人生は無意味なのか?芥川龍之介・思索の果ての自殺「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安である」人は何故、死を選ぶのだろうか。芥川龍之介は、遺書で、次のように書いている。 誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない……僕は君に送る最後の手紙の中に、はっきりこの心理を伝えたいと思っている。 君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであろう。 しかし僕の経験によれば、其れは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示しているだけである。 少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。(或旧友へ送る手記) 自殺の心理、ひいては現代が直面する問題に、芥川は解明の糸口を与えている。 芥川龍之介は明治二五年、新原敏三の長男として、東京に生まれた。 生後八ヵ月の時、母フクが突然、精神に異常をきたしている。 龍之介はフクの兄芥川道章に預けられ、独身を通していた、フクの姉フキが、我が子のように龍之介の面倒を見た。 愛情に包まれ、芥川夫妻を両親と信じて育った龍之介だったが、子供らしく我儘を言える、自由な時代は続かなかった。 十三歳で正式に子入りする前から、自分がもらわれっ子、だと感づいていたのだ。 実母は、龍之介が十一歳の時に世を去った。たまに訪れると、煙管で頭を殴られる始末で、龍之介は後年、「僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない」と述懐している。 芥川は小学校の時から成績優秀で、一高へ無試験で入学を許可され、二位の成績で卒業した後、東京帝国大学に進んでいる。 二三歳の夏、才色兼備の吉田弥生と交際を始める。 青山女学院を卒業した弥生は、文学を好み、英語も堪能だ。英文科在籍の龍之介と相性はぴったりで、順調に進めば結婚に行き着くはずだった。 ところが弥生に、別の男性から縁談が舞い込んだ。 龍之介はその時、どれだけ深く彼女を愛しているか気づいた。 弥生に求婚したい。しかし養父母とフキに告げた途端、激しい反対にあう。 相手の女性が士族でないことや、私生児だったこと、また、婚約者がいるのにプロポーズする龍之介の一途さなどが、反発を買ったといわれている。 伯母のフキは夜通し泣き、龍之介も泣いた。結局、龍之介が諦める形で終わった。 このときの苦しみを、芥川は友にこう打ち明けている。 わたしは随分苦しい目にあって来た 又現にあいつつある 如何に血族の関係が稀薄なものであるか……如何に相互の理解が不可能であるか。 イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない 周囲は醜い 自己も醜い そして其れを目のあたりに見て生きるのは苦しい。 悲しみを紛らせようと、龍之介は遊郭に足を踏み入れるが、官能は悲哀を与えるだけだった。 失恋直後に書いた「仙人」に、次のような言葉がある。 何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか。 この問いは、終生、芥川から離れなかった。 そんな芥川の人生を大きく変えたのは、文豪、夏目漱石との出会いだった。 漱石が弟子と面会する木曜会に、参加するチャンスを得たのだ。漱石の学識と人格は、龍之介をとらえて離さなかった。 芥川は仲間と、雑誌「新思潮」を刊行する。 創刊号で、とりわけ漱石の注目を引いたのは、芥川の「鼻」だった。 漱石は期待の弟子に、愛情のこもった手紙を書く。其れは、最大級の讃辞の羅列だった。漱石から予想外の激賞を受けた芥川は、華やかな文壇デビューを、大学卒業間近の二五歳で果たした。 しかし、出る杭は打たれる。 「中央公論」掲載の「手巾」は、的外れな批判にさらされた。 何を書こうとしたのか雑然として分かってこない。 何処が面白いのかという気がする。 本質に迫る建設的な批評なら受け入れられる。 だが、自分の感覚に合わないからと感情的に全面否定され、評者の勉強不足、時代認識のズレ、さらには単なるねたみで酷評されては堪らない。 若き芥川は多いに傷つき、動揺した。時間と労力と熱意を込めて誠実にやり遂げた仕事が、数行で破壊されるのだ。 