【不眠症カフェ】 Insomnia Cafe

2014/05/10(土)11:34

イェール大卒、元商社マン落語家のキャリア論 (その3)

🔴 M【メモ・サブノート】(316)

後編は、題名を変えて出ていた 後編の題名は 落語界に学ぶ、一人前になるための修行法 【キャリア相談 特別編】第2回 しかし、このブログ記事では、題名を変えずに 「その3」としてお送りする    ―――― ◇ ―――― 親から反対された弟子のほうが辞めない 塩野:引き続き、修業時代のお話を。風呂なしのアパートで、無給の生活がつらいとは思わなかったのですか。 志の春:それは思いませんでしたね。すぐ慣れました。 塩野:楽屋でのお仕事はどうですか。お茶出しとか、着物を着るお手伝いとか。 志の春:そっちはなかなか苦労しました。もともと僕はゴーイング・マイ・ウェイのアメリカで長く暮らしていましたから、誰かに対して何かお世話をするという経験があまりないわけです。それが師匠のところに入門してまず言われたのが、「俺を快適にしろ」という一言。「俺を快適にできないやつが、お客さんを快適にできるか」。 塩野:そのとおりですね。これちょっと会社で言いたいですね。 志の春:そうですよね。会社だとパワハラかセクハラみたいですけど、徒弟制度は絶対的な関係なので。「こうしろ」と言われたことをするのじゃなくて、とにかく師匠をずっと見ていて、次に何をやりたいか察して、先回りして気を利かすということが大事。前座のいちばんの仕事は落語なんかじゃなくて、気を利かすことなのです。でも僕はそんなことをやってこなかったから、「ここまでやっていいんだろうか、こんなのは人のプライバシーに入り込みすぎじゃないか、お節介じゃないか」と、僕の中にリミッターがあるわけです。 塩野:そうか、塩梅がわからない。 志の春:ええ。でもほんとは前座なんてお節介なほうがいいわけですよ。もう気にしてますよ、気にしてますよって、やりすぎなくらいがいいのだけど、僕なんかわりと落ち着いているように見えて、もうしょっちゅう「何ぼーっとしているんだ」としかられた。 塩野:普通の日本人よりハンデがあった感じですね。 志の春:ええ、思いっきりありました。「お前みたいな気遣いのできない人間に、落語なんかできるわけがない。やめちまえ」と何度言われたことか。 塩野:辞めたいという気持ちになりませんでしたか。 志の春:それはありませんでした。ここに親が反対する意味があるんですよ。親の反対を振り切って入った手前、「やめた」とは言えません。うちの一門にも何人も弟子が入ってきますけど、親がすぐ許した人は、すぐ辞めますね。 塩野:わかります。反対を押し切って入った手前、おめおめと帰れませんよね。 師匠からのダメ出し 志の春:今、なぜか僕が入門希望者の面接担当みたいになっているので、そういう人には「大変だよ。楽しいだけの世界じゃないよ」とはっきり言います。おカネも最初はまったくないし、現実的にはこういう世界だよ、と夢を壊すようなことを言うのです。 塩野:そこでもういっぺん試すのは絶対必要ですよね。そうした中で、ご自分の落語の稽古はどうやっていたのですか。 志の春:それは本当に短い時間しかできません。師匠の付き人を務めている間は、もう本当に師匠を快適にすることしか考えられない。当時はまだ師匠がたばこを吸っていたので、たばこを吸うタイミングを予測したり、胸ポケットのたばこがあと何本残っているか覚えていたり、ずっと気を張っていました。それなのに、師匠がなかなか快適にならない人なのですよ。 クルマの運転手をしていても、「目がチカチカして嫌だ」と言ってナビを使わせてくれない。ということは、あらゆるルートを全部頭にたたき込んでおく必要がある。師匠はせっかちなので、大きな道が混んでいるときは、抜け道を通ってでも、とにかくクルマを走らせることが大事なのですよ。何も対応しないで、ただそこにいるというのが許せないんですね。本当は抜け道のほうがかえって遅くて、大きな道をノロノロ行ったほうが速いんだけど。だから付き人時代は、都内の道を全部、道路地図で勉強したりすることしかやっていない。1日の仕事が終わって、銭湯も閉まった夜更けに、家の流しで体を洗いながらブツブツ稽古をするくらいです。 稽古をつけてもらうのも一苦労で、「見てください」とお願いしても、「わかった」とは言ってくれるものの、見てくれないんですよ。1カ月くらい経って僕が油断したころ、急に「じゃあ、やれ」と言われる。「この人物はと申しますと、八っつぁんに熊さんにご隠居さん」と最初のマクラの部分から始めると、すぐに「やめろ、そんなの落語じゃねえ! 落語にしてから来い!」と言われて終わり。何がどう駄目なのか、いっさい言ってくれない。それで自分でいろいろ考えて、またお願いして、「この人物はと申しますと、八っつぁんに熊さんにご隠居さん」とやると、また「落語じゃねえ!」。ひとつの噺を最後までやるのに半年ぐらいかかりましたね。 塩野:やっぱりすごいね(笑)。 体で覚えた気遣いのタイミング 志の春:でもね、教え方って師匠ごとにいろいろあって、懇切丁寧な人も多いんですよ。「だから、ここのな、声の出し方はな」とか、「ここの目線の置き方はな」とか、すごく細かく教えてくれる人も多い。