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【不眠症カフェ】 Insomnia Cafe

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【本と読書と文学】

2019.10.06
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私は現在、目が悪くて読書はほとんど出来ないのだが
この解説文を読んだだけでワクワクする

この作家は、居住者的にも、意識・思考的にも
「越境者」なのだと思う
私も今までの人生において越境者である

越境者にしか見えない世界というものがあり
越境者しか感じることの出来ない意識というものがある
母語の外の言語世界、思考世界というものがある
母国以外の異国の様相というものがある
そういうものは、ホモジーニアスな日本に

一番欠けているものでは無いだろうか?


   ーーー 記事 ーーー

祝・全米図書賞受賞! いま読むべき作家、多和田葉子の魅力とは?
By GQ JAPAN編集部
2018年12月29日

​​2018年11月15日(現地14日)、
作家の多和田葉子
米国において最も権威のある文学賞の1つとされる「全米図書賞」を受賞
したことが発表された。世界的に評価が高く、「村上春樹よりノーベル賞に近い」とも言われる多和田作品の魅力はどこにあるのか。多和田葉子作品の研究を続ける岩川ありさがすすめる、いま読むべき3作品とは。 文・岩川ありさ​​

​言葉のきらめきをいとおしむ​
​作家・多和田葉子が米国において最も権威のある文学賞のひとつとされる「全米図書賞」の第69回翻訳書部門を受賞した。彼女はドイツ語と日本語の2言語で執筆する作家だ。1982年からドイツで暮らし、1991年には日本語で書いた小説「かかとを失くして」で群像新人文学賞を受賞、1993年には「犬婿入り」で芥川賞を受賞し、2016年には優れたドイツ語で書かれた文学に贈られるクライスト賞を受賞するなど活躍を続けている。今回紹介するのは、現代社会が抱える様々な問題を浮き彫りにする3冊だ。​
​​効率よく情報をやりとりすることが求められる時代において、
文学を読むという営みは私たちになにを与えてくれるのだろうか。



声を上げられない誰かの叫び声をすくいあげるような文学作品は、私たちが「当たり前」だと思っていることを問う視座をくれる。
多和田の言葉遊びや詩的な表現は、凝り固まった言葉の使い方を解きほぐし、新しい響きを教えてくれる。
​​
   ~~~~~

『雪の練習生』(新潮社)
ホッキョクグマ三代の物語
2011年に発表された『雪の練習生』(2013年に新潮文庫で文庫化)は、ホッキョクグマが自伝を書くという設定が面白い長編小説。東西冷戦から環境危機の時代まで、物言わぬ動物が語りはじめたら、なにが見えてくるのか。読み進めるうちに、人間は、地球という星で、ホッキョクグマを含む多くの動物たちの生存に大きな影響を与え、責任を負っていたことに気づかされる。戦争や温暖化といった問題は、人間にのみ関係があるのではなく、この地球に生きるすべての生物に関わる。

物語は、ソビエト連邦時代、サーカスの花形だった語り手のホッキョクグマの「わたし」を描いた第一部「祖母の退化論」からはじまる。怪我をして引退を余儀なくされた「わたし」だったが、たぐいまれな事務能力があったため生き延び、やがて、「自伝」を書いて作家になる。しかし、西側諸国で出版されたため、トラブルが起こり、亡命することになる。東ドイツの国営サーカスが舞台の第二部「死の接吻」では、動物調教師のウルズラが舌の上に乗せた角砂糖をホッキョクグマのトスカが舌でからめとる「死の接吻」が印象的だ。東から西へ、西から東へ、めまぐるしく変化する冷戦時代を生きる白熊たちの物語に惹きつけられる。ベルリンの動物園で人気者となったクヌートが主人公の第三部「北極を想う日」は、大切に育ててくれた飼育係のマティアスを失い、孤独の底に沈みこむ場面の寂しさが身に染みる。命を世話するとはどういうことか、血の繋がりや種すら超えたケアの問題が浮かびあがるところも魅力だ。
  
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『献灯使』(講談社)

震災後の不気味な未来図
次に紹介する『献灯使』(2014年に発表され、2017年に講談社文庫で文庫化)は、東日本大震災と福島の原子力発電所の事故の影響が色濃い小説。鎖国され、「外来語」を使えなくなった「東京の西域」を舞台に、百歳を超えても老人は元気だが、子どもたちはもろい体になり、ケアが必要な世界が描かれている。曾祖父の義郎(よしろう)と曾孫の無名(むめい)を中心にしながら、旧世代の常識が通じなくなった世界で、「カルシウムを摂取する能力が足り」ず、「微熱を伴侶にして生きて」いる無名たち世代の子どもたちと共に生きる姿が切実だ。
広島と長崎に原子力爆弾が投下され、多くの人々が犠牲になったのが1945年。冷戦時代の核開発競争は続き、原子力発電所の事故は起こり、20世紀は紛れもなく原子力の脅威に晒された時代だった。無名とともに生きてゆくことを決意した義郎の、「百年以上も正しいと信じていたことをも疑えるような勇気を持たなければいけない」という言葉が印象的だ。「献灯使」として旅立つ無名の前には深く暗い海峡が待ち構えている。果たして、無名が見たのはどのような景色なのか。2018年には、満谷マーガレットが、The Emissaryというタイトルで英語に翻訳し、全米図書賞を受賞した。
  
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『地球にちりばめられて』(講談社)

言語をめぐる旅
最後に紹介するのは、『地球にちりばめられて』(講談社、2018年)だ。コペンハーゲン大学で言語学を専攻する大学院生のクヌートは、「自分が生まれ育った国がすでに存在しない人たちばかりを集めて話を聞く」というテレビ番組に出演していたHiruko, J.という女性に会いにゆく。ヨーロッパに留学している間に、生まれ育った国が消えてしまった彼女は、帰る場所をなくした「故郷喪失者」だが、スカンジナビアの人ならば、大抵意味が理解できる「パンスカ」という人工語を作り出す。
​​​「異文化」の中で生きるとはどういうことなのか。「母語」とはなにか。作者が書き続けてきた主題が詰まった小説であると同時に、移民を受け入れず、他者を排斥する時代を浮き彫りにする小説でもある。自分を包み、縛るものである「母語」の外に出てみるとどんな響きが聴こえてくるのか。地球にちりばめられた響きの中で、「並んで歩く人たち」の息づかいが鮮やかな一冊だ。文学の言葉は、人を立ち止まらせ、つまずかせることもある。けれども、そのときに、はじめて見える景色があり、聴こえる響きがある。伝えるための言葉から、伝わらなさや伝えられないことを表現する言葉へ。この機会に、ぜひとも、多和田葉子の文学の世界を旅してほしい。

​​​
岩川ありさ(いわかわ ありさ)
PROFILE
1980年生まれ。現代日本文学研究、クィア・スタディーズ。法政大学国際文化学部専任講師。主な論文に、「変わり身せよ、無名のもの―多和田葉子『献灯使』論」『すばる』2018年4月号、「どこを見ても記憶がある―多和田葉子『百年の散歩』論」『新潮』2017年5月号、「境界の乗り越え方—多和田葉子『容疑者の夜行列車』をめぐって」『論叢クィア』第5号、2012年9月など。









最終更新日  2019.10.06 05:28:50
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2019.04.27
松岡正剛の千夜千冊 「​​​魔の山」​



「魔の山」は筑摩書房の古い本で読んだ事があるが(笑)
昔の事で内容はほとんど忘れてしまっている
リライトされたペーパーバックも買ったのだが
あまりにもダイジェストされている上に
BASIC ENGLISH 的な英文では
とってもコクが不足しすぎて全く読む気にもならず
今はこのマンション内に存在している事だけは確かだが
正確な所在は不明である(笑)

たまたまだが、こういうシリーズの評論があって
「魔の山」がその中で触れられている

ーーーーーーー

『田村隆一全詩集』を読む(28)
2009-03-18 00:00:00 | 田村隆一

 『死語』は1976年の詩集である。
そのなかの「夜間飛行」という詩。私は、この書き出しがとても好きだ。

はげしい歯痛に耐えるために
高等数学に熱中する初老の男のエピソードが
「魔の山」という小説のなかにあったっけ
そして主人公の「単純な」青年の葉巻は
