2019/12/02(月)21:50
二式水上戦闘機 世界で最も成功した水上戦闘機
今年初めてのプラモネタです。
・・・まぁ、作ったのは昨年で、今年の作品ではないんですけどね・・・。
島国で四方を海に囲まれた日本では、他の国々とは異なり、水上機の整備が今も盛んです(現在はヘリコプターが、かなりの任務を肩代わりしていますが、対潜哨戒の必要性から日本は飛行艇をかなり保有しています)。水上機の利点は、着水できる水面があれば、どこでも運用可能で、飛行場の設営を必要としない点です(もちろん、穏やかな水面出なければいけません)。当時の日本領は、朝鮮半島や台湾のみならず、マリアナ諸島やパラオ諸島、トラック諸島、マーシャル諸島と、広大な太平洋の領海と諸島を有していたことを考えれば、日本海軍が、水上機の開発と整備に大きなリソースを割いていたのは、納得できる点です。しかし水上機、ことに敵機と空中戦をする事が主任務の戦闘機となると、開発する意味があるのかと、疑問視されます。というのも、水上機は構造上、水面に降りられるよう大きくて重いフロートを付けているため、陸上機に比べてどうしても鈍重になってしまい、まともに太刀打ちできないからです。航空機の性能が飛躍的に向上するようになった1930年代以降、列強諸国は水上戦闘機の開発から手を引いていったのも、そういった流れを受けての事でした(宮崎アニメの名作『紅の豚』は、1930年代初頭の消えていく水上機時代の残光を、時代背景にしています)。しかし日本は、水上戦闘機というジャンルへの、開発から手を引きませんでした。これは、上のも書いたように島国で、広大な領海を保有していたという事情と、艦隊決戦思考にこだわり続けていた海軍は、来るべき決戦の際、敵の弾着観測機(開発当初はレーダー射撃などない時代ですから、人間の目で敵を捕らえて目標を計測する必要がありました。着弾観測機がいれば、敵艦隊の捕捉や、砲撃戦時の命中精度向上にも利用できました)を排除する任務を、水上戦闘機にさせる意図があったからです。空母が常に同伴できるとは限りませんが、水上戦闘機なら、戦艦や巡洋艦に搭載することができたからです。また軍縮条約で、太平洋地域の基地化が制限されていたため(軍事的な緊張を高めないため、日本はマリアナ諸島やマーシャル諸島に、飛行場建設や要塞化をしない代わりに、アメリカも植民地のグアム島やフィリピンへ、戦力増強を行わない取り決めが結ばれました)、有事の際に、これらの地域が無防備に近い状況なのは、国防上問題でした。当時の日本の基地設営能力では、飛行場を作るのに時間がかかったからです。しかし水上機は水面があれば簡単に利用できます。砂浜に燃料・弾薬など補給物資を準備し、パイロットと整備員だけ展開させるなら、テントで寝泊まりさせても事足ります。この即応能力の高さは、陸上機より性能の劣る事を差し引いても、許容範囲でした。そんな事情により、海軍の水上戦闘機開発は、昭和14年「十五試水上戦闘機(後に紫電・紫電改のベースになった「強風」として完成します)」として、正式に進められていきます。しかしここで問題が発生しました。この時日本と中国の戦争は泥沼化し、アメリカとの関係が急速に悪化していきました。十五試水上戦闘機は、まだ開発が始まったばかりで実用化に程遠く、視野に入ってきたアメリカとの戦争に、間に合わない可能性が出てきました。そこで海軍は、既存の戦闘機をベースにした水上戦闘機開発という応急処置を思いつきました。選ばれたのは正式採用されたばかりの零戦でした。開発指示は、零戦をライセンス生産することが決まっていた中島飛行機(現在の富士重工業)に、命じられました(開発メーカーの三菱重工が外されたのは、中島の方が水上機開発の経験が豊富だったのと、三菱が零戦の生産で手いっぱいだったためです)。海軍の命令を受けた中島は、短期間の戦力化のため、改修個所を最低限におさえ、主に重整備のために工場に返納されてくる零戦を、再利用する形で改造することにしました。