龍之介は苛立ち、心の中で怒った。 だが正面切った反論には出ていない。創作に集中したのだ。 卒業後、芥川は海軍機関学校の英語教授になる。 漱石の訃報を聞いたのは、その直後だった。 出会いから一年しかたっていない。 まだ漱石の指導が必要だったが、芥川は悲しみをバネに、教育、創作、読書に専心した。 月給と原稿料で生活できる見通しがつき、二七歳になった龍之介は、八歳下の塚本文と結婚する。 結婚前は、忙しくても便りを忘れなかった。 二人きりでいつまでもいつまでも話していたい気がする そうしてKissしてもいいだろう いやならばよす この頃ボクは文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛いい気がする 何よりも早くいっしょになって仲よく暮らしましょう。 しかし現実は煩わしかった。 新婚当時の癖に生活より芸術の方がどの位つよく僕をグラスプ (心を掴むこと)するかわからない。 と、親友にこぼしている。 一年後、芥川は毎日新聞の社員となり、筆一本の生活に入った。しかし作品はマンネリ化し、危機を覚える。 長編小説への意欲も、空回りして成功しない。 この頃の芥川は、社交的で、どちらかというと軽率な青年だった。新人作家の集まりで、既婚者である秀しげ子と出会う。 当時の雑誌記事によれば、初対面で馴れ馴れしく 話しかけ、翌日には人の心をそそる手紙を出し、自著も同封したそうだ。 しげ子は、女性の少なかった文壇で華やかな存在だった。 一時期、芥川は彼女の面影に悩まされ、密会を重ねた。 しげ子は次第に利己的な本性を露わにし、龍之介にまといつくようになる。 自宅まで押しかけることもしばしばだった。 創作の苦しみ、女性問題に加え、さらに龍之介を悩ませたのは、長男の誕生だ。 芥川家にいた養父母とフキの三人は、孫を溺愛し、子育てに過剰に干渉した。 世代差から来る方針の違いは如何ともし難く、家庭でも人間関係に疲れた芥川は、自伝的小説「或阿呆の一生」で、長男出生をこう表現している。 何の為にこいつも生れてきたのだろう?この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。 三〇歳の時、海外特派で中国に赴きるが、帰国後は健康がすぐれず、特に下痢に悩まされ、神経衰弱も発症した。以後、持病との闘いが続きる。 三四歳の冬、芥川が、当時の作家の代表作を集めた、「近代日本文芸読本」が刊行される。 一〇〇人以上の作家に自ら手紙を書き、収録の承諾を得るのは、並大抵の作業では無い。 二年にわたる努力の結晶とはいえ、仕事の性質上、収入は少ないものだった。 其れにも拘らず、「芥川は一人だけ儲けて、書斎を新築した」という噂が文壇に流れる。 一人でも多くの作家を載せようと苦心したのに、評価されるどころか、当の作家達から悪評を立てられたのだ。 誠実が仇で報われ、芥川は深く傷ついた。 この事件で神経衰弱が進み、睡眠薬を愛用し、虜となってゆく。 知人宛ての書簡には、 オピアム(阿片)毎日服用致し居り、更に便秘すれば下剤をも用い居り、なお又その為に痔が起れば座薬を用い居る。中々楽では無い。 と書いている。 創作活動も一〇年を迎え、題材の尽きた芥川が、胃を損じ腸を害し、神経を病みながら名声を維持するのは、容易では無いだった。 芥川最後の年となった昭和二年は、慌ただしく幕を開ける。 一月四日、龍之介の姉ヒサの家でボヤ騒ぎがあった。ヒサの夫西川豊は、火災保険を狙った放火の嫌疑をかけられ、六日に鉄道自殺する。 事件の処理に追われた芥川には、八人の扶養家族がいた。妻と三人の子供、養父母にフキ、そしてヒサの前夫の子だ。其処に西川の遺族が加わり、十二人となった。 また、西川が抱えていた高利の借金が重くのしかかる。病気も忘れて東奔西走する中、芥川は猛烈な勢いで筆を走らせた。 僕は多忙中ムヤミに書いている。婦人公論一二枚、改造六〇枚、文藝春秋三枚、演劇新潮五枚、我ながら窮すれば通ずと思っている。(知人への手紙) 考えたくない問題もあった。 青年時代の罪が、尾を引いていたのだ。 しげ子は、妻子と静養中の芥川を、突然見舞いに来ることさえあった。 「わたしの子、あなたに似ていない?」 彼女の言葉は龍之介の胸を引き裂き、滅びへの道を促進させる。 遺稿「歯車」には悲痛な告白をしている。 僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた一人に違いなかった。 僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた。 今や芥川は、気力と睡眠薬とで、辛うじて生を保っているに過ぎ無いだった。最後の力を振り絞る。だが、何のために? 死にたがっているよりも生きることに飽きているのだ。 彼は彼の一生を思い、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだった。(或阿呆の一生) 僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?(歯車) 此れらの言葉を遺稿に残し、芥川龍之介は、三六年の生涯を薬物自殺で閉じた。 人生は、この傷つきやすい作家には重荷だった。 僕はゆうべ或売笑婦と一しょに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きる為に生きている」我々人間の哀れさを感じた。(或旧友へ送る手記) 人生は地獄よりも地獄的である(侏儒の言葉) 人生は、多少の歓喜を除けば、多大な苦痛を与える「涙の谷」だ。絶え間なき苦難と闘って、何故生きねばならぬのか。 意味も目的も分からず、「生きるために生きる」以上の悲劇はないのだ。 ネットでの集団自殺 昨今、問題となっているネット集団自殺心中。 インターネットに存在する自殺系サイトの問題、また、人はどうして、ネットで簡単に意気投合し、集団自殺してしまうのか? 何故、ネット上で自殺系サイトができるのか? 日本では死について語ることをタブー視する傾向がある。 その中で死にたいと思っている人にとって、その思いを語る場がない、そんな人にとって、ネットは思いいがかなう素晴らしい場所になる。 また、ネットの中では匿名性の中で本音を出すことができる。 丁度マニアックな趣味の人が集まるように「自殺」を思考する人々がネット上で集まることができる。 さらにネット上の特質として、普通ななら話せないような内容、普通なら止められてしまうような会話を、ネット上でなら、思う存分することができる。 苦しみ、悲しみに共感してくれる人が、このネット上にならたくさんいる。 何故、一緒に死んでくれる人を探すのか? 自殺系サイトの掲示板では、自殺について語り合うだけでなく一緒に死んでくれる人を探しあうことがある。 二〇〇三年のネット心中事件の時もそうだった。では何故そんなことをするのか? この事件の男性がはっきりと語っている。 「一人で死ぬのは寂しい」と。 本当に覚悟の上の自殺なら予告も相談もせず、自分一人で確実に死ねる方法をとるが、若い人達の自殺は、覚悟の自殺ではなく、心の奥底では生きることを願っていることが多く、寂しさからの自殺なのだ。 だから、寂しさを紛らわすために相手を探す。 現実の世界でも、女子中学生などが、友達に誘われ、同情し、一緒に死んでしまうことがある。 また、恋人、夫婦、家族が、心中することもある。 こんな相手を持っていない人は、以前なら一人で孤独に耐えるしかなかったが、現代ではネットを通して、同じ思いを持った人とが出会えるようになった。 何故実際に死に至るのか。 ネット上の文字によるコミュニケーションでは、実際の対面コミュニケーションや、電話、手紙と比べて、感情が短時間に一気に燃え上がる傾向がある。 此れは恋愛感情も敵意にも当て嵌まることで、出会い系サイト問題や、ネット上の争いの問題などがおきやすいのはこのためなのだ。 また、ネット上でのコミュニケーションは、普通の人間関係と違い、狭い範囲に集中してしまうことも良くあり、そのテーマだけで人間関係が出来上がり、その話題に関してだけ、どんどん深まっていくことができる。 そうしたこともあって、自殺系サイトでは、自殺の話題だけで盛り上がってしまい、具体的な自殺の準備を始め、そのために会うときになっても、誰も互いにブレーキを掛けるものがなく、むしろ互いに後戻りできない状態になってしまう場合がある。 自殺系サイト、自殺掲示板の功罪。 自殺系サイトに集まり、自殺掲示板に書き込みをしている人達は、皆次々と自殺してしまう。 ネット心中事件など大きな事件報道がある度にそんなイメージを持ってしまう人がいるだろう。 しかし、そんなことは無い。 もしもそうなら、自殺サイトは次々となくなっていくはずだ。 実際には、多くのサイトが継続している。 集まる人々は、死にたい、死にたいと語りつづけて、明日もまた自殺サイトにやってきては、また自殺掲示板を見るのだ。 