マリア・マンチーニ

どうして葉巻の名前なんか
ぼくはおぼえているのだ 三十三年まえに読んだドイツの翻訳小説なのに

 この「どうして」を田村は解きあかしていない。解きあかす必要がないと知っているからだ。そういう「どうして」は誰もが経験することである。そしてまた、それは説明できないものだからである。強いて言えば、それは「知らないもの」だからである。「知らないもの」に名付けられた名前だからである。見たことも、すったこともない葉巻の名前--そこには「知らない」ということがとても強く影響している。
 そこにはただ「ことば」があるだけなのだ。わかるのは「ことば」(名前)だけである。存在を知らないから、それをそのまま覚え、それが目の前にあらわれるまで松しかない「ことば」だからである。私たちは、そういうものを、覚えるしかないのである。
 ことばが存在をひっぱりだしてくる。世界のなかから、その前に。
 それは4行目の「単純な」も同じである。この「単純な」は「マリア・マンチーニ」よりも、もっと(?)「ことば」である。「ことば」としかいいようのないものである。「マリア・マンチーニ」は固有名詞だから、その名前がないと何かはわからない。一方「単純な」は主人公の青年の「人間性」をあらわしているが、「単純な」人間性をそなえているのは主人公の青年だけではなく、世の中にはたくさんいるだろう。「マリア・マンチーニ」ということばを手がかりにすれば、世界からその葉巻を探し出してくることができるけれど、「単純な」というひとことで主人公の青年を世界から探し出してくることはできない。けれども、田村は、その「単純な」を覚えている。「マリア・マンチーニ」と同じように。そして、そのことは、その青年をあらわす「単純な」ということば、「単純な」であらわされる青年の人間性を田村が知らなかった--青年をとおして「単純な」ということを知ったということを意味する。
 「単純な」が青年の人間性をひっぱりだしてくる。いろいろな人間性のなかから、その性質を。それを知った、それを覚えている--と田村は、ここでは書いているのだ。「どうして葉巻の名前なんか」という行があるために、そのことは視界から消えてしまいそうだが、葉巻の名前を覚えていることよりも「単純な」ということばを覚えていることの方がほんとうははるかに不思議である。

 ことば、他人のことば。それが田村を洗い直すのである。「魔の山」の青年を、他の青年から区別するのは「単純な」ということばである。どこにでもある、誰もがつかう、けれどトーマス・マンによってしっかり洗い直され、書き記された「単純な」が田村をさらに洗い直すのだ。「単純な」は「魔の山」の青年のような人間にのみつかうべきことばなのだ、と。

 人間は、結局「ことば」を生きているのである。

 「噴水へ」には不思議な行がある。

西風にさからって
太陽が沈む地平線にむかって一直線に
飛ぶ
あの小鳥は「鳥」のなかで飛んでいるのだ
深夜に吠える犬
ぼくらの耳にきこえない危機の兆候
ぼくらの目に見えない恐怖の叫びにむかって
凍りつくような声で吠えている
あの犬だって「犬」のなかで吠えているのだ
それなら
ぼくは「人間」のなかで生きているのか
ぼくの肉体は「動物」だが
心は「動物」よりも鈍感なのさ

 4行目。「鳥」と括弧でくくられたことば。それは「鳥ということば」「鳥という概念」と言い換えることができる。「鳥」ということばで呼ばれ、目の前にあらわれるもの、そのことばを実は人間は「認識」している。
 「犬」も同じである。「人間」も「動物」も同じである。
 こういう状態は、しかし、正しいことではない。というか、そういう状態は、詩ではない。そういう世界は、詩からもっとも遠い世界である。「鳥」ということばを洗い直し、そのことばを洗い直すことで田村自身をも洗い直す--そのとき動くことば、そのときのベクトル、→、こそが詩なのである。

 詩は、このあと、鮎川信夫の「名刺」という作品を引用し、そのあと、次の展開がある。 

この詩をはじめて読んだのは
ぼくが十六歳のときだ
世界はまだ
絶望的に明るくてぼくは「ぼく」のなかで生きていた
ぼくの肉体は動物よりももっと動物的だったし
心は「動物」に属していた
ぼくの目は「言葉」を媒介しなくても
太陽が沈む地平線がくっきりと見えた

 「言葉」を媒介しなくても--ことばを媒介しないところ、ことばを媒介しなくても目で(肉体で)世界をくっきりとつかみ取る瞬間--そこに詩があるのだ。
 「単純な」ということばは「魔の山」の青年を特徴づけることばだが、「単純な」ということばを媒介しなくてもそれはくっきりと存在した。そしてそれをあとから便宜上「単純な」と名付けた(呼んだ)だけなのである。

 ことばを媒介とせずにつかんだもの--それをことばで書くしかないという矛盾。詩は、いつでもその矛盾のなかにある。詩のことばが難解であるのは、それがもともと、そういう矛盾と向き合っているからである。

 「他人」のことばを田村が引用するのは、「他人」のことばは田村が無自覚につかっていることばを洗い流すからである。「他人」のことばにであったとき、たとえば「魔の山」の青年をあらわす「単純な」ということばに出会った時、田村は彼自身のなかにある「単純な」ということばを奪われる。田村の「単純な」は無効である、青年を目の前に出現させるには無効であるとつげられる。トーマス・マンのつかっている「単純な」をつかわないことには青年を把握できないと知らされるのである。だからこそ、トーマス・マンのつかった「単純な」をそのまま括弧のなかにいれてつかうのである。

続続・田村隆一詩集 (現代詩文庫)
田村 隆一
思潮社

ーーーー

私は文学は苦手なのだが
現代詩だけは好きで
高校時代からよく読んでいた

そうか、ハンズは、マリア・マンチーニをくゆらせていたのか
マリア・マンチーニは、ハバナ葉巻であって
なんと今でも発売されている
私もハンス同様(笑)
ハバナ葉巻が好きで
といっても、特に、「ROMEO Y JURIETA」という銘柄
それが大好きで
中東に出張していた時期は
毎日、チャーチル・サイズという一番大きなサイズをくゆらせていた

このマリア・マンチーニという葉巻の銘柄は
マリア・マンチーニという歴史上実在の
ある実在の絶世の美女の名前なのだ
興味のある人はググってみて欲しい

またこの「魔の山」で印象的なのは
謎めいたロシア婦人
どうしてロシアの上流階級の女性というのは
ああも妖しい魅力があるのだろうか?
あれは単にスラブ女性だからという理由では、無さそうである
同じスラブでも
東スラブのロシアの隣の西スラブの
ポーランド・チェコの女性はあのような雰囲気を持たない



それにしても
このトーマス・マンの魔の山も
シュペングラーの「西洋の没落】同様
とてつもない知の巨人の作品であるらしい

ところでこの書のドイツ語の原題は
Der Untergang des Abendlandes
これに対応する英語の題名は
「THE DOWNFALL OF THE WEST」
しかし確か、英語の題名で
「THE RISE AND FALL OF THE OCCIDENTAL」
つまり
「西洋の勃興と衰退」というものもあったと記憶している

この THE OCCIDENTL というのは
THE ORIENT「東洋」 の対比語で「西洋」
こちらの方が「THE WEST」よりも
衒学的なシュペングラーに似合うと思うが

それにしても松岡正剛という男も恐ろしい男である



​魔の山」​上・下​​​
新潮文庫 他 1969
ISBN:4102022023
Thomas Mann
DerZauberberg 1924
[訳]高橋義孝
 ハンス・カストルプの名を会話で交わさなくなって、どのくらいたっただろうか。最後にこの主人公の名が出たのは精神医学の岩井寛さんと出会ったころだったように記憶する。ということは、もう30年近く前のことだ。
 それまではハンス・カストルプはラスコリニコフジュリアン・ソレルドリアン・グレイとともに、あるいはオリバー・ツイストやヨーゼフ・Kトニオ・クレーゲルとともに語られていた。そのころまでは文学の主人公が人生の代名詞か、もしくは難問人生の代名詞であったからだった。
 いまはすっかりそんなこともなくなった。
 誰も、古典の主人公の名どころか、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』ミラン・クンデラの『存在の堪えられない軽さ』の主人公の名すらも決して口にはしない。おそらく憶えていもしないことだろう。もはや名作の主人公なんて、今日の生活哲学のどんな場面にも関与していないかのようなのだ。
 しかし、かつてはそうではなかった。