僕の師匠も僕のおとうと弟子の頃になると、如実に優しくなりました。たぶん師匠も50代になって、親父モードからおじいちゃんモードに入ったんですね。稽古の様子を見ていると、「いいか。ここのな、ご隠居さんはな」とか言って、全然違う(笑)。「オレのときは『落語じゃねえ』の一言だけだったじゃないか」と思いますよ。 塩野:最後のそういう時代に当たっちゃった。 志の春:でも今思うと、それがよかったと思うんですよ。 塩野:自分で考えるようになりますよね。私の商売はコンサルティングですけど、私も部下が企業の分析を出してきたら、「こんなの分析じゃねえ!」といって鍛えようかな(笑)。私のいる業界でも両パターンありますよ。懇切丁寧に「お前、ここのな、パワーポイントのスライドはな、10ポイントで左寄せだろ」と言う人もいれば、「こんなの意味がない」と言って、紙を投げる人もいます。 志の春:そこでどう受け取るかですよね。僕は最初、師匠にあこがれてこの世界に入りましたが、入門してからは師匠がものすごく怖い存在になった。こっちから話かけることもほとんどないし、絶対服従ですし、今だって普通に話なんかできません。いちばんあこがれている人がまったく自分を認めてくれないわけです。最初の3年ぐらいは「もう辞めちまえ」しか言われたことがない。「才能のないやつでも努力すれば、いつかうまくなるなんていうことはない。うまいやつは最初からうまい。それに世間が気づくだけだ」と。 塩野:うわ、きついな、それ。 志の春:「俺はもう長い間、この世界にいるけども、最初は下手だったやつが化けるなんていうのは、まやかしだ。そんなものはない。お前は今、下手だ。ということは、お前がうまくなることはない。だから早く辞めたほうがいい」ってすごく論理的に説得してくれて、でもそこで発憤するものがあった。僕の場合、最初から中途半端に褒められるよりも、「辞めろ」「辞めろ」と言われているほうが、「師匠、10年後を見ていてください」という気持ちになる。 塩野:そういう子弟の勝負があったのですね。そうした中で前座から二つ目に上がっていきますが、どこらへんで「ちょっとわかってきたかな」と思えたのですか。 志の春:入門して4~5年経ったときですね。ようやく気遣いの部分でもわりとすんなりいける感じになった。結局、僕の場合、タイミングの問題だったのです。たとえば電車に乗っていて、座っているとします。目の前に杖をついたお年寄りが乗ってくる。そのときスッと立ち上がって「どうぞ」と言えば何てことはない。でもそこで一瞬、間(ま)がズレて、どうしようかなと思っていると、気恥ずかしくなったり余計な気を回し始めたりして、なかなか立てなくなるじゃないですか。でもそこをスッといけるようになって、それから全体的にうまく回り始めました。 塩野:ああ、なるほど。いい話ですね。 志の春:ええ。たぶんもう体に入ったのでしょうね。落語のほうも褒められはしないけれど、「お前はその路線でやっていけばいい」というくらいにはなったので、そこからちょっと変わり始めました。 落語に学ぶコミュニケーション力 塩野:それでついに名前をもらった。 志の春:そうです。名前がついた瞬間も、その直前まで説教されていました。「お前みたいなやつは、どうしようもない。落語家になったって、もう何もならないということは、わかっている。わかっているんだから、そればっかり言っていてもしょうがないんで、まあいい。お前は明日から『志の春』だ」って。 塩野:うれしかったでしょうねえ。これから落語の世界の何を魅力として伝えたいですか。 志の春:僕はやっぱり、落語を初めて見たときに映像が浮かぶのが快感だったんですね。落語のタイプもいろいろあって、たぶん今のはやりは、その人のキャラクターを前面に押し出して、その人のつくったギャグでお客さんを笑わせる感じ。でも僕はもう落語が始まってしまえば自分はいなくていい。僕なんか消えてしまって、その物語がドーンと出るような落語をやりたい。 塩野:なるほど。やっぱり落語って完成されたエンターテインメントですね。今おっしゃったように、情景が見えてくる、人の会話が聞こえてくる。誰かを説得したりアドバイスしたりするときのコミュニケーションも、落語に学べる気がしますね。 志の春:今、言われたコミュニケーションの部分が大事です。われわれもお客さんとコミュニケーションをとりながら演じているところがあります。 たとえば落語では人物を演じ分けるとき、右を向いたり左を向いたりする。これを「上下(かみしも)をつける」と言うのですが、右を向いたときのセリフがお客さんにちゃんと伝わっていないようなら、ちょっと間(ま)をおいて、お客さんの頭の中に浸透してから次のセリフにいく。あるいは「これはもうわかっているな」というときは、間を詰めて、リズムを出していくこともあります。だから同じ噺でも毎回違うんですよ。16分でやるときもあれば20分かかることもある。そこは全部呼吸なんですよね。 それは修行中に言われていた「俺を快適にしろ」ということと、たぶんつながっていて、お客さんからの「気」みたいなものを感じなければならない。それがライブの芸である落語のいちばん大事なところです。

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