だからといって、死ぬ死ぬといっている人間に限って死なないなどという誤解はしないで欲しい。 自殺への思いを語ること自体は、むしろ自殺予防の効果さえある。 ただし、ネット心中事件のように、具体的な自殺の準備をスタートさせてしまうことになると、やはり危険なサイトということになるだろう。 自殺系サイト規制と自殺予防。 自殺系サイトは危険だ。 其れでは自殺系サイトを規制すればいいのだろうか? 其れでは根本的な解決にはならないと思われる。 もし、自殺系サイトを規制しようと思っても、彼らは隠語などを使い地下に潜るだけだろう。 其れに、たとえば自殺予防を一つの目的としているサイトの掲示板にも、死にたいという書き込みがある。 そういう掲示板も閉鎖すればよいのだろうか。 危険なもの、悪いものを規制するのではなく、むしろ良いもの、予防効果のあるものを増やしていく方が、効果的なのではないかと思われる。 実際に、「自殺」で検索をかけているうちに自殺予防サイトにたどり着いた。 自殺を考えていたが、思いとどまったという人もいた。 自殺系サイトに人が集まるのは、其れだけの意味がある。其れに負けないような自殺予防系サイトを増やしていくしかないと思うのだ。 自殺系サイトとネット自殺予防の此れから。 事件のあるたびに締め付けはあるのだろうが、自殺者が減る傾向は見られず、むしろ自殺者が増える傾向にある中、よりネットの普及率およびネットの重要性が高まる中で、自殺系サイトも増えていくだろう。 其れに負けないよう自殺予防サイトを作っていくことが重要だと思われる。 インターネットの躍進など、色々なコミュニケーションツールが現れた反面、若い世代ほど、そのコミュニケーションがどんどん下手になっている。 社会全体が、豊かになり、清潔になり、きれいになった、その副作用として心の闇の部分を人に話すのが、とてもしにくい社会になってしまった。 本当は、悩みを身近な人に話せるのが一番いいのだが、対面では話せない人が、電話相談をするようになり、電話でも話せない人が、もっと匿名性が高く、もっと本音が出しやすいインターネットの世界に集まっている。 だからこそ、自殺を予防する目的を持ったサイト「自殺予防サイト」を作っていかなければならないのだ。 自殺の伝染 ニュースで衝撃的な自殺の報道が起きた直後、自殺者の後を追いかけるように自殺が連鎖していくことが多々ある。 自殺願望のある人にとっては自殺のきっかけとなり、わたしも死んでしまおう等と思うのだ。なので、死を美化しすぎ、死によって問題が解決したとする報道は慎まなくてはならない。 また、わたし達周囲に自殺準備状態の人がいれば、こういう時には、特に注意を払う必要がある。 鬱病と自殺の関連 鬱病と自殺とは関係性について、鬱病と自殺は決して無関係ではない。 其れは鬱病から自殺へと発展する恐れがあるということだ。 よく、鬱は心の弱い人だけがかかるもの、気の持ちようでなんとかなるものと思われがちだが、決して鬱は気の持ちようで何とかなるものでは無い。 鬱病は誰にでもかかる可能性のある病気なのだ。また、鬱病はかかっている本人が気づかないまま放置し思い鬱病に発展する恐れもあり、周囲の理解、サポートも必要だ。 このように鬱病と自殺には関係があり、自殺する人の数が年々増えてきている。自殺予防の第一歩であり、また心身共に健康で生活するためにも、鬱病の予防、早期発見、早期治療が重要なテーマのひとつだと思われる。 自殺願望への対応 自殺のサインを発見し、早期に対策を打つことが重要なのは分かるが、 では実際、自分がそのような立場にたたされたらどう対処したらいいのだろうか? もし、「死にたい」と告白されたら。 もし、誰かに「死にたい」と告白されたら、どうするか? 誰だってびっくりする。ショックを受ける。 そして不安になり、冷静さを失う。 其処で、人は正論を吐くよりなくなる。 「もっと強く生きよう」、「死んで何の得があろうものか」等々……。此れらの言葉は正しい言葉だ。 しかし、此れらの言葉は自分の不安を和らげるための言葉で、相手の不安を和らげるためのものではない。 しかし、自殺したいという深い悩みを抱えている人にとって、前向きな正論をぶつけられても「ああ、この人もわかってくれないのか……」とその場を去っていくだけだ。 其処に解決の道は無い。ただ明るく前向きな励ましの言葉がいつもいいとは限らないのだ。 まずは、話を聞くこと。 死にたいなんて言われたら、人は誰でも不安に陥り、「死ぬんじゃない」とか言いたくなるが、其れでも、まずは、「どうしたの?」