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水天宮の不動産コンサルタント 社長+ジャズボーカリストの卵の日記

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2006.05.24
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カテゴリ:住まいについて

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私たちは結婚してから18年経った。
この間に、家族のアルバムが3ステージくらい変わった。

その度毎に、”住み替えなくては”と切に思った。
計画していたわけではなく、それまで無かった思いが急に表れて、”住み替えなくてはいけない”という感情を掻き立てた。

その第1ステージについて、今日はお話したいと思う。
------結婚から長男が小学校に入学するまで-----

結婚したとき、私は住まいに対する何のこだわりもポリシーも無かった。
主人が家購入を希望したので、何の疑問もなく、そうした。
ただ、外国に住んでみたかった私は、子供が小さいときに、広い芝生の庭で、お花がたくさん咲いて、大きな犬がいて、、、という生活がしてみたかった。
そして、そういう生活ができる郊外の戸建てを購入した。

この時点で他の人と違うのは、私たちは家を購入したが、そこに一生住むつもりはなく、ライフスタイルに合わせて住み替えるという発想であった。
時はバブルに向かっており、好況で、私も子育て中はのんびりして、3年で社会に帰るんだと思っていた。主人1人で組んだローンも、2人で働くことになれば(いつでもそうできる気がしていた)、大丈夫だと思っていたし、何よりバブルに向かっていたので、他にも不動産投資をしていて、心配は全くしていなかった。

購入した家は東京駅から通勤快速で50分。しかし、家から駅まで車で10分かかるので、実際にはDoor to Doorで1時間半から2時間くらいかかったらしい。

主人は電車に乗るのがもともと苦痛でなかったようだし、当時はリゾート会社勤務で、本社には週3日くらいの出勤だったので、その距離も気にはならなかったらしい。

我が家は土地70坪/建坪30坪の北道路の家を4000万位で購入した。犬は放し飼いにするというポリシーだったので、オリジナルにフェンス工事までした。庭も凝って、自分で選んだ木を配置してもらった。

家を持ってわかったことは、自分が育った家は”母”の家だったんだということ。
この家はカーテンもソファも自分の好きな生地でオーダーして、家具も揃えて、自分の好みが繁栄される空間を作るのは、愛着が湧き、楽しいというのが良くわかった。

自分の家だけでなく、他の家も皆かわいらしく、大きくテーマのある公園や広い道路・歩道など、街全体が美しかった。敷地内にある病院もスーパーも美容院も綺麗。他の千葉の町とは全く違った。まさに、理想の家と理想の環境であった。

住んでいる人もこの環境に魅せられてやってくるらしい。

素敵な人たちだった。若い世代だけでなく, 定年後の生活の場に選ばれる方も多く、文化度の高い人たちであった。
夏すいか割り
ここで私は二人の男の子を育てた。

夏には庭に大きなプールを出して、夜は近くの雑木林にカブトムシを売れるほど取りに行く。

夏プール
暑すぎるからとリビングですいか割りをしたり。
庭の木に鳥が巣を作って、落ちたヒナを助けたり。冬鎌倉
冬は雪が降れば庭で鎌倉を作ったりした。

住んで2~3年経つと、少しの疑問が湧いてきた。

広い4LDKの部屋はいつまでたっても、リビングと寝室しか使わなかった。個室のひとつは主人の洋服と趣味の部屋。もうひとつは、多分売却するまで、本当に使わなかった。スキスキの押入れは、おじいちゃん・おばあちゃんが買ってくれる5月の節句の人形類で埋まっていった。(これが後々厄介になることも知らずに。)
私は使わない部屋の掃除や、増えるの物の管理に追われた。

広い街というのは、街のスパンが大きい。回覧板を持っていくのも結構大変だし、子供のお友達の家というのも、直ぐ近くであっても、とても遠い。隣のブロックであれば車で送迎しなくてはいけない。

この街には私の家のような一般の家のほかに、300坪とか1000坪の家もあった。初めはすごい、羨ましいと思ったが、掃除することや、映画に出てくるなが~いテーブルのダイニングに出すディナーのことを考えてみると、アンバランスな気がした。
この規模であれば、自分で掃除をしていたら大変である。
食事だって、コックさんが作ってくれるのなら、似合うと思う。

子供が小さかったので、私の両親は良く遊びに来てくれたが、来ては愚痴をいうのだ。
「お前のところにはうまいものがない。」
そう、いくらお金を出しても、味覚にかなうレストランも、食材を売るスーパーも無かった。

生活におけるサービスの必要性を感じた。

それらは転居の理由にを起こすまでにはならなかった。

しかし、長男が小学校1年に上がった時に、住み替えを決心した。
バブルがはじけた後であり、主人が普通の勤め人である我が家では、かなり重大な決心だった。

その理由は、子供の教育である。

新興住宅地内の児童の増加に小学校の設立が追いつかず、1学年5クラスだったと思う。1クラス40人もいる。超マンモス校だ。

-----これには、反論する方もいらっしゃるとは思いますが。。。もっと、大人数の環境で育った方もいらっしゃるとかと思いますので。-----

ただ、私にとっては超・超マンモスなのだ。

私は都心の公立小学校に通った。1学年1クラス。30人弱。
子供1人に対する先生の数・特別教室の利用できる機会・設備などが全く違うことに初めて気が付いた。これはどういうことかというと。。。。

何でも待つのだ。
春の身体検査。いつまでも順番が来なくて、座ったまま待つ。なが~い時間待つらしい。
他にもいろいろ。
長男は幼稚園を卒園するとき”おべんきょうする”ことをとても楽しみにしていた。
しかし、学校では、座ってじっと待っているばかりの時間。

その間にお友達からちょっかいを出されたり、出したり、ツイツイ盛り上がりやすい人なので、先生が気が付くと(先生は1年生が40人もいるとそれだけで手一杯らしい)、ちゃんばらごっこが始まっており、当然に、彼は”問題児”のレッテルを貼られてしまった。

これに関する解釈はいろいろだとは思うのだが、問題は、”教育”が選べないという現実である。私立があるのは東京と神奈川の一部なのだというのを、知った。

公立が悪いわけでもないし、実際に地方の公立から立派に育ってらっしゃる方も多いと思う。むしろ、我が子が疑いなく優秀であったら、納得したかもしれない。
公立しかないというのは、一部の優秀な人にとってはそれでもチャンスあるシステムだと思う。しかし、それ以外であると、選択肢がとても少なくなるのではないだろうか?

私は都心育ちである。多分自分もそんなに優秀だったわけではないと思う。だけど、それでも都会には色々な角度から評価され、チャンスが得られたのではなかったのか?凡人でも、光ることができる。可能性を見出せるチャンスがある。

少なくとも”おべんきょうすること”を楽しみにしていたのに、”問題児”のレッテルを貼られ、本人もどこかさえない風の我が子を、このままの評価で終わらせてしまうのか?
本当にこの子は”だめな子”なのだろうか?

担任の先生が家庭訪問にいらっしゃった5月に、”絶対住み替える”と決心した。
翌年、担任の先生が変わって、多少の評価が変わったとしても、これから中学・高校と進学することを思うと、選択枝のある地域に移りたかった。

限界を感じたのだ。人が即席に作れるものに。
道路や家や街・・・形あるものを作ることはできる。
しかし、生活を豊かにするには目に見えないものの存在が大きい。
教育と文化は創れない。
この”気づき”が”住み替え”を必然的なものに変えた。

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Last updated  2008.04.07 20:47:11


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