2019/03/17(日)08:20
激動の7世紀の幕開け 前編
本当は、前回で東アジア社会はひと段落させて、今回からアメリカ大陸に話を進めていく予定だったのですが、元中世中国史専攻(まぁ、私が専攻していた時代は、この頃から500年ぐらい後の南宋時代なんですけどね・苦笑)の私めとしては、ちょっと火が付いた感じです(苦笑)。大災害とは直接関係ない話になってしまいますが、6世紀半ばに大きく揺れ動いた東アジア社会は、隋の統一、日本の仏教採用、新羅の軍事政権化で、安定期を迎えたわけではありません。むしろ逆で、それらは次の7世紀の激動の世紀を約束するものでした。6世紀に始まった変動が、どのような流れを経て安定期を迎えたのか、そして現在の中国、日本、朝鮮半島の基礎ばとのように形成されていったのか、という点を、もうちょっと書いてみたくなったのです。まあ、脱線の延長戦ということで(汗)。
それでは、隋の文帝によって、約400年ぶりに統一された中国から見ていくことにしましょう。文帝の治世は「開皇の治」と呼ばれる安定期でした。彼は長年の戦乱で疲弊した民衆の生活に気を配り、民の負担の大きな土木事業などはおこなわず、煩雑になりすぎた法律や行政機構の整理と再編をおこないました。まず中央省庁は三省六部(門下省. 尚書省. 中書省の三省と、尚書省の下に吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部の六部門を設置しました)に統合しました。地方も隋の統一当時、300に及ぶ州と、その下に郡と県がある複雑で、煩雑すぎるものした。文帝は、州の再編統合を進める一方で、郡を廃止して、州と県の二体制に、地方行政を改編整理しました(州県制)。これにより、隋の行政機構は、中央・地方とも前時代に比べて大幅にスリム化されました。省庁と州権の統合で、不要になった官吏をリストラして(特に隋朝への忠誠心に疑問のあるものを、合法的に追い出すことが主目的と言われています)、国庫の負担も軽減させることができました。また、府兵制(簡単に言えば、農民たちに自前の武器を持たせ、兵役につかせる制度です)と均田制(国が農民に対して、農地を給付して税を納めさせる制度。給付者が死ねば、土地は国家に返納しますが、荒れ地などを開墾した土地の一部は、世襲を認めたので、勤労意欲を高めました。余談ですが、均田制は、日本では大宝律令下、班田収受法として採用されています)を採用しました。これらの政策は、400年に及ぶ戦乱からの復興を意図するものである一方で、国民を土地に定住、縛り付けながら中央集権体制を確立し、国民皆兵とする一石二鳥の意図でもありました。そして最も有名な文帝の政策は、官吏登用制度科挙の採用でしょう。科挙は試験を行い、成績によって官吏を採用する制度です。現在の公務員試験などにも通じる考え方と制度ですが、これは当時、非常に画期的なものでした。前に聖徳太子以前の日本の朝廷が、豪族間の利害調整機関としての色彩が濃いものであることに触れましたが、それは中国も同様でした。中国では三国時代の魏(220~265年)より、九品官人法と呼ばれる官吏登用制度が採用されていました。九品とは官吏の階級を9段階に分けたものです。そしてこの制度の官吏登用方法は、各郡に中正官と呼ばれる役職を置き(後には郡の上の州にも置かれました)、この中正官が担当のエリアの人物を見極めて、有能な人物を官吏に登用するというものでした。前の後漢時代の官吏登用制度、郷挙里選制(地方官や地方の有力者が管内の優秀な人物を推薦することで、官吏を登用した制度)が、官吏を推薦する豪族の影響力が強すぎて、事実上、官吏登用が中央政府の意にならなかった事を反省し、中央から派遣された中正官が有能な人材を見極めて登用することで、皇帝や中央政府主導の人材を確保する意図がありました。九品官人法は、確かに漢代よりは、朝廷にとって有能な人材を集められるようになりましたが、長期的にみれば失敗でした。中正官たちは、やはり地方で大きな権力を持つ豪族層の影響力を無視できませんでしたし、豪族たちも中正官を賄賂で公然と買収しましたので、双方の癒着につながりました。結局、中正官の推挙する人材の多くは、豪族など地方の有力者やその影響を受けた人物ばかりで、官職も世襲されていったため、貴族層の形成につながっていくことになります。結局のところ、皇帝と中央政府の権力強化につながらなかったのです。それでも他に良い方法もなく、九品官人法は隋王朝が誕生まで続きましたが、国を支える官僚の登用が、依然中央政府の意にならないことは、大きな問題でした。そこで隋の文帝は、家柄や身分に関係なく受験ができ、その成績によって管理を登用するという画期的な制度を制定、採用したのです。ここにはじめて、皇帝は自分の自由になる人材を集めることが出来たので、皇帝権力の強化に繋がりました。科挙により、大貴族であっても科挙に合格しなければ官吏になれず、国政を左右する影響力を行使することは出来なくなりましたし、民衆側も、たとえ平民出身であっても、科挙に合格すれば立身栄達の道が開けますから、合格者やその一族は皇帝に対して、強い忠誠心を持ちました。この科挙によって、前時代(魏晋南北時代)までは大きな権力を持っていた貴族層は徐々に力を削がれ、唐朝末期には皇帝権力を脅かす力は無くなり、次の宋代になると、新たに殿試(皇帝臨席のもとで行う科挙の最終試験です。このため試験合格者は、「皇帝に認められた」と考えて、強い忠誠心を持つことになりました)を追加して皇帝独裁体制が確立され、貴族たちが政治に影響力を持つことは無くなります。そして1905(明治38)年に廃止されるまで、科挙は1千3百年以上にわたって中国の官吏登用制度として、続いていくことになります。この科挙をはじめとする文帝の行政改革は、次の唐代以降も継承される優れものでした。統一されたばかりで、まだ国内が不安定だったこの頃、これほどの改革を一気に成し遂げた隋の文帝の手腕は、卓越していたと言えそうです。文帝は名君とは言い難い人物でありましたが(その理由は次回に書きたいと思います)、賢帝といっていい人物でした。開皇の治により、中国は太平の時代となりましたが、それはつかの間の平穏でもありました。
次回は、隋を取り巻く不安要素について触れてみたいと思います。