と話を聴く。 説教する前に、相手の言葉に、相手の心に耳を傾けちゃんと話を聴こう。 このような話を聴くことは、楽しいことでは無い。話を聴く方も辛い作業となる。 しかし、自殺予防のためには其れが必要なのだ。 死にたいと思うほどの苦しみ、辛さ、悲しみ、悔しさ、恨み、怒り。話さないままで死んじゃうなんて、そんなことしないで、どうか話してくださいと。 話を聴いてもらうことは、わたし達が想像している以上に、自殺予防の大きな力になる。話を聴いてもらい、共感してくれることは、生きる意欲につながっていくのだ。 会話をしている間は自殺できない。 正論を吐いて会話を終わらせないで、ともかく会話を続けることが重要だ。 「また電話してくださいね」、「明日また話してね」等々……、話を聴き、共感することで生きる意欲に繋がり、自殺予防に繋がる。 また会話を続けることで自殺を先延ばしにできる。 自殺を先に延ばせれば、その間に弱った心が次第に回復する。 そうなれば苦しい現実が何も変わらなくても、人は死のうとはしなくなる。 だから、話を聴きいてあげよう。 決して否定語を使わず、全部を肯定し共感してあげよう。喩え言い分が理不尽でも、だ。 そして、自分をしっかりと守ること。こんな暗い話を聴き続けることはとても辛い。 だから、自分の心をしっかり守らねばならない。 自分が強さや冷静さを失ってしまっては、相手を助けることが難しくなる。だから必要以上に背負い込まず、自分の出来る範囲で精一杯やるのでいい。 自分を守るためにも、自分を助けてくれる人も探しておこう。そんな人いない、というなら、自分には自殺を止められる力が無いと、はっきり告げねばならない。 そして、それでも自分は生きている、と、其れだけ言えばいい。其れしかないのだ。 自殺の話は相手の信頼を裏切ってはいけないが、自分一人で抱え込むにはとても大きすぎる話だ。 職場や、学校、家庭、信頼できる他の人と、その問題を共有できるのが理想だが、現実は厳しい。 カウンセリング的面接の目標を持つこと。 難しいけれど、本気で相手になるなら、其の覚悟が必須だ。 カウンセリング的面接とは、ただ、相手の話を聴くだけでは無い。 カウンセリングの人間観は、人は自ら良くなる力を持っている、という人間観だ。人は、心の健康を取り戻せば、つまり自己一致できれば、必ず自ら生きる意欲を取り戻すことができる、という信念に基づいている。 だから、ただ人の話を聞いて、その結果、その人がどうなろうともその人の自由だとは考えない、では自殺は止められない。 自殺を止めるからには、其の人と一生付き合っていく覚悟が要る。 相談者の自由と自己決定は確かに重んじるが、其の人が何をしても勝手だと考えているのでは無い。 心が弱り、生きる意欲を失っている人、やけになったり、いじけたりして、自己決定力が一時的に弱っている人々に、話を聴くことで共に寄り添い、側面からサポートし、その人が心の健康を取り戻し、真の自己決定ができるようになることが、カウンセリングの目標なのだ。 きっとそうなることができると信じているからこそ、じっくり、人の話を聴くことができるようになる。 そして、自殺は、冷静な自己決定の結果による決断ではなく、心が弱り(、殺の準備状態にあり、孤独と絶望感に押しつぶされた結果の行為ということを知るのだ。 伝えたいメッセージ 大切な人を思う時、大切な人に自殺なんかして欲しくないのが通常だ。 できることなら、活き活きと暮らして欲しいと誰もが願う。 「あなたも愛されているし、あなたも一人ではないのだから」 このメッセージを伝えるとても有効な一つの方法が、お説教ではなく、カウンセリングであり、傾聴し、共感するという技法なのだ。 「あなたの話を、もっと、もっと、聴きたい」、「あなたが死んだりしたら、わたしはとても悲しい」と。 自分が其の人を必要としていると、嘘でもいいから告白する。 自殺予防の方法の原則。 「自殺予防の標準的な話としては、話を聴こう、共感しよう」だ。 だからといって、いつも原理原則に縛られることは無い。 時と場合によっては、特別な方法が効果的なことも確かにある。 例えば、「死ぬな、ばかやろう!」と、泣きながら殴りかかって、自殺を防止できたこともあるだろう。 基本的な原則から、かけ離れたか行動もしれない。 しかし、この二人の特別な人間関係、この時の特別な状況下にあっては確かな効果が出ているのだ。 学者の中には、一般的な原理原則だけで、個々のケースが見えなくなってしまう間違いを起こす人もいる。 