鳥です

2011/07/29(金)00:03

不屈の隻腕パイロット 森岡寛大尉 零戦52丙型

プラモデル・大戦機(33)

 久々のプラモです。・・・といっても新規制作ではなく、去年作った零戦52丙型谷水飛曹長機のデカールと色を少し変えて仕様変更したただけですが(汗)。零戦52丙型のうんちくは前に書いたので、今日は人物中心で。負傷して体にハンデをもった後、パイロットに復帰した超人的な人物は何人もいます。ガダルカナル島上空で頭を撃たれ、右目の視力をほぼ失ったものの復帰した海軍の坂井三郎中尉(終戦時)、ビルマ(現ミャンマー)で空戦中右脚の膝から下を失った後に、義足をつけて復帰して、五式戦闘機のにって自分の片脚を奪ったP51戦闘機を撃墜して仇を討った陸軍の檜與平少佐(終戦時)などが有名です。今回お話しする森岡寛大尉(終戦時)は、戦闘中左手を失った後、義手をつけてパイロットに復帰して戦果を上げた世界で唯一のパイロットです(義足で戦果を上げたパイロットの方は、檜少佐以外にも英軍のダグラス・ベーター大佐やドイツ軍のハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐がいます)。森岡大尉は、元々は艦爆(艦上爆撃機。急降下爆撃を担当)乗りで昭和18年8月無事にパイロットになりました。しかしその後ずっと教官任務で、5ヶ月経ってもに戦地に出させてもらえないのが不満で、戦闘機科に転科しています。当時、形勢が不利になりつつあった日本は、爆撃機で相手を攻撃するより、押し寄せてくる敵の爆撃機を迎撃する方が主流となっていたため、戦闘機パイロットは不足していました。また日本の空母機動部隊は度重なる戦闘で消耗しており、訓練と再編に大忙しでした。そのため艦爆乗りが前線に出る機会もなかったのです。彼自身知るよしもありませんが、これが皮肉な運命の分かれ道になります。艦爆科の元同僚や彼が育てた後輩たちは、その後ようやく空母乗り込みとなり、昭和19年6月、日本空母機動部隊の墓場となったマリアナ沖海戦に出撃して、ほとんどが帰ってきませんでした。もし転科せずの残っていたら、森岡大尉も空母乗り込みとなってサイパン沖に散っていたかも知れません。配属された先は、新設の第302海軍航空隊(司令官は小園安名大佐)でした。日本海軍初の本土防空戦闘機隊でしたが、森岡大尉が赴任した昭和19(1944)年1月頃は、まだ飛行場も飛行機も他隊の借り物というていたらくでした。ようやく厚木基地に移動後、前に雷電のところで書きました赤松貞明少尉(当時)らが中心となって、転科組は一から戦闘機訓練をたたき込まれることになります。戦闘機の訓練は大変だったようです。「(艦爆の時も)格闘戦の訓練は受けていましたが、戦闘機と比べれば横綱と幕下の違いがありました。あんな半端を教えるから、艦爆乗りが食われてしまう」とは本人の談です。訓練で頭角を現した森岡大尉は、零夜戦隊に配属されます。元艦爆乗りだから夜間飛行は可能だったからです。余談ですが、海軍戦闘機パイロットは、空母からの離着艦をするため洋上飛行訓練は受けていますが、夜間戦闘は想定していないため、夜間飛行訓練は受けていません。なので夜出撃すると帰ってこれないパイロットが多数でした。逆に陸軍のパイロットは、夜間飛行がパイロットになる必修でしたが、洋上飛行は訓練されていなかったため、海上飛行すると遭難者が続出しました。やがて零夜戦隊の分隊長となった森岡大尉は、昭和20(1945)年1月23日、豊橋上空で運命の戦いを迎えます。名古屋爆撃を終えたB29の大編隊を零夜戦2機で攻撃した彼は、B29一機に命中弾を与え発火させますが、自機も被弾、左手のひらを吹き飛ばされます。この時瞬間的に「あと一撃で落とせるのに! 体当たりしてでも落としたい」と思ったそうです。