まって直ぐのころだった。
担任の先生が一冊の本をホームルームが終わる頃になって、もじもじしながら取り出してこう言った。
「うちの奥さんが書いた本なんです、よかったら読んでみてください。」
こまわり君というあだ名の付いたその先生は、その本を一番前の席の生徒の机の上に置いた。
その本がはたして順番に回っていたのかは分からない。ボクはタイトルだけを横目で見て覚えていた。その本を本屋で探して購入し、読んでみた。
それは、所謂トリックものの推理小説だった。
当時乱読状態だったボクには、読みやすくて、好感がもてた。
「先生、あの小説、結構面白かったですよ」
「そうですか、読んでくれたんですね」
「みんな読んでくれてるんですかね」
「それは知りません、なかなかボクの所まで回ってこなかったので、買って読みました」
「わざわざ買ってくれたんですか?」
「言ってくれたら、まだあるから渡したのに」
先生は、その間、終始笑顔で受け答えしていた。
その先生は、いつもたじたじした自信なさげな態度の先生だった。それが原因だとは思うが、何故だか生徒には人気がなかった。
ボクは、そんな先生が嫌いじゃなかった。とりわけ好きというのでもないのだけれど、なんだかいつも気になっていた。
先生の奥さんは、才女らしいという噂は、学校中が周知していた。
お茶やお花は、師範級で、車の免許もA級ライセンスを持っていて、株で稼いで、小説を書いている。
そんな話しだけでも、十分すごい話しだ。
先生はいつも地味な感じで、車は古いセリカに乗っていて、そんな奥さんがいると聞かされても、信じがたいような人だった。
ボクが事故で死にそうになって入院した時、直ぐにお見舞いに来てくれたのも忘れない。しかし、接点がありそうでもそれ程、理解しあえてはいなかった。
でも、ボクはそんな先生がなんでか気になっていた。
そして、しばらくしてまた奥さんの本が出版されたので購入して読んだ。あとがきに書いてある彼女のプロフィールには、不思議というか変わった経歴が記されていた。昔テレビの修理をして生計を立てていたとか、国語の教師をしていたとか、株で儲けて教師を辞めて、小説を書き始めたとか、1人の人間のことだとは思えないような経歴だった。
その後、先生の奥さんはドンドン小説を発表し、みるみる間に有名になっていった。テレビ化もされるようになった。
その頃には、ボクは高校も卒業し、彼女の小説もあまり読まなくなったが、今でもその担任の先生の事をよく思い出すことがある。
「山村美沙物語」は見ていないが、その中に、夫である山村先生のことをどういう位置づけで扱ったかは、ドラマを見なくても想像がつく。
今まで特番で取り上げられた時も、不自然なぐらい夫の存在を避けて通るような取材しかしていなかった。
ほんとの山村美沙さんを知るためには、実の夫の存在が大きなポイントだと思う。しかし、それはボクにとって大して興味を惹くことではない。
10年前にテレビで山村美沙さんの葬儀を見た。山村先生は、亡き夫人の遺影を持って映っていた。久しぶりに見た先生は、少しやつれていた。
無性に声をかけたくなった。
優しすぎる人だったんだ。
今でも、元気でおられるのだろうか。