また、個人の中には、自分自身の体験を一般化しすぎて、原理原則や、他のケースを認めない人もいる。 どちらも、気をつけねばならない。間違えれば、もう取り返しがつかないのだから。其の自信が無いなら、見て見ぬ振りをして、一生後悔しながら生きるより無い。 実際、死にたいと思っていて、そこに、生きようとする言葉、人生はすばらしいという言葉が伝えられたり、励ましを受けて、結果、死を思いとどまる人々は例外的ではなくて、たくさんいるのだ。 グニャグニャの青年達 現代青年の人格形成を眺めるとするならば、彼らの作っているあるいは彼らが加わっている人間集団の様相に目を向ければ、ヒントを得られそうかな。これはつまり、現代青年の風俗を概観するということにも繋がるだろう。 一般に現代日本の風俗現象は、青年を起点としてそれが他の世代にも広がるという特徴があるように思われる。 若さ礼讃の風潮が恐らく背景にあるのだろう。もちろん携帯の使用も、其の例に漏れない。 いずれにしても青年のコミュニケーション・スタイルを取り上げる場合、携帯の存在は無視できない。 いったい何故これほどに携帯は普及したのだろうか。単に便利というだけではないだろ~な~。 携帯が普及する前に一時期、ポケベルなるものが巷に出まわった。もちろん使い手は青年達だった。其れ以前は固定電話が、離れている人との言語的コミュニケーションの主たる手段だった。 ポケベルは言葉を直接伝えるものではなかったが、固定されていた電話機が、家から離れたとことの意味は大きかった。 つまり私的な会話なり連絡なりが、より一層可能になったのだ。携帯の使用に至って、私的会話は原則いつでも何処でも可能になった。 この、家、親、家族を離れて私的会話ができるようになったことの意味は、とくに青年にとって大きい。 何故なら、家を離れて(心理的に離れる場合ももちろん含めて)独自の人格を作り上げる大事な時期が青年期で、友人を初め、家族以外の人達との交わりを通じて、青年は人格を彫琢していく。 家に対しては当然秘密を持つことも多くなる。秘密を持つことはまた、自分らしさを伸ばしていくことにも繋がる。 しかし此処で疑問が生じる。 其の気になれば何もあれほど携帯を使わなくても、友達などとの連絡や会話はできるのではないか。 家に対する秘密も、別に携帯がなければ保てないということでもないだろう。となると、四六時中といってよいほど携帯塗れになっている今の青年にとって、携帯のもつ意味は、まだまだ他に何かありそうだ。 絆としての携帯か? 必要となったから購入するというよりも、持たなくてはならないから購入する携帯。青年達にとっての必需品(これをお守りと言った人がいた)である携帯の使われ方から、青年の人格の様相をさらに探るとしよう。 何時でも何処でも他者とコミュニケートできる。 事柄や事態についてあれこれ対話するというだけではなく、単なる連絡にも用いる。連絡というよりも、今何処にいて何をしている、などといった一寸した繋がりの確認にも用いられる。 携帯コミュニケーションとはまさに、この繋がり、絆の確認行為を一つの大きな特徴とする。他者からみると他愛もないやりとりこそが、皆と何処かで自分は繋がっているのだと、安心するための大切な行為なのだ。 そんなことならべつに信頼感を他者に対して抱いていれば、いちいち確認作業をしなくてもよさそうに思えるかもしれない。 しかしこの信頼感が内的に確立されていないからこそ、彼らは確認を続けざるを得なくなっているのではないか。 だとすると、現代青年の人格には不確実感が巣食っているということになる。他者や外的世界に対して信頼感がはっきり確立していないということと、内的自己が不安定なこととは対応している。 不安定とか不確実と言い切るのは、早とちりかもしれない。 現代青年の人格の様相は、外部世界と内的自己共に流動的な様相を色濃く持っていると言えそうだからだ。 流動的なことは不安定とも言えるが、他方、柔軟だとも言える。 いずれにせよ、コミュニケーション・ネットワークを友人間で一貫してもち続けることで、彼等青年の人格構造は、維持されているようだ。携帯は、其の不断のネットワーク構築のための必需アイテムとなっている。 ところで携帯は、即時的同時的コミュニケーションのためだけに使われているわけではない。対話以外の機能の一つにメール機能があげられるだろう。 これも一種の対話の延長のような性格をもってはいるが、大きな違いは、同時ではなく継時的とも言えるコミュニケーション特性にある。 