知的障害児の「親の会」
バンク― ミケルセンとの交流を持った大熊さんが続ける。
「強制収容所と違って建物は綺麗だけど、
そこでの生活はと言えば、みんなが一斉に起きて、
一斉に食事をし、一斉に作業し、
一斉に寝るといった画一化されたものでした。
外にも自由に出られません。
つまり、収容されている知的障害のある人たちは、
決められたスケジュールのもと、施設側の管理、
監督の目に終始晒されていたのです。
もちろん、プライベートな時間や空間はなく、
社会との接点もない。
これでは、強制収容所とあまり変わらないんじゃないかと、
バンク― ミケルセンさんは心を痛めたわけです。
知的障害者を取り巻くこの状況を変えるため、
どうしたらいいのか。
それを考えたバンク― ミケルセンさんは、
新聞記者たちに施設を案内し、
その内実を世論に広く訴える方法をとりました。
その過程で大規模知的障害者施設の実態が
徐々に国民の知るところとなりましたが、
バンク― ミケルセンさんはさらに
もう一つのことに着目します。
それが、わが子の生活改善を願う
知的障害児の『親の会』の存在でした。
バンク― ミケルセンさんは国のお役人ながら、
そうした親の会を作り、一緒になって、
改革の必要性を国に訴える活動を始めたのです」
デンマークの全国組織としての親の会は、
1951年から1952年にかけて結成された。
大規模入所施設での非人道的な処遇に対する異議を申し立て、
その改善を強く訴えるなど、
世界に先駆けて急進的な活動を展開したことでも知られる。
一介の行政官という立場を超えて、
バンク― ミケルセンはその親の会との接触を密にした。
彼が深い感銘を受けたのは、
親の会が国への要望として掲げた
以下の3つのスローガンだったという。
1、施設を20〜30名の小規模なものに改めること。
2、小規模施設を親や親戚が生活する地域に作ること。
3、他の子供たちと同じように教育の機会を持たせること。
バンク― ミケルセンは親の会との会合を重ねると、
国への要望を盛り込んだ嘆願書の作成に取り組み、
やがて自身が所属する社会省にそれを提出した。
このときタイトルに用いた言葉が
「ノーマライゼーション」
(デンマーク語では「ノーマリセーリング」)
だった。
ノーマライゼーションは難解な哲学ではない
この要請を受けて、社会省は1954年、
「知的障害者の福祉と施設の改革のための委員会」
を設置した。
委員会には親の会から2人が選出され、
バンク― ミケルセン自身も委員の一人になった。
バンク― ミケルセンは
「ノーマライゼーションは難解な哲学ではないのです」
として、こう国に訴えた。
「ハンディキャップを負った人々のために、
政治家や行政官、周りの人々が何かをしようとするとき、
一番大切なのは自分自身がそのような環境に置かれた場合、
どう感じ、何をしたいか、それを真剣に考えることでしょう。
そうすれば、答えは自ずから導き出せるはずです。
人間として当然あるべき姿を当然のこととして
実現しようとしているだけです」
親の会とタッグを組んだバンク― ミケルセンの熱意が、
行政を動かすまでそれほど時間はかからなかった。
知的障害者福祉に関する法整備が着々と進められ、
1958年9月には親の会の要望をもとにした
バンク― ミケルセンの考えの95パーセントが、
法案として議会に提出された。
「こうして、ノーマライゼーションという理念が
盛り込まれた知的障害者福祉に関する新しい法律が、
1959年にとうとうデンマークで生まれました。
これは『1959年法』と呼ばれています。
そして、このノーマライゼーションの流れが、
欧米諸国を中心として
他の国にも受け入れられるようになったのです」
(大熊さん) スウェーデンではベンクト・ニィリエが
ノーマライゼーションの理念を整理し、
「8つの原理」としてまとめた。
さらに、ヴォルフ・ヴォルヘンスベルガーがアメリカで
ノーマライゼーションを福祉政策に導入・実践するなど、
脱施設化と地域移行(一人一人が自己選択による住まいを確保し、
自分の望む暮らしを実現すること)を見据えた
バンク― ミケルセンの理念は、1
960年代に入って瞬(またた)く間に世界に広がっていく。
脱施設化、地域移行
同じ頃、欧米諸国では
精神障害者に対する処遇も大きな変革を迎えていた。
精神科病院への隔離収容政策が疑問視され、
地域移行への動きに取って代わったことである。
その先陣を切ったのがイギリスだった。
第二次世界大戦中、ロンドンなどの主要都市が
ナチス軍の空爆を受けたとき、
精神科病院の関係者は
「空襲が終わったら戻ってくるように」
と、入院者たちを
鍵のかかった病棟から一時的に解放し、避難させた。
「戻ってくるように」とは言ったものの、
入院者のすべてが
その通りの行動をとるとは病院側も思っていない。
多くが空爆に乗じて
行方をくらましてしまうのではないか、
そう思い込んでいた。
ところが、案に相違して、彼らの大半が戻ってきた。
そして、医療従事者たちを驚かせたこの出来事が、
「隔離収容における鍵とは何か」
を考えさせるきっかけを作る。
ここから欧米諸国における精神医療改革が一気に進行した。
終戦4年後の1949年、
スコットランドのディングルトン病院が、
世界初となる病棟の全開放制に踏み切った。
1954年にはイギリス保健省が
「今後10年間で10万床の精神科病床を削減する」
ことを発表し、
その数に見合った
地域移行者のためのケア施設を作ることを決定した。
フランスではフィリップ・ポメルという精神科医が、
パリの13区に患者のための共同住居や共同作業所、
デイケア施設などを作り、
従来の拘禁医療モデルから
「地域モデル」への革新的な転換を図った。
公布された「一八〇号法」
こうした脱入院化へのうねりのなかで、
「問題の根は病にあるのではなく、
こういう患者を作り出す病院の体質にある」
として、イタリアのフランコ・バザーリアが
精神科病院そのものの廃絶、
被収容者の完全地域移行を目指して立ち上がった。
このバザーリアの精力的な改革によって、
1978年5月13日、
イタリアに公立精神科病院への入院を禁止する
「一八〇号法」が公布された。
「欧米諸国の脱施設化の流れは、
明らかにバンク― ミケルセンさんが唱えた
ノーマライゼーションの理念に影響を受けています。
バザーリアさんもバンク― ミケルセンさんのやり方に倣って、
新聞記者やテレビを始めとするメディアに
精神科病院の内情を取材させるなどして、
精神科病院を廃絶するためのキャンペーンを張りました。
『病気が治った後に病院から出すのはおかしい。
精神疾患を抱える人は、完治しなくても、
地域で暮らす権利がある』。
これが、バザーリアさんの考えでした。
バザーリアさん自身、
バンク― ミケルセンさんの影響を受けたとは、
特に口にしてません。
でも、私はバザーリアさんもまた、
バンク― ミケルセンさんや彼の理念を整理した
ニィリエさんなどの影響を受けていたのは
間違いないと思っています」
(大熊さん)
では、この時代、
日本の知的障害者施設や
精神科病院はどんな状況に置かれていたのか。
日本がノーマライゼーションとは
正反対の道を辿り始めたのは、
いかにも皮肉と言うしかない。
次回記事
『軽度の知的障害のある女性を深く傷つけてしまった
「送迎ドライバーの何気ないことば」』へ続く。