 文学者の生き方は主人公に投影され、その主人公を通して人間や社会や恋愛を考える者が数多くいた。ハンス・カストルプはそうした者にとって、どうしても欠かせないか、もしくは引き合いに出したい「ある生き方」を象徴していた。
 ハンス・カストルプがアルプスの山中にあるサナトリウム「ベルクホーフ」に入ったのは1913年である。23歳だった。
 サナトリウムには、すでにいとこのヨーアヒム・ツィームセンが入っている。幼時に両親をなくし兄弟もないハンスにとってヨーアヒムは数少ない親戚である。ハンスはヨーアヒムがいることで短期間の療養が充実することを期待するのだが、ヨーアヒムにはそんな気がなく、自分が長期の療養が必要だということを訴える。ハンスもやがて自分の病気が尋常なものではないことを知る。
 サナトリウムが空気の澄んだ場所にしつらえられた結核開放病棟であることは、結核が不治の病であった時代、すなわちペニシリンが画期的な役割を示す以前の時代であったころは、誰もが知っていた。のみならず結核に冒されてサナトリウムに入ることは、人生の思索の終焉を象徴して、それを文学のひとつの“籠城”とみる傾向が強かった。これを結核文学という。
 だから『魔の山』の物語を、ハンスがアルプス山中のサナトリウムに入る場面で始めているのは、この作品全体がそもそも「人間であるということの宿命」を当初から重々しく背負っていることを暗示していた。
 それゆえ読者は冒頭に、院長のベーレンスがハンスの病気が簡単ではないこと、患者になることにもさまざまな才能が必要なことをくどくどと伝えることを読まされる。「読者は患者なんだ」というトーマス・マンの挑戦だった。
 そうなのである。『魔の山』の主題のひとつは「人間にとって病気とは何か」ということなのだ。
 ハンスはこの大作の中で「病気」という哲学に少しずつ接近し、死と隣接する肉体に対して、その肉体の宿命からかぎりなく遠ざかろうとする精神の彷徨を遍歴する。その精神の彷徨を書き尽くしそうとしたことが、『魔の山』を20世紀最後の教養小説にしたという批評があるほどだ。
 だが、トーマス・マンが物語の最後になって用意したのは、ハンスとともに「病気」という安逸を貪ろうとする読者の目を冷まさせるほどの青天の霹靂だった。「病気」にかこつけて精神の彷徨を愉楽とするかのような気分になっていたハンスに、青天の霹靂としてのどんでん返しを突き付けた現実とは、突如としてヨーロッパの生活者のすべてを覆った「戦争」だった。
 トーマス・マンが「病気の進行」と「精神の彷徨」と「戦争の勃発」をひとつの作品に凝縮しえたのは、マン自身が本書を構想し、執筆している渦中のヨーロッパがまさに「病気と戦争」を抱えていたからである。
 そもそも『魔の山』を構想したのが1912年だった。この年、マンの妻カーチャがスイスのダボスの療養所に入院をする。マンもこれに付き添ってダボスで3週間をすごし(例のダボス会議のダボスである)、結核に象徴される現代の「病気」というものの精神性に気がつく。マンはこの体験をいったん『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』(これはのちに第1部とされた)という短編に書くのだが、納得がいかない。そこで新たな構想を練った。
 その2年後に第一次世界大戦が勃発し、ヨーロッパはたちまち戦場となる。
 マンは自身のペンの力によって祖国ドイツを支援する。1915年の『フリードリッヒと大同盟』、1918年の『非政治的人間の考察』は、安易な反戦思想に対するドイツ伝統文化に立脚した反撃でもあった。戦火に見舞われたヨーロッパが反戦民主主義によってみずからを自浄しようとしていた気運に対し、マンは愛国心にひそむ非政治性をもって立ち向かったのである。フィヒテの魂をもつドイツ人らしい異様な情熱だった。
 けれどもこのマンの反撃はマン自身を傷つけた。戦争に巻きこまれる人間の、また戦争に立ち向かう人間の、この両者の人間によこたわる人間論が欠如していたからだった。
 そこでマンは『ドイツ共和国について』『ゲーテとトルストイ』や、『フェリークス・クルルの告白』の新編などを書き、これらを土台にいよいよ「戦争」を背景とした「精神の彷徨」を、「病気」という個人の宿命を通して仕上げることにした。
 それがマンの新たな人間論の枠組を告示する『魔の山』に結晶化することになったのである。
 このようなマンの『魔の山』への壮絶な転換は、文学史では「マンの転回」とよばれている。
 ここではふれないが、この点については、マンの息子で自殺した文学者クラウス・マンが『転回点―マン家の人々』という恐ろしい大著をのこしていて、ぼくはかつてこれを読んで、ヨーロッパにおけるドイツ人という血のものすごさに戦慄したものだ。とうていアジアにおける日本人の比ではない。
 それはそれとして、父トーマス・マンは息子クラウス以上にヨーロッパとドイツを受苦しつづけたのである。
 もっと芸術家としての生き方や書き方で時代をはすかいに眺めてもよかったのである。
 実際にも、トーマス・マンは1875年にリューベックの豪商の家に生まれ、23歳で早熟な天才として前衛雑誌「ジンプリチシムス」に携わって編集の才能を示し、1900年には『ブッデンブローク家の人々』を書いて絶賛を博した。その後も『トニオ・クレーゲル』で芸術家の生き方を問うて人気を攫った。それが青春の危機を苦悩する自画像だとすれば、次の『ヴェニスに死す』は人生の薄明期を迎えた芸術家の危機を描いて、やはり独壇場だった。
 この書き方でもよかったのである。『ブッデンブローク家の人々』には「ある家族の没落」の副題がつき、『ヴェニスに死す』では自身の未来をあざ嗤う表現力を見せていた。のちにルキノ・ヴィスコンティがとびきりすばらしい映画にしたように、このころのマンは表現主義や構成主義に躍るヨーロッパ20世紀初頭の前衛芸術の台頭のなかで、一人、沈静して芸術家にひそむ血の問題を見つめたのである。
 けれどもマンは、こうしたマン家の“血族”に宿るものから芸術を眺めるという方法では、どうしても満足できなかったのだ。マンはドイツという“民族”を代表せねばならず、その民族の将来を抱えねばならず、その民族が戦争に突入してからは、民族を覆う人類の将来を課題にしなければならなかったのだ。
 われわれの国は、どうもこのような巨大な意志としての作家をもちえなかった。
 鴎外がいるではないか、藤村がいるではないか、あるいは大仏次郎や武田泰淳や堀田善衛や大江健三郎や中上健次がいるではないかとおもうかもしれないが、そこにはマンのごとき普遍的な病気と普遍的な戦争を一身に背負うという人類意志があるとは、いえない。鴎外から中上にいたる意志は、そうしたものとはちょっとちがっていた。
 ぼくが『魔の山』を読んだのは遠い大学時代のことであるが、何がショックかといえば、このような文学は日本人には書きえないだろうということだった。
 ドストエフスキーやメルヴィルならあきらめがつく。その作家の癲癇のごとき逆上の詩学に介入する余地もある。しかしトーマス・マンの体験の転回や思索の転回は、同じく結核と戦争に異常な関心をもってきた日本人にもおこりえてもよかったものなのに、どう見ても、そうした転回に耐えられない気がしたからだ。
 理由がないというわけではない。
 マンが『魔の山』の概要を書きおえた1914年は日本がドイツに参戦した大正3年で、日本はその勢いで中国に無謀な21カ条の要求をつきつけた。やっと島村抱月がトルストイの『復活』を公演し、大杉栄たちが「平民新聞」を創刊したばかりだった。
 マンが『魔の山』を完成した1924年は大正13年で、関東大震災の動揺ののち護憲三派内閣をからくも立ち上げた年である。小林秀雄らが「青銅時代」を創刊し、宮沢賢治が詩を発表していたとはいえ、小山内薫と土方与志の築地小劇場のオープンがこの年のことだったように、そのころの日本は大戦争を体験したヨーロッパの苦悩など、まったく知ってはいなかった。「白樺」派がそうであったように、新たなヨーロッパの芸術運動の摂取に夢中になっていた。
 それなら日本は日本なりに「病気と戦争」を抱えた日清日露の体験を通して「人類意志」を表現してよかったではないかというところだが、そのこともここで書く余裕はないのだが、日本人は諸兄諸姉がよくよく知るとおり、鴎外や漱石の表現を、あるいは晶子や雷鳥の表現のほうを選んだのである。
 唯一、このころに「世界」や「アジア」を認識して受苦しようとしたのは内村鑑三や岡倉天心や宮崎滔天らの晩年であったろうが、これらの苦悩は当時はまったく理解されてはいなかった。
 おまけに日本の作家たちがマンの転回と『魔の山』を知ったときには、今度は、日本自身が戦争に突入しすぎて、マンのごとく「民族の苦悩から人類の苦悩へ」という転回をもたなかった。そのころの日本人が「民族の苦悩」をもったとすれば、わずかに柳宗悦らの運動をおもいうかべるしかない。