メール機能は既にパソコンにおいても実現されているわけだが、いずれにせよ、情報や伝達の発信者が主導権を持っている。受信者には、伝達事項にどう対処するかが任されている。 もっともメール以外の通信手段も事情は同じであり、本質的な違いは無いと言える。 違いがあるとすれば、其の頻度の多さではないだろうか。 文章や書類にするとすると、それなりの手間もかかるし、そう簡単に次々と伝達するということはかなわない。其の点メールであれば、キーをちょんちょんと叩くだけで、即伝達が可能だ。 この点において自己中心性がより発揮されると言えないだろうか。気ままに送信することがより可能になっているのであり、それだけ、より自分中心に自分の都合が前面に出てきやすいのではないか。 自己中と言えば、現代人のどちらかといえばマイナスの特性として問題にされることがあったかに思う。其れも青年の人達の特徴の一つとして問題視されていたようだ。 自己中心ということは、其の場合利己的という意味を強く負わされているようだ。 自らの利益をまず優先し、人のそれは二の次にというニュアンスだ。このような面は、確かに現代日本人の多くに見られる特徴かもしれない。何も青年達だけに咎を帰するわけにはいかないだろう。 けれども、携帯メールの日常的使用状況を考え合わせると、現代青年の人格特性は、何も強固な自己を抱えた上での自己中心性などではなく、ネットワーク依存、他者依存を背景とした、むしろ小さな狭い自己形成あるいはルーズな自己形成を大きな特徴としているのではないだろうか。 先に絆としての携帯という言い方をしたが、外部世界との連携に依存する割合が大きければ大きいほど、実は内的自己がやせ細っていてルーズになっているのではないか。 其処にはやはり、状況依存が強いが故に、一種の危うさが伴っていそうだ。 携帯はまた、情報を蓄えたり入手したりするための優秀なツールでもある。 また、最近はカメラ機能なども併せ持つ携帯が普及している。 人類は其の賢さ故に、さまざまな道具を発明してきた。いわば自らの身体の機能や能力を、さらに拡張し強固にする道具を、だ携帯もまさに其のような機能や能力をもっている。 自分の携帯を紛失するということはまた、自分にとって大切な諸機能や諸能力を無くしてしまうことでもある。 この手の平にすっぽり入るサイズの道具が、実は世界と繋がる目であり耳であり、記憶であり、ひいては自分の身体の大事な一部だ。 しかし、身体のもつ機能や能力をいわば外部装置化して其処に任せてしまったがために、本体の自分、自己のほうは、やはり幾らか貧しくなってしまったのではないか。 此処においても、内的自己がやせ細っているのではないかという危惧が生まれる。 便利な道具は何であれ、人間本来の何かを弱くしてしまう裏側の面を持っている。道具を発明するのが人間の人間たる一つの所以だとすれば、其の道具に依存すればするほど、自らの内側を貧しくするリスクを抱えるのは宿命かもしれない。 携帯もそうした道具、強力な道具の一つと言えそうだし、だとすれば、それが人間の何に影響を及ぼすのかを今後考えねばならない。 情報源としての携帯だが、手軽に情報を手に入れるとか保持することができるということは、それを内に蓄えておくという一種の緊張をあまりしなくても済むということにもなる。 手掛かりはすぐに外部から得られもするし、携帯のメモリーから取り出すこともできる。 其処で必要なのは、情報を欲しいという主体の意思であり決断だけだ。 強いて言えばあと必要なのは、キーを叩く一寸した労力だ。 このような生き方が可能になった時、青年の人格は、自らを際立たせていくという内的緊張を失いがちになり、軽くなったりルーズになったり気ままになったりするのではないか。 もちろん其処には、繰り返しになるが、危うさなり不確実さが伴うことは大いにありうる。 話しは跳ぶが、最近の青年の服装を見ると、ルーズさに一つの特徴があるように見える。 ズボンをかなり下げてはいたり、あるいは、仕事に向かうのにも拘らず、履き心地のゆるいサンダルで出掛けたりする。 また彼らの姿勢も特徴がある。 背中が丸まりがちなのは日本人全体とも言えるが、其処ら中にすぐペタリと座り込む。 顔を見れば口が開いている。 とにかく今の若者には、どうも重力に抗する力が不足している。 余計な力が抜けて、いい意味で体が緩むのは大切なことだが、日常的に緩んでしまっている。身体だけではなく、例えば話し方でも語尾上げをし、とか~と曖昧な表現をして、どうも不確実な印象がある。 