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2011.04.03
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 近影6

いよいよ富士山噴火のクライマックス、宝永大噴火の話に入っていきたいと思います。しかし今回は前段階の大災害からお話しする必要があります。それは地震す。

まず時代は江戸時代、「生類憐れみの令」で有名な第五代徳川綱吉の治世です。徳川幕府の支配体制は揺るぎないものとなり安定期を迎えていました。

そんな宝永4(1707)年10月28日(旧暦10月4日)、宝永地震と呼ばれる巨大地震が発生します。この地震は、よく地震特集の番組などで盛んに21世紀中に起こる可能性が高いと言われ続けている東海・南海・東南海連動型地震でした(100年から150年周期で発生しています)

  
連動型地震と言っても、数日もしくは3年ぐらいの時間差がある場合が多いのですが、この宝永地震は、
東海地震の震源地である駿河湾、東南海地震の震源地である紀伊半島沖から遠州灘にかけての海域、南海地震の震源地紀伊半島の熊野灘沖から四国南方沖の3カ所でほぼ同時に発生したと考えられています。マグニチュードは8.4~8.7と言われており、東日本大震災が起きるまでは、日本最大規模の巨大広域地震でした。

津波は伊豆半島から九州までの太平洋岸一帯を襲い(最大は土佐(現在の高知県)を襲った約8メートル)、地震の被害は、関東から九州までの太平洋沿岸はもとより、越前(現在の福井県)、信濃(長野県)、出雲(現在の島根県)にまで達する凄まじいものでした。倒壊家屋6万戸、流出家屋2万戸、死者2万名を越す大災害でした。地震の起きた場所こそ違え、東日本大震災を彷彿とさせてしまいます。

この宝永地震は、人的・経済的な被害はとても甚大で、幕府も諸大名も財政状態は芳しくなかったこともあり、多額の復興資金の捻出に苦慮することになります。

富士山の南側に位置する足柄上郡・下郡(相模国。現在の神奈川県)と駿東郡(駿河国。現在の静岡県)に領地を持つ小田原藩(大久保家11万3千石)も例外ではありませんでした。

小田原藩にとって弱り目に祟り目だったのは、4年前の元禄大地震(元禄16(1703)年。マグニチュードは8.1。震源地は千葉県野島崎と思われています)の痛手から回復しておらず、二重の災害復興に文字通り体力を使い果たしてしまいました。

この宝永地震だけでも日本は未曾有の大災害であったわけですが、ここに追い打ちをかける災害が襲いかかります。言うまでもなく富士山の大噴火でした。

永4(1707)年12月16日(旧暦11月23日)前10~12時頃、富士山南東側斜面5合目付近に亀裂が発生し(宝永火口)そこから爆発的噴火が始まりました。49日前の宝永地震が、富士山宝永大噴火の引き金であったことはまず間違いないでしょう。

実際宝永地震の後も、上記の足柄上郡・下郡と駿東郡を中心に、小田原、遠く江戸に至る地域では、余震が頻繁に続いていました。富士山麓の地震は、マグマの上昇に伴う火山性地震であったと考えられています。

この時の爆発の衝撃がいかに激しかったかというと、噴火と同時に発生した空振(火山の噴火などに伴って発生する空気の振動。簡単に言えば衝撃波です。大きい場合は窓ガラスは簡単に割れ、瓦も吹き飛びますし、数百キロ離れたところでも爆発音が聞こえます)が、江戸や下伊那(長野県南部)でも観測されている点です。この時点で噴火を知らない江戸市民は聞き慣れない爆発音に怯えきったと言われています。

富士山山麓の駿東郡などでは、焼き砂(火山灰)、焼き石(火山弾、火山礫)が絶え間なく降り注ぎ、火災が発生します。噴火は昼過ぎに一端収まりますが、同日夕方再び大規模な噴火を起こします。

これをみて、今まで避難をためらっていた村人は大挙して脱出を始めました。特に甲斐国(現在の山梨県)忍野村の村人達は、夜の暗闇の中三度にわたって避難し、富士吉田付近にまで逃げています。翌日には小田原、江戸でも降灰が始まり、小田原では少数の留守番だけを残して、大部分が東海道を北東へ、江戸に向かって避難をはじめたと言われています。

この噴火の状況を江戸で目撃していた新井白石は、自叙伝『折りたく柴の記』にこう記しています。

「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。西城に参りつきしにおよびては、白灰地を埋みて、草木もまた皆白くなりける。・・・やがて御前に参るに天甚だ暗かりければ、燭を挙て講に侍る(地震があり、雷鳴のようなものが聞こえた。家の外に出ると、まるで雪が降っているようであった。よく見てみるとそれは灰だった。西南の方を見てみると、真っ黒な雲があって雷が光るのが見えた。白い灰が地を覆って、草木も白くなった。・・・綱豊様(後の六代将軍徳川家宣)の所に参上したが、昼なのにとても暗かったため、燭台にあかりともして講義をしなければならなかった)

という意味になります。また白い灰と白い軽石が降ったのは初日だけで、その後は黒い灰と黒い軽石が降ったという記録も残しています。

富士山の噴火は16日間にわたって続きました。この時の噴火の特徴は、溶岩流の噴出を伴わなかったとです。正確に言えば、上昇してきたマグマは爆発して粉々となり、火山礫・火山灰となって表に現れ、噴煙となって降り注いだことです。

なぜ爆発的な噴火であったと断言出来るかは、最初に白い灰や軽石が降り、そのあとに黒い灰と軽石が降ったという新井白石の記録、被災地の記録などからです。

火山堆積物の灰や軽石が白っぽい場合ですが、これは爆発の勢いで氷点下70度ぐらいの成層圏まで打ち上げられた軽石が、そこで急速に冷やされた場合になる傾向があります。黒い灰や軽石の場合は、成層圏まで達せず、もう少し時間を掛けて冷やされた場合になる傾向があるのです。

実際宝永噴火の火山灰層は、下が白で上が黒になっています。史料にある順番と実際の地層の状況は一致しています。

こうして16日間に及んだ宝永大噴火は、1708年1月1日(旧暦だと宝永4年12月9日)に終わりました。

この時点での被災地の犠牲者はほとんどありませんでした。しかし真の災害はここから始まります。

・・・次回からとっても重い話になっていきます。

それにしても位置こそ今回の震災とは違いますが、北アメリカプレート沿いの地震の数年後に東海・南海・東南海連動型地震、富士山噴火が起きたというのは嫌な感じです・・・。






Last updated  2016.03.10 23:20:09
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