しかし左手を失っては、速度を調節するスロットルレバーを操作できず、機は被弾した衝撃で高度が下がっていて、体当たりはもう叶いません。首に巻いてあるマフラーを外して止血しながら、降りられる飛行場を探しました。出血多量のため、落下傘降下では助からないと考えたのです。陸軍の浜松飛行場を見つけると、操縦桿を両足で挟んで固定し、右手でスロットルレバーを操作して無事に着陸しています。この辺、非常に冷静な思考をしているのに驚かされます。前に書いた坂井さん檜さんもそうですが、負傷した時の手記を読むと、怪我した自分を冷静に見つめて対処している事が読み取れます。やっぱり死亡率の高い軍人、ことにパイロットになる人は自然と超人的な感覚を身につけるものなのかも知れません。病院で左手首から先の切断、整形手術を受けた森岡大尉は、まだ完治していませんでしたが2月15日に厚木基地に帰ってきます。「もう操縦できない。戦えないのか」という嘆きはあったそうですが、やはり自分の「ねぐら」に居たかったからだそうです。302空司令官小園大佐から兵学校教官への転属を切り出されますが、なんとか空に戻りたい森岡大尉は残してほしいと懇願します。人事局は反対しますが、猛将ですが情が深い小園大佐が手を尽くしてくれたおかげで、異例の零夜戦隊地上指揮官として厚木に残ることになります。もちろん地上指揮官勤務で彼が満足できるはずはなく、再び飛べるよう義手の製造を依頼します。たまたま義手の相談に東京の病院に出向いた日は3月10日でした。前夜の東京大空襲で焼け野原になり、焼死体で埋まった下町を歩きながら、「絶対空に戻ってやる」という気持ちを持ったと語っています。そして負傷から丁度3ヶ月たった4月23日、義手で零戦の操縦を成功させ、待望の空中指揮官に復帰します。しかしここで問題が起きます。操縦は問題なかったのですが、機銃レバーが左手側にあるため、使えないことです。何せ義手はコの字型のものですから、発射レバーを引くなんて芸当はできません。この難問は、兵器整備兵が右手で持つ操縦桿の上に発射ボタンをつけてくれたので、クリアできました。機体の改造のため、森岡大尉は搭乗機固定の異例の配置になりました(日本海軍では、飛行機数がパイロットより少ないため、搭乗員に固定の機体を持たせることは原則しません)。空中指揮官復帰後の森岡大尉は、同僚たちから「凄みが加わったな」と言われる活躍をしていきます。・5月26日 夜間爆撃に来たB29を迎撃、1機を撃破 ・7月24日 館山沖を哨戒中のPB4Y四発哨戒爆撃機1機を撃破 ・8月3日 相模湾を飛行中のP51マスタング戦闘機4機を、零戦4機で迎撃、1機を撃墜して帰還(日本側に損害無し) ・8月13日 房総上空で米軍カタリナ飛行艇を4機の零戦で協同撃墜。 ・8月15日玉音放送の1時間前 神奈川方面に進入してきた米艦載機F6F-5ヘルキャット戦闘機を迎撃し1機を撃墜。そして終戦を迎えます。負傷前はB29撃破1機だけだでしたが、義手で復帰後、個人撃墜2機、協同撃墜1機、撃破2機という戦果を上げています。私の知る限り義手のパイロットで、これだけの戦果を上げた人物は他に知りません。晩年、航空史の専門家である渡辺洋二氏に取材で、「手首一つを国に捧げました」と笑って答えた森岡大尉ですが、渡辺氏が「敗戦」という言葉を使った際、「政府が降伏したのであって、我々は負けてませんよ」と静かに言い返したそうです。負傷してからの戦いぶりを見る限り、その言葉に納得したくなってしまうのは私だけではないかなと思います。 プラモは、本当は斜銃装備の零夜戦を載せられたらよかったのですが、そっちは手に入れていないため、終戦の日、F6F-5を迎撃した際の乗機イメージとなります。

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