 こうして、われわれは『魔の山』の書き方ではなく、せめて読み方を確立するしかないところに追いこまれたのだ。
 ハンス・カストルプを"われわれの内なる別人"として噂するしかなくなったのである。それはアントワーヌ・ロカンタン(サルトル『嘔吐』の主人公)やムルソー(カミュ『異邦人』の主人公)を、戦後の復興と民主主義の開花がやっと固まった時期に知って、あわてて"われわれの内なる別人"に仕立てたときの騒動と似ていなくもない。
 ほんとうは、いつまでもこんなことを繰り返さないで、たとえば浜村龍造や竹原秋幸(中上健次『枯木灘』の主人公たち)を語ってすごす午後の時間や夜更けをもつべきなんだけれど―。
 ところで、『魔の山』には何人もの魅力的で悪魔的な人物が対照的に出てくるのだが、なかでロドヴィコ・セテムブリーニの思想とレオ・ナフタの思想の対立が圧巻である。
 セテムブリーニは本書の登場人物を相手に、スコラ哲学を説き、フリードリッヒ大王とヴォルテールの思想を暴き、フリーメーソンの隠れた真意を暗示し、ウェルギリウスから国家論におよんで、しばしば登場人物を煙に巻く。だいたい「自然はあなたの精神をまったく必要としていないんですぞ」という、ある日のセテムブリーニのナフタに対する謎かけが、その後のハンス・カストルプの「精神の彷徨」を約束させたといってもいいくらいなのだ。
 とくに第6章のセテムブリーニの膨大な発言集は、これを多様にホットワード・リンクさせて「魔の山コノテーション・ディクショナリー」にまとめてみたくなるほどで、これに『資本論』を読破していて、ある種の教団思想に熱を入れているナフタの発言集をクロス・レファランスさせれば、トーマス・マンがこの一冊にこめた人間論のデータベースのほとんどが詳細に俯瞰できるのではないかとおもえるほどなのである。
 実は『魔の山』一番の象徴的場面というのも、この第6章にあらわれる。
 これは「雪」と題された第7節にあたる場面で、3年目の冬を迎えたハンス・カストルプがバルコニーから永遠に連なるかに見える雪山を眺めているうちに、この巨大な厳冬の自然に包まれてしまいたいとおもう場面である。
 ハンスはそのまま病院側の忠告を無視して純白の雪山に入っていく。そこはあまりも美しく、そして底無しの沈黙で完成されている。自然は危険もあるが、責任もとらない。超絶の美があるものの、何も言葉にもしてくれない。それが自然というものである。ハンス・カストルプはそこに没入し、そんな冷徹な荘厳に一人立っている自分に感動をおぼえていく。
 かくしてハンス・カストルプは雪中にホワイト・アウトしてしまう(と、ぼくは読んだ)。
 おそらく、このホワイト・アウトが『魔の山』のコーダなのである。たしかトーマス・マンもどこかで第6章の「雪」が最も好きだと書いていた。けれども、マンはそのままハンス・カストルプを許しはしなかった。
 ハンス・カストルプは、最後になって第一次世界大戦の戦場に駆られていくことになる。それは「野生化した科学」に対してホワイト・アウトする自分の自然精神がどこまで立ち向かえるかという実験というものだった。
 ああ、このような結末は、大岡昇平の『野火』となんとちがっていることか!









最終更新日  2019.04.27 21:52:43
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2019.03.08
msk222さんへ
レスが遅くなり申し訳ありません
消えたレスでは(笑)
長々と書いたのですが

レスがあまりにも遅れたので
独立記事として書き直しました

ここでは、短くはしょって(笑)

「短歌の方が作るのが易しい」
こうおっしゃっていましたが

私なりに
この理由について
日頃から思っていることを書きます

◇◇◇◇◇◇◇◇


私見ですが
俳句・川柳は
五・七・五と言う短さながら
七・五の部分で
極めて大きな発想の転換
と言うべきものがあります


一方
短歌においては
五・七・五・七・七 と
下手に長いために(笑)
かえって大きな発想の転換が無い
おしなべて単一の情景描写・感慨の提示・説明に止まる
言ってみれば
非常に短いエッセイ、みたいなもの

そういう印象を持つのですが

例えば
俳句においては

古池や
 蛙飛び込む
  水の音

【古池や】
この部分では、平凡な情景に過ぎませんが
【蛙飛び込む】で、動的な変化があり
【水の音】では、
ー古池が山深い場所にある池であり
小さな蛙が飛び込むだけで世界が変わるほど
-人の気配など無い静寂の中にあったこと

ー自然だけの世界
ー水の音による音の世界の開幕
ーそれにより自然界における小さな蛙という
 動物が引き起こす自然界のみで無い世界
ー蛙が飛び込んだための池面に波紋が広がってゆき
 自然界にもそれなりの変化が
ーそれがしばらくしておさまり
ーまた、もとの、ひとげのないー静寂な世界に戻る
ー一瞬、活性化した世界が、また、もとの完結した静寂世界に戻る
ーそういうサイレントの世界からトーキーの世界へ
 またサイレントの世界に
ー静止映像が動画に、また静止画像に
ーズームイン ズームアウトの切り替わり
ー平凡な静寂の世界におけるそれなりの big story
ー一過性の小さな水音があったために
 さらに今更ながらに静寂が強まる山中の世界

そういう多元的な多くのことが語られている

しかし短歌はそれに比較すると
多元的なものも無ければ
ダイナミックな世界の転換も無い
せいぜい、小さな情景描写心理描写にとどまる
余計な 七・七が、足を引っ張って(笑)
平凡な世界しか表出できない
それから
川柳は、いわば 起・承・転・結
俳句は、いわば、起・承・転・余韻
川柳は結論を出してしまうが
俳句は結論を敢えて出さず
最後を曖昧にして
余韻で終わる
そんな感じ方をしています
だから
短歌の世界は
朝日新聞の投稿欄「声」みたいなもので(笑)
平凡な単一テーマの予定調和に終わる
だから作歌しやすい
そんな風に
勝手に思ってきました






最終更新日  2019.03.08 23:31:14
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2019.02.27
​​俳句・川柳―棲み分け論
伊藤岬
伊藤岬さんについて
伊藤岬さんは著名な川柳作家
現在は障害者施設を経営
どこかの「口先だけ左翼」と違って
本物の社会への貢献を身をもって実践する
筋の通って左翼さんです
楽天では「ひまじんサロン」というブログを持たれ

HNは、msk222さん

先ごろ同じテーマの過去ログを復刻しましたので
いわば重複の形にはなりますが
岬さんご自身もあの議論を独自にまとめられているので
許可を得て、それを掲載させてもらいます

私の記事では
あの頃の楽天は
まだBBSと言うものがあり
そこでの会話も含めての議論が交錯したので
読者にとってはわかりにくい構成となっていました
この岬さんのまとめで、スッキリした形になると思います
​​
俳句・川柳―棲み分け論
伊藤岬​

 「ひまじんさろん」で寺山修司論について書いているときに、読者から川柳と俳句の違いについて掲示板で質問を受けました。返事をしながら、自分の中で確認できたことなど掲載します。

 文中に多くでてくる名前はハンドルネーム(仮名)です。

alexさんは元商社マンですが、博識で文学全般にも広い造詣をもっています。
双方のHPを行ったりきたりの長いやりとりでしたので、冗長部分は要約してあります。また、言葉足らずの部分も訂正してあります。この内容はあくまで僕の考えている川柳観ですが、不正確な部分や異論などございましたら、遠慮無くご意見をお寄せ下さい。

 なお、このやりとりについて、HPで川柳界を批判しているのでは、という声も遠くから戴きましたが、批判や批評は文芸の進歩にかかせない、というのが僕の基本的な考えです。不穏当な表現があればお詫び致しますが、ここで語った内容は誹謗中傷ではないという確信があります。ご異論があればご遠慮なくお寄せください。
 この場に併記して、検討いたしましょう。

寺山修司の句について

alex 岬さんがネット日記で書いている寺山修司論を興味深く読んでいます。
 昔、私の母が大阪の郊外で一人ぽつんと立っていた寺山修司を認めたそうです。驚いて彼を見つめていると、寺山の方も「ほう!私を知っているのか?」という風に母を見返したそうです。
戸山町には住んだことがあります。戸山ヶ原は昔は陸軍の演習場でした。


 寺山修司の作品が好きだという川柳人は多いと思います。しかし、日記のなかに書きましたが、当の寺山修司は川柳を文芸として軽蔑していました。


alex 桑原武夫が『俳句は第二芸術である』と言い切って物議をかもしましたが、そうすると、寺山修司は『川柳は第三芸術だ』と言わなければならなかったのかな?