この方法だと、一から生産するより手間も省けますし、零戦の生産ラインを維持したまま、水上戦闘機も量産できる一石二鳥という目論見でしたが、残念ながらそれは、「捕らぬ狸の皮算用」でした。問題は試作機が完成し、テスト運用を始めたところ発覚しました。試作機は、水上機ながら、零戦譲りの高性能ぶりを発揮して関係者を喜ばせましたが、一方で機体が海水で故障と腐食が起きてしまう欠点も明らかになりました。水上機は機体の腐食を防ぐために、海水の機体内侵入を防ぐ構造になっているのですが、陸上戦闘機の零戦は開口部が多くて、海水の侵入を防げないのです。つまり既存の機体を改造する方法は、性能はともかく、機体の寿命が非常に短くなってしまうのです。結局機体を一から作り、配線も防水対策を施すことになりました。また、陸上機が車輪で接地するのとは異なり、水面に降りるために離着水時の安定性が悪く、プロペラの回転で左側に回ってしまうなどの問題も発覚し(この問題は、パイロットの搭乗方法にも影響が出ました。当時のレシプロ機は機体左側から乗り込むのが普通でしたが、左側に海水飛沫が酷くかかってしまうため、右側から搭乗する方式になりました)、垂直尾翼や方向舵が大型化されるなど、零戦とは若干異なる外見になりました。こうして昭和17(1942)年7月、零戦の水上戦闘機型は、「二式水上戦闘機(A6M2-N)」として誕生しました(略称は「二式水戦」)。前線配備は、まだ飛行場の設営ができていない南方のソロモン諸島や北方アリューシャン列島、零戦の配備が間に合わないマーシャル諸島など島嶼地域に進められていきました。ちょうど、南方ではガダルカナル戦が始まり、海軍の航空機部隊は多大な消耗を強いられていました。二式水戦はその激戦の渦中の中、零戦の不足をおごぎなう形で投入されました。ベースが零戦であり、運動性能に武装も強力な二式水戦でしたが、さすがに敵の陸上戦闘機との戦闘は苦戦の連続だったようです。なにせ重い下駄ばき(フロートのことを海軍ではそう呼びました) を履いた二式水戦は最大速度は435kmにすぎず(零戦21型は最大速度533km)、米軍戦闘機が600kmを超す速度の機をどんどん前線に投入してくると、とても太刀打ちできなかったからです。「20ミリ機銃を装備していると言えども、戦闘機として扱うべきではない」という悲観的な報告もされています。しかし一方で、飛行場がなく、戦闘機を配備できない島嶼地域の防空に非常に貢献しました。いかに低スペックの水上機とはいえ、戦闘機の妨害があるとなれば、敵の爆撃機も爆撃任務に集中できず、注意を分散させざるを得ませんから、プレッシャーで爆撃戦果を不十分にさせることもできたのです。また60kg爆弾を搭載できたことから、対潜哨戒に活躍できるリソースもありました。そのことは潜水艦に苦しんでいた現地部隊で重宝がられました。海軍本命の水上戦闘機「強風」が、水上戦闘機が必要とされた時期に間に合わず、活躍できずに終了してしまったのとは異なり、活躍する出来に間に合った二式水戦は、非常に幸運な機だったと言えそうです。
二式水上戦闘機データ
機体略号 A6M2-N全幅 12.0m全長 10.248m全高 4.305m発動機 栄一二型(離昇940hp)最高速度 435km/h上昇力 5,000mまで6分43秒航続距離 1,148km武装 九九式一号20mm機銃2挺(翼内・携行弾数各60発)、九七式7.7mm機銃2挺(機首・携行弾数各700発)爆装 60kg爆弾2発
プラモキッド 「タミヤ 1/48傑作機シリーズ No.17 日本海軍 二式水上戦闘機 (A6M2-N) 」
塗装とデカールは、第452海軍航空隊としました。同隊は、アリューシャン諸島キスカ島防空任務に始まり(その頃は、第五航空隊でした)、北千島列島占守島配備と、北方で戦い続けた部隊です。次回から知られざる二式水上戦闘機隊の戦い、北太平洋の戦いについて、ちょっと書いてみたいと思います。