2008/12/06(土)03:07
人間は顔と顔を向き合わせて愛の行為をする唯一の動物」だと・・・確か、アラン・ブースが書いていたと思う
【復刻日記】
人間は顔と顔を向き合わせて愛の行為をする唯一の動物」だと・・・確か、アラン・ブースが書いていたと思う
「宣教師ポジション」と言われるところの、動物界から見れば「奇妙てけれつ」な、この愛の表象行為は意外にも人間以外には思いつかないのらしいのだ。
それでは天才チンパンジーのアイちゃんあたりにこれを教えてみたらどうだろう?(オイオイ!)。
しかし人間というものは宣教師ばかりではないのだから、当然いろんな技・ヴァリエイションを試してみて、つまるところかなりの男女カップルが「技のデパート」となる。
こんな話に引き合いに出して、舞の海さん、ゴメン!
しかし俗に四十八手というものがあるので、性技と相撲には縁があると思うので許してもらおう。
平安時代の女性の遊びに「貝合わせ」というのがあった。
二枚貝をバラバラにしてカルタのごとく畳の上に撒いて、それぞれの本来の貝同士を合わせる遊技。
そこから派生して女性の同性愛を表すにもこの言葉が比喩的に用いられた。
ちなみに同じ貝のアワビ。
「アワビの片想い」とはアワビは一枚貝で、片面で岩などに「孤独に」吸い付いているのがふつう。
そこから、「相手が見つからず(見つけてもいいんだが・・・アワビ同士ひっついてどうする?)片想い」・・・と言うわけ。
別にかわいそうじゃないよね。
アワビの腸?好きなんだけれど、あれ緑色だよね。
たぶん海草を食べているからだと思うけれど。
真面目な私はいつも真面目な話ばかり書いてしまうので、今晩は思い切って、無理をして、私の性格と正反対なエッチな話、同性愛の話などを書いてみようと思う。
慣れないことだから行き過ぎがあるかも知れない。
自分で興奮してOBを打ってしまうかも知れない。
いずれにしても、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、未開拓の分野を突き進んでみようと思う。
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平安朝の夫は妻などから「背の君(せのきみ)」とよばれていたが、これは古代日本では dog fashion つまり、ワンワンちゃんのスタイルが一般的だったからだ・・・という説がある。
「ソドムとゴモラ」という古い史劇映画がある。
ピア・アンジェリ、アヌーク・エーメ主演のこの聖書の時代の伝説の都市「ソドムとゴモラ」。
このソドムの男達は“あるいけない性的嗜好“、つまり”ホモセクシュアル“を好み、「背の君」ファッションが一般的に用いられた、・・・と言う。
そういえばアンドレ・ジッドもホモだったから「狭き門」(より入れ)を書いたのかな?
ジッド考えてみよう。 だめ?
ソドムの男達は聖書でこう断罪されている。
「ソドムの男は悪しくして、エホバの前に大いなる罪人なりき」。
その結果がすごい。
「エホバ、硫黄と火を天よりソドムとゴモラに雨(ふら)しめ」という形で処刑されてしまった。
ホモだと罪人なのである。
しかもそれが過ぎると、現代で言えばミサイル核攻撃のような「硫黄+火」が雨のごとく降り注ぐ攻撃を受けたのだ。
ついでにゴモラもまきぞえなのだ。
なんだかゴジラとモスラみたいな語感だけれど。
桑原くわばら!
キリスト教から離れて考えてみれば、同性愛は赤ん坊を生まない、生まないわけだから、種族保存本能という実利的自然摂理に背を向けている。
しかしだからこそ実利を離れた、純化した愛の形では無いか?と考えてみたがどうだろう?
それに、ソクラテス先生やプラトン先生がそんなにいいと言うのなら、いいのかな~?
純化された性習慣といえば日本古来の文化、お稚児さんもそうかな?
戦国武将達は小姓などを愛人にして、女色より高級なものとしたという。
上杉謙信などは一生結婚せずに少年愛?を通している。
そういえば稲垣足穂先生の「少年愛の美学」、買ったまま読んでいない。
ついでにゲイ系の雑誌である「さぶ」「薔薇族」も読んでみよう。
(オイオイ!読んじゃいかんぞ!影響されやすいんだから)。
昔は新橋あたりの小さな本屋にも結構行ったからその本屋の店頭に並べてあったこの両雑誌をしょっちゅう目にしたのだが(手にとってパラパラめくって見てもみた、それ以降、転居してからは大型書店に行くようになったり、アマゾンで買うようになったりでこーゆー雑誌を目にすることもなくなった。
しかしどうして同性愛の美少年は角刈りなんだ?