本来内的にいろいろなものを蓄え、内側から支えるものをしっかりと形成しなくてはならないのに、外部への依存が高ければ高いほど、青年の身体はグニャグニャになっていく。 其れはまた人格も、悪い意味でグニャグニャになっていることではないか、やはり心配だ。 親には絶対返せない恩があるよ ただいま授業中。 民法三九二条後段、物上保証人や第三者が五百条により五百一条で代位するのは分かるけど、二番抵当権者との関係はどうなるのだ??? 昭和四十四年の判例をそのまま現代にも適用するのか? 信じるぞ、教授。 試験で落とすなよ。 ああもう、三百九十八条は、今もなお、わたしを悩ませる。 根抵当は理解するが、根質までホントに認めていいのかよ? 不登二条、七条、面倒だな。 三九五条、三七八条、三七四条の制限、取っ払って、債権者を太らせていいのだろうか? ってな感じで、手書きのノートでは追いつかず、ノートPCでノートしている。 検索機能が無いと、工学部出身のわたしには、六法全書丸暗記している講師の講義に追いつけない。 さりげに「……ではあるが、なお、民法何条の例外に注意すること。しかしながら判例、学説は分かれて……」ってな調子で進められては、困る、のだ。 さて、教授が居眠り中なので、こっちもサボります。 メールのお返事。 直メルできなかったので、此処にてご無礼。 あのね、BASARAさん、わたしの意見ですが、生き物は家族を馬鹿にするとき最も不幸なのだと思います。 親には返し切れない恩がある。 痴呆になった親のオムツを代え、葬式と火葬を済ませても、まだ供養が残っている。 親のオムツを代えるとき、やっと乳児期の恩を返させてもらい、墓参りすることで、やっと胎児期の恩を返させもらえるのだと。 家族と自分と世評とは、三面鏡だと思うのです。 親と子は合わせ鏡だし、其れを反射するのが世間だ。 飼育する愛玩動物などは、最もよく飼い主たる自分を照らし出して暴き出す。 何故、ご両親を馬鹿にするのか、卑下するのか、わたしには分かりません。分かりたくもありません。 ごめんなさい、同意を得たくてメールくれたのでしょうが、わたしはあなたに反対です。 わたしは既に、養親と実父を亡くしています。 残る実母を気遣うたびに、育ててくれなかったと言う恨みより、生きていてくれる感謝を覚えます。奇麗事じゃなく。 失わないと、その真価が分からないでしょうが、もう少し、あなたの口癖「ウゼ~」を一割減して、お父さんが当然に入れてくれる家計費、お母さんが当然にしてくれるお弁当作りや掃除、などを、自分でできるか考えてください。 100%、今のあなたには不可能です。 100%、今のあなたは親に依存しています。 覆せますか? 反論できますか? 自分の食い扶持、自分でその年齢で稼げますか? 毎日お弁当作って、掃除して、働いて、一人で寝て起きて食って稼いで、できますか? 一人暮らしを嫌と言うほど味わったわたしは、疲れ果てて帰る部屋の暗さ、冷たさ、知っています。 あなたはまだ知らない。 誰とも口を利かずに終わる一日だってあるのですよ。 コンビニで「いらっしゃいませ」と言われただけで、嬉しくなるほどの寂しさ、分かります? ウザいのは、あなたに関心を持っている証拠、愛情の証拠。 どうでもよければ、ウザいこと言ったりしません。 ど~だってい~のですからね、子供なんて、親だけについての人生にとっては。 ホームに入ればいいし、マンション型墓地でいいし。 其れでもなお、あなたを気遣う愛情、やっぱわかんないかな。 あ、やばい。 結論、あなたは幸せです。 自分で思う以上の愛情に包まれています。 其れはもう、ウザいほどの豊かな愛情に、ね。 と、なんとかじ~さん、わたしのことを暇人と言うなら、読んでるあなたも暇人ですね。 読まずに批判だけして書き捨てるなら、無責任。 どちらですか? どちらにせよ、目的に向かって突き進むわたしに、あなたでは勝てません。 あなたの負け。 法学がくだらないことですか? 其れすら読まずに批判ですか? 馬鹿らしい、あんたの負け、だ。 と、H編集様、卯月春羽、言ったことは守ります。 有難いお話ですが、今以上に執筆する気はありません。 出版の積もりはさらさらありません。 どうぞ、そちらでご自由に使ってください、ネタでもストーリー全部でも。 どうせもう既に、パクられ済みですからね。 正直、怒ってますよ。 有名な作家も、裏側見れば、単なるパクリ屋かあ。 H様、面倒なので、電話には出ません。 好き勝手にしてください。 |