岬 まさにそのとおりで、第三芸術以下という認識だったと思います。現在でも、川柳の一片だけにしか触れていない文化人の多くは、そんな認識ではないでしょうか。

alex 『かくれんぼ三つ数えて冬になる』私は寺山修司のこの句が好きです。でも、寺山が俳句だと思って書いたこの句は岬さんによると川柳だといいます。
私の解釈ではまさしく俳句の情景が浮いてきます。
 北国の子どもが隠れんぼうをしている。鬼になって目を開いてみたら、みんなは隠れてしまっていて、見慣れた風景の中なのに人気が全く無い。日暮れの影のような世界の中に、ゾクッとと寒い冬の冷気が初めて感じられる。それまでの、子ども同士の無邪気に楽しい世界が突如反転して、寂寥の孤独の世界が出現する。
 というものですが、この句には川柳独特のエスプリが無いと思うのですが―。


岬 ちょっと長くなりますが歴史的背景から説明します。俳句も川柳も、俳諧を源にする文芸です。俳句は芭蕉の「芭風」そして、正岡子規の「写生論」を経て芸術的高みに至ったとされています。俳句の柱は「モノ」であり写生したモノに作者の感慨を込めて表現します。
 川柳は、付け句が独立したものですが、俳諧の「こっけいや軽み、穿ち」をひきづっています。「人情の機微」を表現することから発展してきた、《人の「コト」》が柱です。
 川柳は、古川柳の懸賞投句と、長い「狂句」時代、新聞などでの大衆読者受けする、時事や世相風俗の機知を面白く捻った、一読明快な句を喜ぶ時代が長くつづきました。それ以外の川柳も創られてはきましたが、座の文芸ということで、句会などでシコシコと仲間内だけで楽しんでいました。このため一般人たちは、自分の目に見える、面白おかしい、エスプリの効いた俗情もの(だけ)が川柳と思いこんでしまっているわけです。


OnMyOwn そうすると、俳句は情景や自然現象を扱い、川柳は人間社会の下世話な観察を扱う、という解釈でもいいんですか? 俳句は哲学、川柳は文学というような印象を持ってましたが…。


 「哲学と文学」はいい視点ですね。下世話なことだけが人間のすべてではありません。しかし、最近は俳句と川柳のクロスオーバーが激しくなっていますが、俳人が俳句の下世話なものを川柳と称したり、川柳人も俳句もどきを書いたりして、いっそうわかりにくくなっています。また、能と狂言にたとえる人もいます。
  俳句=能(侘び・寂び)
  川柳=狂言(かろみ・笑い・遊び・風刺)
 日常の「人情の機微」は広い意味で「穿ち」ともいえますが、「人のコト」が面白おかしいことだけでないことを考えれば、俗情だけが川柳の題材でないことはお分かりいただけると思います。


alex 俳句は「モノ」、川柳は「コト」が柱なんですね。


 alexさんは寺山の句をみごと川柳的に解釈しています。その感情の機微の表現こそが広義の「穿ち」であり、川柳の舞台であると僕は考えているのです。もっとも、表現は日々革新されていますから、現代の川柳はこれだけでは説明できていない部分もありますが…。


alex 前記の寺山修司の『かくれんぼ三つ数えて冬になる』ですが、この句は下世話な言葉づかいでもなく、その句の内容は、おっしゃるように川柳的解釈をすれば、深い精神性の世界を描いていると思います。
もし、この句を『ああ、知らない間に、冬の気配が忍び寄ってきた』という『季節感』としてだけ受け止めれば、『俳句』になるということですね?


岬 その通りです。俳句は、余韻を大事にしますから、読んだあとは屁理屈をいわずに句の余韻を楽しみなさい、という姿勢ですね。しかし「無邪気に楽しい世界が突如反転して、寂寥の孤独の世界が出現する。」とまでいってしまったらお喋りが過ぎます、ということになる。逆に、川柳ではそこまで解釈してしまいたいのです。


たあこ 私は『川柳』を『爆笑俳句』『ニヤリ俳句』だと思っていたんです。ときどき面白みがない「川柳」を見かけて疑問でしたが、そういうわけだったんですね。でもサラリーマン川柳は大好きです。


岬 第一生命が募集している、皆さんのお好きな「川柳」ですね、その優秀作を少し紹介しましょう。
 コストダウンさけぶあんたがコスト高
 女房が腹でしてみるだっちゅうの
 恋人がいるかと聞かれ「はいいります」
 面白いでしょう、一読明快誰でも笑えます。このような句を膝ポン川柳といいます。こうしたダジャレや語呂合わせ的な句が川柳だといわれることに、川柳人のなかには不快感をもっている人も少なくありません。では、その人たちはどんな句を作っているか、と思うでしょう。ところが、サラ川を批判する川柳人たちが一所懸命つくっているような作品が、寺山修司にかかればボロクソだったのです。「文芸と呼ぶのもおこがましい」と切り捨てられています。
 僕も川柳人ですから、穏やかならざるものがあります、が、寺山の主張に頷かざるを得ないともしばし感じます。残念ながら、川柳人の僕が読んで面白くもおかしくもない、退屈な川柳が多いのは事実なんです。


alex そうなんですか、私もネットで岬さんの紹介する川柳を読むまで誤解していました。それにしても、川柳は誤解されることの多い芸術ですね。新聞の投稿川柳などは滑稽味・エスプリだけが中心のようですから…。

 私の感想としては『なんだ! 川柳界の方々は、今までちょっと怠慢だったんじゃないの? 川柳って、こんなに深い人間性の精神世界に踏み込める可能性のある文芸なのに、もっぱら滑稽味ばかりに走ってしまい、結果的に川柳の地位を低くしてしまったのじゃありませんか?』と思ったものです。生意気な言葉ではあるのですが。


岬 はい。僕も含めて川柳人の多くは一般に啓蒙したり、外に向けてもきちんと読んでもらえる作品をつくってゆく努力が足りなかったと思っています。それとともに、日本の文化人や新聞などが、無条件に短歌・俳句を芸術的文芸、川柳を低俗な文芸と決めつけている無理解も指摘しておきたいのです。

 それとですね、川柳をしている人たちも、なんでもありだからと、標語のような575を作って、川柳大会での入賞だけに血眼になり、若い人を育てたり一般人へ開かれた文芸にする努力が足りなかったと思います。 ご承知のように、啓蒙ということでは、過去には時実新子が大きくその役割を果たしていました。ただ、あまり偉大すぎて、新子亜流が増えすぎた面もありましたが…。現在では、ようやく短歌・俳句にまけない個性的な作品を書く新しいタイプの川柳人が揃ってきております。
 しかしそれにもまして、マスコミがお手軽五七五を川柳としてどんどん宣伝してくれているものですから(苦笑)


alex 私はどちらかというと俳句より、『精神川柳』(私の勝手な造語です)に興味が向きます。発句するのは、俳句の方がどちらかというと、易しそうな気がするのです。それに関連してモノ、コトの使い分けとしてお聞きします。例えば、『行く春を近江の人と惜しみける』という、芭蕉の句はモノだけでなく、感情のコトも含まれていると思いますが…。


岬 これは、春が過ぎてゆく様子を近江の人と惜しみながら良い季節を愛でている、という様子を句にしたものですね。感嘆は、コトですが、見た情景(季節=モノ)をそのまま心に映して詠んで、モノが柱になっています。こうした自然や季節の移ろい、つまり「モノ」から働きかけられる感興を柱にして俳句は詠んできました。一方、自由律といわれる、山頭火や尾崎放哉などの俳句はきわめて川柳的イメージで書かれていますが、やはり「モノ」からの働きかけによって書いている場合が多いのです。放哉の「咳をしてもひとり」は、病苦の憂いと孤独感がひしひしと伝わる名句です。独白を見事に表現していますが、表現はストレートで捻りはありません。そして、季語がなくても冬というモノを感じます。「夏でも咳きはするよ」という人もいるでしょうが、季語的には冬なのです。 川柳人は、「モノ」を感情の比喩として置いてゆきます(川柳人の中では、区分けを意識せず書いている人もありますが…)。「モノ」は「コト」を表現するための舞台仕掛けといってよいのです。

 拙句で「朝顔描けば朝顔ひらきそうになる」があります。この句から、俳人は美しい朝顔とそれを描く人…、といったイメージを描くでしょうが、僕は川柳的に読めば、読者はもう少し淫らな想像に進むにちがいない、という姑息な計算の元に「朝顔ひらく」を使っています。この句で朝顔は句の柱ではなく、読者の妄想「コト」をひきだすための道具なのです。
 一応お断りしますが、このように解説するのを「自句自解」といって普段はあまりしません。しかしここでは創作意図を理解していただくためにあえて解説しています。


alex NHK教育で、短歌の番組を何げなく観ていたのですが、『字余り』について、『確信犯的なクロスオーバー』についてコメントがありました。

「形式破りなのは承知での勢いのある字余りは、かえって迫力・思い入れが分かり、効果がある」と…、なるほど!と思いました。形式にこだわり、形式の中に安住することより、あえて形式を無視する勢い、思いは、わかる人にはわかるし、異様の魅力になる……と。


岬 はいそのとおりですね。ただ、技術の未熟から形式を無視するのは怠慢でしかありません。ここでは、これ以外ないというときに、破調(異形)は許されるべきものです。575以外は絶対認めないという堅物もなかにはおりますが、それは認識不足と申しておきましょう。



本人が川柳だといえば川柳か?