「葉隠」にも濃密に同性愛傾向が見られる。
武士は明日を知らぬ命だから、それに後継者選びで身内でトラブってはいけないから、世継ぎを生んでしまった後は非生産的な(妊娠無しの)性愛に走ったかな?
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私は個人的には同性愛に偏見はないつもりだ。
生物学的に見て男女の差は染色体の数のちがいが大きいらしいが、どの個体も男女がくっきり分かれているわけではない。
男女の中間的な位置にいる人間が相当多いらしい。
私も会社員時代ゲイバーに行ったことがあるが、あそこにいる人々も全く生物学的に男性である人と明らかにグレイ・ゾーンのそれも女性側に極めて近い人達もいる。
美少年が「試してみて」というから、好意に甘えてちょっとさわらせてもらったら、たしかに・・・男性の○○スと女性のクリ○○○の中間的サイズだった。
こういう人達は見た目も精神的にも、さらに生物学的構造的にもほぼ女性と言っていい。
(こんなところだけ確信があってどうするんだ?)
こういう人達はある年令に達すると男の人が好きになり、女装したくなったという。
こんな性同一性障害のある人達に「お前たち!男らしくないぞ!」と言ってもほとんど意味のあることではないし、それは差別であり、虐待だろう。
なかには人間なのに「自分はライオンだ」と信じ込んでいる人などがいるというし、身近なところでは飼い主に溺愛されたペットなどは、自分も人間のつもりで生きているらしい。
同じ人間なのに私の飼い主はかわいそうに四本脚で歩けないんだよ・・・などと考えているのかも知れない。
私は会社の独身寮を出てアパートで暮らしていた時代があるが、そのアパートにゲイのカップルがいた
アメリカ人の中年男性と日本人の学生だった。
お互いに仲のいい友達で毎晩行き来をしていた。
とにかくいい奴らだったので、こちらが偏見をもつ暇もなかったというのが本当のところかも知れない。
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インドや中近東では男同士が手をつないで歩いていることが多い。
たぶんゲイの人々だと思う。
またはやむなく男同士で愛し合っているのかも知れない。
というのもあの辺では結婚というのはまだ売買婚である色合いが強く、結納金などがすごい金額になるという。
結納や財産が花嫁の父親の満足行くものでないときは結婚まで行かない。
男女が好きだから即、結婚とはならない。
日本だって明治までは家と家の結婚だった。
インドではそんな不満足な結婚の結果、花嫁が焼き殺されたりの事件が多発するのだという。
だから貧乏人の男はなかなか結婚できない。
で、仕方なしに男同士、手をつないで歩くと言うことになるのだという。
―――― ◇ ――――
中東にいたころ、ある時、知人の家で時間を過ごす内に遅くなり、夜中に宿舎まで歩いて帰ったことがある。
暗い夜道を歩いているとスッとタクシーが寄ってきた。
白いアラビア服を着た、頭にも紅白のチェックのずきん(アラファット議長がいつもかぶっているアレ)の運転手である。
アラブ人だからもちろんひげを生やしていて、むつけき大男である。
好都合だからそのタクシーに乗り込んだ。
中東では客は後部座席では無く、助手席に座る。
友情または平等のジェスチャーだろうと思う。
ラジオから勇壮なアラブの剣の舞ふうの音楽がかかっている。
そのうちに運転手が話しかけてきた。
「あんた、私の自宅に来ないか?」
「えっ? あんたの家に?」
気がついてみると、運転手の手が私の腕をなでている。
ヤベー!
どうしてこの窮地を逃れようか?と思っているうちに彼が続ける。
「うちには冷えたドリンクがあるよ~」
「えっ!」
ひょっとしたら、この禁酒国で禁断のウィスキーでもごちそうしてくれるのかな?
浅ましい考えが一瞬脳裏をよぎり、思わずたずねてしまった。
「ドリンクってなんなの?」
ヒゲ面のアラブは、こちらをジッと見つめながら
「冷蔵庫に冷えたコーラがある」
オイ!オイ!
怒るよ~!
山口百恵じゃないけれど「馬鹿にしないでよ~~!!」というところだ。
何が悲しくてこのアラブのオッサンとこの真夜中に二人で、「冷えたコーラ!」を飲まなければいけないんだ!!
「いや、もういい!」
その「コーラの誘惑」はキッパリ断って、私はその場でタクシーを降りて、徒歩で宿舎へ歩いて帰った。