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カテゴリ:キリスト教
今日は受付でした。いつもより30分ほど早めに家を出て、教会につくと、聖書とかがすでに準備してあり(^^;、もっと早くから来ていた人が「だいたい準備しておきましたから(^^)」って(^^;。あ~、しょっぱなから役立たずみらいデス~(笑)。
そして、受付では、礼拝に来られた方の出席を記録していくのですが、PDDちゃんの僕は、もう5年以上教会員として存在しているはずなのに、いまだに顔と名前が一致しない人がいたりして、この受付の奉仕というのが一番(…いや、一番は、子供祭りとかのイベントかな?)(^^;ニガテなものでしょうかね~。 でも、今日は牧師婦人が途中でチェックしてくれたり、最後にも何度もチェックしてくれて、ホントに助かりました。僕が重荷に感じているの、やっぱり知ってらっしゃるのでしょうか(^^;。ダメクリみらいだねぇ(^^;。 今日はいつものようにディボーションスクールもあり、今日は実際にみことばから学んでかいてみること、実践を宣言する訓練などをしました。もう、スクールも大詰めまできました。あと数回で終わりデス。僕が「あ、僕は信仰がどっかに飛んでいってしまって、ぜんぜんダメです」ってスクールの中で先生に言うと「いや、もしホントにそうだったら、あなたはこうしてスクールには出席していません!」って(^^;。小さくとも、信仰の種みたいなものが、ちゃんと存在しているのでしょうか(^^;。実感なし(笑)。 さて、今日の礼拝は新約聖書のマルコ14章1~9節より「あなたの香りは?」と題して礼拝説教がありました。 -- 新約聖書マルコ14:1~9 さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。 彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が述べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」 -- さて、このところからも、なんとなく読み取ることができますが、お弟子たちは、イエス様の十字架を心から信じていなかったんですね。いままでイエス様と行動をともにし、イエス様は何度となく、お弟子たちにイエス様の使命を語られてきました。しかしそれを悟る人たちはいなかった…これは典型的な、僕たちの姿を(もちろん十人十色デス。でも実にそれだけの個性豊かな人たちの姿が別の箇所でそれぞれ描かれています)表している、といっても過言ではないかもしれませんね~。 そんな中、一人の女性が、大変高価な、しかも純粋で混じりけのない、貴重な香油をイエス様に注がれました。彼女は、この本文ではかかれていませんが、ベタニヤのマリア(マリアとマルタの話で出てくるマリアです)。 この行為を見たお弟子は、この女性に「何でこんな無駄なことをするのだ!こんな高級な香油なら、高いお金で売れて、貧しい人に施しができるのに」などといって彼女を責めました。しかし、それは本人が自覚していたかどうかは置いといて、本気で「貧しい人に施しができる」と思っていたわけではなく、悪く言えば、もっとよこしまな下心的なものがあったのです。 ちなみにこの発言をしたのは、後にイエスを裏切って、死刑囚としてイエス様を渡した、イスカリオテのユダです。 マリアは、イエス様にこれからどのようなことが起こるのかということを無意識に知り、それこそ無意識にこのような形で、惜しみもなく愛を表現されました。 教会にいけば、たとえば献金があります。でも、献金の金額の大小で信仰が決まるのではなく、どれだけイエス様を信じ、愛しているか、これだと思いますね。 イエス様は僕たちを愛する最大の表現として、僕たちのすべての罪や苦しみなどを背負って、十字架にかかり、処分してくださいました。 マリアの行為にしてもそうなのですが、福音というのは、タイミングがあります。そのとき、そう、適切な「時」というものがあります。そのチャンスを逃してしまうと、意味をなさなくなってしまうのです。そう考えると、時というのは大切ですよね。 それから、マリアが注いだ香油は、それは効果で純粋で、まじりっけのないもので、すばらしき香りを放った、と伝えられています。クリスチャンとしての香り、品性とは、なんでしょう?クリスチャンは、主の愛にこたえている「献身者である」ということデス。だから、主のためにささげるのです。でも、決してそれは「偽善」ではなく、意識するのではなく自然にそうしているのです。 たとえばですね、主にささげるといって、具体的に目に見える行動を起こすことがすべてではないと思うんですね。極端な例かもしれませんが、礼拝に出席する。これも神様への愛を立派にささげていると思います。立派な献身だと思います。日常のお祈りなんかでもそうデスよね、さりげないことかもしれませんが、僕は立派な献身だと思います。 これらは、イエス様を思う、愛する、純粋な気持ちがそのようにさせているのです。 僕たちはどちらかというと、受けることばかりを考えてしまいます。でも、与えることのほうが喜びとなる、と学びました(ただし、先にも書いたとおり、たくさん献金したからいい、という意味ではありません)。 旧約聖書でカインとアベルの話が出てきます。アベルは惜しげもなく栄生のものを神様にささげました。一方、カインは自分の要らないものをささげていました。 愛の行為はうれしいものデス。それが例え不完全なものであったとしても、動悸がココロのそこから出たのであれば、神様はうれしいのです。 最後に大事なこと。イエス様を愛する愛はどこから来るのか?実は、マリアがすばらしいのではなく、マリアをそのようにしたいエス様こそすばらしいのです。本来人間に愛はない、とキリスト教では教えられます。愛はイエス様から与えられるものなのです。イエス様によって、一人一人、作り変えられていくのです。 …長い(笑)。というわけで、礼拝レポートは終わります(相変わらず中途半端だなぁ)。 礼拝のあと、ディボーションスクールもありましたが、今日は先にも書いたとおり、実践的な訓練をして終わりました。あと1~2回程度で、スクールも終わりデス。しかも来週はお休みデス(笑)。再来週からvvなのですが、再来週も、僕は個人的理由で(笑)欠席します(^^;。おいおい(笑)。こうして、ダメクリ街道まっしぐらに進んでいく、さすらいのみらいでした(^^;。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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