olive 作った本人が川柳だといえば川柳、俳句といえば俳句ということを聞いたことがあります。


岬 今や俳句と川柳は作者名でしか区別がつかないという人はいます。しかし、この主張はどこか自己弁護的であり、大事な部分からの「逃げ」だと僕は思います。川柳人がつくっても、俳句は俳句。俳人がつくっても、川柳は川柳です。ただ同じ作品でも、川柳的解釈も俳句的解釈もできる句というものがありますから、これらは作者のジャンルで分けるしかないでしょうが、いままで語ってきたように分析してみれば、分別できるものは多いと思います。ただ、俳人が自分の句を川柳だとか、川柳人がこれは俳句だ、とは言いたくないとは思いますが―。


alex なるほど!と、深く納得致しました。それでもいい句は、俳句にしろ川柳にしろ、クロスオーバーを含有しているかもしれませんね。


岬 そして、僕にもいえますが、俳人も川柳人も新境地を開拓するためにお互いの国境を越える(あるいは確信犯的に越えたがっている)フシもあります。紛争地、あるいは男女の仲と同じですね。これ以上は越えてはいけないと思っても、その先にある何かを手に入れたくて、つい越えてしまう。後は野となれ山となれ…。


alex 付け足しですが、俳句は、対象としての自然界を観察したあと、一応自分の内的世界にそれを取り込み、また、それを自然界の対象に返す……ような気がします。いつまでも、心の中にとどめて、感慨に耽る事は無い。何か、禅のような。
 一方、川柳は、自然界に限らず社会の状況などから感興・感慨を感じますが、その感慨・感興は心の中で、具体的なものとして定着する。
 俳句は小学生からつくりますが、川柳は子どもにはむずかしそうですね。


岬 俳句は季語があるから形にしやすい。3分の1は始めからできているようなものです。歳時記から季をひいて、それに言葉を添えれば一丁あがり。だから、季語が頭に入っていれば誰でも俳句をたしなめるともいえます。しかし、それだけに添えることばの取り合わせのセンスで、力の差は天地ほど開きます。俳句は入るのは簡単そうだけれど、極めるのはなかなか難しい。
 川柳は、基本的には、白紙からの出発になりますから、構成力や想像力(妄想力?)巧みな着地というものが必要となります。始めから一定の技術や経験がないと良い作品はできにくいものです。ですから、俳句よりはとっつきにくいかも知れません。しかし、俳句ほど言葉遣いの約束事や制約がなく、表現法や題材にはことかきません。コツをつかむと一定レベルまでらくにできます。
お年を召してから、呆け予防に入る人もおりますね。


alex 俳句では、季語という下駄を履かせてくれる。それにとりあえず写生をすればいいから、入門レベルの義務教育?までは、だれでも割合に楽に進学?できる。

 一方、川柳は、感覚ではなく説明だから、即物的に解答がモロに出る。しかし、お互いに頭のキレで勝負をせざるを得ないという、逃げがきかないキビシイ世界。そう解釈してみました。


岬 そうは言っても、俳句も川柳も五七五の言葉遊びです。文芸人の自己満足、果てしないひとりよがりの世界です。しかし、ムダごとこそが文化で、日本語遊びの高雅なところです。俳人も川柳人も、言葉のとりあわせの妙を愛でて「ウン、ウン」と頷いているといったところですね。



英語俳句、英語川柳について

olive 上野市で芭蕉生誕三六〇年 世界俳諧フュージョンがあります。アメリカとかイギリスの俳句協会から来た人が連句を行うそうです。


alex 『古池や 蛙とびこむ 水の音』 これを様々人が英訳していますが、私から言わせれば、全くダメです。とても俳句になっていません。

 そもそも俳句とは、日本語でなければ成り立たない文芸です。日本語は膠着語という語族に入っています。朝鮮語・トルコ語・フィンランド語・エストニア語・マジャール語(ハンガリー語)などが、この語族だと思います。
 しかも、単語がカバーする意味があいまいで、同音異語が多い。こういう言語でないと俳句は不可能だと思います。ただ、はじめから英語で作る俳句はそれなりのスタイルを成立させることが出来るかも知れません。あくまで可能性の問題ですが。
こうちゃく‐ご【膠着語】
(agglutinative language) 言語の形態的類型の一。実質的意味を持つ語や語幹に機能語や接辞を付けて、さまざまな文法範疇(名詞の格や動詞の法・時制など)を表す言語。日本語はその一例。スワヒリ語・トルコ語・朝鮮語などがこれに属する。付着語。


岬 僕は、語学に弱いので、正確には答えられません。感覚的にいうと、俳句の味わいは日本という風土と言葉があってこそのものだと思います。

 たとえば季語が効かない世界で俳句をつくっても実感がない。俳句の優れた味わいどころは、言葉を放ったあとの空間です。英語で日本語と同じ空気を生みだせるかどうか…。むしろ川柳の場合は、基本的には意味(コト)ですから、外国語でも作りやすいような気がします。


alex そうですよね。英語だと単語が明晰すぎるので、意味の輪郭がクッキリとして、余韻が残らない。意味の幅出しが全然出来ない、ファジーな味を出せない。それに言葉のつながり方が違いますよね。


岬 外国から渡来した方々が、能や狂言、禅、陶芸、そして囲碁や日本酒など、日本文化に熱心に取り組んで、その人たちが、下手な日本人より文化の奥義を掴んでいると思えることがしばしばあります。

 例えば、大相撲で朝青龍が横綱を極めましたが、僕には、風格とか、どこか違和感があります。その程度のことかも知れませんが、根底にある Soul や Spirits といった俳句・川柳文化の精神の部分を、英語で極めるのは困難な作業かも知れませんが、先にあげた例もあります。
 相撲や囲碁などのゲームは、最後にはデジタル的に勝ち負けが判定できますが、短詩文芸は「余韻や言葉の空間、行間の伝達といったファジーな要素を楽しむ」文化だけに、それらしいものをつくることまではできても、感覚的に本質的なところまで入り込むのはとても難しいことではないかと、思っております。
 しかし、日本文化としての短詩文芸を外国語で理解しようとしたり、楽しんでくれる人が増えてくれることは喜ばしいことで、外国人が挑戦してくれることには両手をあげて賛成します。


alex ここまで話し合うにあたって、川柳について、ネットであちこち調べてみました。基礎的形式についての説明はあったけれど、心に染みいるまでの納得の行く説明はありませんでした。極めて表面的で、もっと大切な、俳句と川柳の本質・精神について、説明しているものがなかった。それを岬さんは、いとも簡単に、私の心情的?疑問を汲み取って回答をくれました。これからは、俳句・川柳を、目からウロコというより、まるっきり違った視点で、眼鏡を新調したような……、そんな世界で解釈できるような気がします。


岬 過分なお言葉ですが、僕も先輩方の考え方から自分なりの焦点を結んでいるに過ぎません。たぶん、俳人や川柳人のなかには、「いや違う、これこれだってある」とさまざまな論を持ちだす人もいるでしょう。しかし、あえて強弁すれば、ほとんど、ローカルルールといっていい状態です。その人の周囲での通用にとどまっています。

 俳句も川柳も、自分の都合だけに固着して主張していても、ダメです。俳句とは何か、川柳とは何か、という命題にわかりやすく、誰にでも認められる公式が求められていると思います。
 もし、この説明では不足していると思われる方がいたら、どんどん議論に参加してください。議論は揉まれることで、内容も磨かれてゆくはずです。


alex 川柳が今まで思っていた軽薄短小なものではなくて、深く拡がりのある文芸だとわかって、とてもよかったです。これからも、岬さんがいい川柳としてお薦めできるものを、ネットのなかでどんどんご紹介ください。


岬 いいサイトもありますから、僕のリンクページからでも探してみてください。どうもありがとうございました。







最終更新日  2019.02.27 15:57:07
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2018.12.23
​​​★★ 復刻記事 20世紀に英語で書かれた小説、ベスト100篇


復刻に顕著な意義のある記事、というものがある
私にとって、この記事は、貴重な記事である
よくぞ、この記事を書いたものだと
自分で自分を褒めてやりたい

私のの灰色の脳細胞も、まだ元気で
才気に富んだ知的なリンク友達が、まだ楽天にいて
みなで楽しく、文学について話し合った
そういう時代の記事である

リストアップした直後は
英語題名なので、気がつかなかった者の
邦訳ですでに読んでいたり
映画化されたものを見ていたり
ドンドン埋まってゆく
またみなさんからいろんなヘルプが入っている


下の url は、コメント欄に置くので
そこでクリックしてもらえば
オリジナル記事と寄せられた多くのコメントにリンクとなる

    ↓↓↓↓↓↓

https://plaza.rakuten.co.jp/alex99/diary/200410200000/comment/write/#comment







最終更新日  2018.12.23 15:11:37
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2018.11.20
​​YouTube First Class - Literature, Kazuo Ishiguro - My Secret of Writing, Part 1A [1080p]
https://www.youtube.com/watch?v=2m1JEaZOppM​​

Literature, Kazuo Ishiguro - My Secret of Writing, Part 1A special lecture held by highly acclaimed writer Kazuo Ishiguro for students studying English literature in Japan.






最終更新日  2018.11.20 08:51:43
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2018.10.25
★★ 
復刻記事 読書   
​出口治明著 『人生を面白くする本物の教養』​  ​
カテゴリ:【知的思考・教養・知性】
2016.02.12


   ーーー まとめ ーーー




       ―――― 目次と私のコメント ――――

目次
はじめに
第1章 教養とは何か?
​​■ 人生を面白くするためのツール

■ 「自分の頭で考えられる」ことが教養
■ バロメーターは「腑に落ちる」という感覚

日本人は、意見を求められても何も言えない人がほとんど
欧州人と比較して、この点が、大きく劣る
日本人に民主主義など無理なのである​

 
  
第2章 日本のリーダー層は勉強が足りない​​
■ 「この人は面白そうだ」と思ってもらえるか

■ 決定的に重要なのは「自分の意見」を持っていること
  
  「考える力」をつけさせる連合王国の教育

■ (日本は)自分の頭で考えないほうが都合がいい社会
  
   
第3章 出口流・知的生産の方法​​​​​​
​​​​​​  「

■ 「国語ではなく算数」で考える
■ 「数字・ファクト・ロジック」で考える

■  物事の本質はシンプルなロジックでとらえるべき
■ 「何かにたとえて」考える
■ 「修飾語」を取り除いて考える
  「常識を疑う」ことは常に必要

■ 機密情報よりモノを言うのは「考える力」


■ 自分の行動を「ルール化」して判断を省力化
■ 身近な人を目標にすると努力が続く
  
​​​​​​
第4章 本を読む

  書店は楽しい、図書館も活用

第5章 人に会う
■ 誰とつき合うかの基準も「面白いかどうか」

  原則、ホテルの予約はしていかない

第7章 教養としての時事問題​

​■ 時事問題は「本音は何か」「動機は何か」で読み解ける

第8章 教養としての時事問題

  原子力問題は多くの人が考える以上に難しい
■ 凄まじい勢いで伸びている、途上国のエネルギー需要
■ 地球温暖化は人類の英知が問われる課題


​第9章 英語はあなたの人生を変える​



第10章 自分の頭で考える生き方
​ 
■ 「てにをは」を正しく書けない人は筋の通った思考ができない






最終更新日  2018.10.25 08:25:42
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2018.10.01
古典を読みたくなったが


最近、ブロッガーさん達が
「失われた時を求めて」などの古典文学を読んでいる
と言う事を書いている事が多い

私としては
「本当かな?(笑)」と根拠無き疑いを持つ一方
私も古典を読みたい!
と言う思いがふつふつと湧き出てきた

しかし、私は
数千冊の積ん読本を倉庫に秘蔵する
という、読書における前科者である(笑)
これ以上、罪を重ねてはいけない

例の富田林署から逃走した犯人が
日本一周の自転車旅行を装っていたところを
逮捕されたと言う事だが
彼は確か「加重逃走」という罪名出会ったと記憶している

こういう罪名があるのであれば
この私がさらに古典名作を購入などしたら
「加重積ん読」という罪名をかぶる事になりはしないか?
そう思うと、古典名作の購入使用という意欲はサスペンドすべきだろう

では、この古典への熱い想いをどうしたらいいのか?
考えてみた


● まず思いつくのが、図書館の利用というオーソドックスな方法である
私は文化都市に住んでいるので
図書館は本館と分館の二館も available なのである
ただ、財政が逼迫している文化都市なので
図書館の蔵書はやや貧弱で
魅力的な新刊本などは充分なものが購入されない
ただ、私の積ん読蔵書の断捨離には
「図書館にある図書は原則として捨てる」
と言う名案を思いつき、ほぼ実行中である
これによって膨大な私の積ん読蔵書も、かなりスリムになった


● 次に考えつくのは「青空文庫」である
すでに著作権が切れた古い本を
篤志家がネット上にアップしてくださってる
これは便利だ
私など、この存在を思い出してからは膨大な積ん読蔵書(こればっかり)
から、青空文庫にあるものは、断固、捨てる
と言う非情な決断を下して、これまた、実行中である
ただし、好きな夏目漱石(と言う割にはあまり呼んでいないが)(涙)
だけは、あまり捨てたくない気持ちである

この青空文庫の大きなメリットは
目の悪い、目まで悪い、インドネシア語で言えば
「カチャ・マタ」(悪い目の意味)のこの私でも
ネットなのだからフォントを拡大すれば
楽々読書可能な点である
ただ、楽楽なはずなのになかなか読書しない点は反省の余地がある


● 次であるが
いわゆる自炊である
膨大な蔵書を(こればっかり)業者に送れば
業者がその蔵書を無慈悲にバッサリと裁断して
コピーして電子書籍化してくれるのである
膨大な蔵書(こればっかり)が、哀れにも、小さなUSBチップに姿を変えてしまうのである
哀れ、と思う必要は無いかも知れないが

まあ、このように
有用で有効な方法を知っている私の古典名作読書は
前途洋々である

ブログなど書いている暇があれば
人格形成に有効な古典名作を読もう

と決心する今日この頃です

今から人格形成
私の問題点です









図書館利用
青空文庫
中古本
自炊・電子書籍化








最終更新日  2018.10.01 19:06:57
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2018.09.30
​​★★ 
復刻日記 
ハーフムーン・ストリート

カテゴリ:【英国】での思い出 歴史
2009.01.14

復刻するにあたって
現在の私自身の立ち位置からの感想や注釈を
​水色マーカーで挿入する事とする

また、すこしリライトしているし
体裁を整えた部分もある​



(前略)
(復刻するには無駄な冒頭部分を削除した)


私は読書中に傍線を引くタイプである
「三色ボールペンで読む日本語」というベストセラーも買って
一時はこれを実行しようとした
​​○ 重要事項にはブルーのボールペンで傍線を
○ もっと重要な箇所には赤、レッドの傍線
○ 個人的興味の箇所にはグリーンの傍線

​​
こういう傍線の引き方をすれば読書が効率的に深く分析的に行え、
再読の時の効率がまるでちがう・・・という理論
私は原則的に、これを実行している
今はこういうことを実行する以前に
読書そのものをほとんどしなくなった
​今、私がいるのは、ほとんど、ネットの世界である​

ただ私の場合グリーンの傍線はめったに引かない
もしれいがいてきにひくとすれば、それはフィクション、つまり文学書関係である

​その文章や、表現法に、参考になる部分、リサイクル出来そうな個所に
グリーン・ラインである

普通の実用書や科学書、歴史書などでは
もっぱらその内容である新知識を吸収する受け身になってしまって
私個人の意見・感じ方、反論などはほとんど浮かび上がらないから
グリーンの傍線を引くケースはほぼ文学関係に限られる


​興味ある小説などの中で
作者の観察眼やコメントに同感な箇所に引くのだけれど
ときどき引きまくりの小説もある
そのひとつが、これから紹介する
「ハーフムーン・ストリート」である
       ―――― ◇ ――――

​私は米国人ながら英国生活が長く英国人と言っても言いい
ポール・セロー(Paul Theroux)という作家の本が割合に好きなのだが
彼の「ハーフムーン・ストリート」という小説を最近読んだら
グリーン・ラインが一杯になった​

特に前半部分である

この小説の概要は次のようなもの :

米国人の若い女性がロンドンの国際政治研究所で働く内に
(だからインテリ女性)
あるきっかけから副業として、いわゆるエスコート・ガール(一種のコールガール)
をするようになり、英国やアラブのお金持ちやインテリのお相手をする


そのうちにハーフムーン・ストリートというロンドンのウエスト・エンド(高級商業地区)にある
ある通りにあるフラットをパトロンのひとりからプレゼントされる

話はまだそれから続くことにはなるのだが・・・

この小説は、この若くて知的で魅力的で・・・
それでいて、とても冒険好きな女性の目を通して
色々なことが語られるわけだが
この女性の目というのは
実際には、性を超越して「作者、ポール・セローの目」でもある訳で

普通の小説ではそれほど主人公の思考が語られることが無いように思うけれど
このセローは実に鋭いしなやかな分析や観察をして、この女性に語らせている


しかもなんていうか、実に私ごのみの思考なのだ
だからグリーンの傍線が増えることになる

       ―――― ◇ ――――

このハーフムーン・ストリートは
先に言ったようにウエスト・エンドという
まあ日本で言うと銀座のような高級商業地区にある

ウェストエンドの中心にピッカディリー・サーカスと広場がある
そこからまっすぐにハイド・パークに伸びる大通りがピッカディリーである

そのピッカディリーに対して直角に
いわば櫛の歯のように平行にいろいろなストリートが延びている

たとえば有名なボンド・ストリートなどもそんなストリートの一つで
それこそ世界の一流ブランド、グッチとかシャネルとかカルティエだとかが軒を連ねている

それなのに、そのボンド・ストリートの一つ隣のハーフムーン・ストリート
このロマンティックな名前を持つ通りは
なぜかひっそりとした人目につかない、気配の無い通りである

もちろん、一流店などは目につかない

だからこそ、あの主人公の女性のおしゃれな隠れ家と言う設定がうまれたのだろうし
本当に、そんなフラットなどがあってもおかしくない

       ーーーー ◇ ーーーー

私は以前からこのハーフムーン・ストリートという通りの名前が
何となくロマンティックな気がして気にかかっていた


この通りを歩いてみると
通りの中程に
通りの名称そのままのハーフムーン・ホテルというホテルがあった

ある時、日本からの来客の宿泊用に、このホテルを初めて予約してみた
念のために下調べとして訪問してみると、決して大きなホテルではない
むしろこじんまりしている

しかし内部のインテリアなどにある種の古風な優雅さがあって
私としては気に入ったと言ってもいい

日本からそのお客が到着してそのホテルに送り込んで
そのホテルから出てみると、ちょうど夕刻だった

このストリートからピッカディリー大通りをながめると
その上空あたりの空が赤く染まっている


そうして、その低く沈んで行く、紅くて北国特有の大きな夕陽が
このストリート全体をあまねく照らしていて
まるで私の人生に、何か荘厳なことが起きたような、一種特別な気持ちがした


       ―――― ◇ ――――

追記

この記事の最後の部分の文章を
気取ったキザな表だと思ったのか
あるコメントが入ったので
その関連で、私のレスを追記しておこう

ーーーー

コメント その1

この記事の最後で、こういう事を書いたら、OLIVE さんから「その後何か荘厳なことが起こったか?」と茶化された (笑)
>このストリートからピッカディリー大通りをながめると、その上空あたりの空が赤く染まっている
そうして、その低く沈んで行く、紅くて北国特有の大きな夕陽が、このストリート全体をあまねく照らしていて、まるで私の人生に、何か荘厳なことが起きたような、一種特別な気持ちがした
ただ、この文章は、口から出任せに書いたわけでもないのである
緯度の低い欧州では、季節によって、太陽が非常に低くなって、非常にまぶしい
それが、雲の切れ目から地上を照らすと、エル・グレコの絵にあるような、神の光臨のような雰囲気に包まれることがある
エル・グレコはその名前からギリシャ系の先祖を持つ人かなとは思うが、一応、スペイン人のハズである
スペインではそれほど緯度が低くないから、そのような現象は起きないはずだと思うのだが、どうなのだろう?
エル・グレコが北欧に行ったことがあるのか?
それとも、単に、彼の宗教的インスピレーションなのだろうか?



コメント その2

私、結婚式は欧州で挙式したのですが、
その帰り道で、重いどんよりとした厚い雲が、突然途切れて、
そこからエル・グレコの光が地上に降り注ぎ・・・ (笑)
だから、実感です

そこから、「荘厳」な現実が始まりました(涙)


​       ―――― ◇ ――――

なお、復刻元の記事の URL をコメント欄に置くので
元記事に寄せられたコメントをも読みたい人は
その URL をクリックしてください







最終更新日  2018.09.30 16:27:31
コメント(2) | コメントを書く
2018.09.28
​​Yukoさんへのレス

Yukoさん​​
>私にとってのハードボイルドと言えば何と言っても
フレデリック フォーサイス!
作品の中でも(騙し屋)はもう何冊購入したか数え切れません。
何故なら親しくなった男性に
(この人は、これを解ってくれるに違いない)と思った人に
差し上げてしまう事が多くて、
又自分が読みたいが為に購入を繰り返してしまうからである。
ーーー
フォーサイス!
いいですよね
いかにも英国の作家
彼の書くものは、彼自身の体験がベースであることが多いはず

私は、日本語でしか読んでいないけれど
● ジャッカルの日
● 戦争の犬たち

>女々しさも含めて、時には己を突き放した笑いで色んな事を受け入れ、
ーーー
私の周囲の人間は家族も含めて
私をどこを見ても男らしいと言うけれど
私はわかっているんです
幼年時代は泣き虫だったし
少年時代は詩を読むようなやわだったし
社会人になった時もまだ感受性が強くて
(今はうまく、すり減ってくれましたが)(笑)
女々しいのでは無いか?
そう見られているのでは無いか?
そういうコンプレックスが常にあった
女性って、そういう男性の心の芯の部分まではなかなかわからないようで
でもYukoさんは
そういう男性の弱さを見抜き
好物にさえしているようで
恐ろしい(笑)

>何と言っても美しい不器用さでががむしゃらに。
こういうものがとんでもなく深く広い知性の土台に乗っかっている訳で。。。。
ーーー
なるほど
そういう視点があれば
開高健も美しい男(笑)

>世の男性は女性が持っていない、
女性には理解し難い
複雑な照れの構造や繊細さがあるようで、
ーーー
誰でも、って訳でもないと思うんです
ほとんどが、愚かで卑猥(笑)

>そういう土壌から偶然実った果実が林檎?
イヴはやっぱり味わってみたくて食べちゃうよね(笑)
楽園追放のストーリーは、この際すっ飛ばして
マリアの受胎告知に飛んでみよう。
場所はやっぱりフィレンツェだよね。
以前フィレンツェに滞在したのは、
個人が所有して人に貸している小さなアパートでした。
ーーーー
ほんとにフィレンツエって
(無粋にフローレンス、と言い換えようかな?)
宝石箱のような街ですよね

昔、映画BBSに、フィレンツェに短期間住んでいた
と言う若い(らしい)女性がいて
とても魅力的な女性で
とても惹かれました
(顔も知らないのに)(笑)
あれは、Yukoさんじゃ無いですよね

>エレベーターが恐ろしく狭い小さなもので
アイアンの黒いレリーフが何とも精緻なレースみたい。
窓を開ければ小径を行き交う人の頭上に
うるさいぐらいの教会の鐘が鳴り響き。
ーーー
「鳴り響き」
アブダビに滞在していたとき
宿舎がビルの十数階にあり
ある日、停電になり
十数階を徒歩でのぼり
クーラーも停まり夜も猛烈な暑さで眠れない
仕方が無いのでシーツをバスタブに浸して
それをかぶって寝ようとしたが
十分でシーツが乾燥してしまいました(笑)
おまけに、窓の外に隣のモスクの塔があり
こちらを向いたスピーカーからアザーンの祈りの轟音が
「鳴り響き」(笑)

>滞在中、霧の様な小雨がずっと淡いブルーグレーの雲から煙って、
気まぐれに時々御日様。
バッグの中に入っている鍵が重くて重くて(笑)
エントランス、階段のフロア、部屋、と三つひと束で
実に見事な鋳物のアンティーク。
ーーー
私も東欧の古い建物に住んだ頃
ポケットに建物と部屋の無駄に大きな鍵が数本も(笑)
あまりの重さに三歩と歩けず(笑)


>ハードボイルはいつだって痩せ我慢なのだ!
ーーー
そのことを復刻記事「ハードボイルドとは」
に書いたので読んでください








最終更新日  2018.09.28 00:32:13
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