現役時代の考えは常に変わらない
先鋭的な登山をしていた頃、登山クラブを運営する上で、指導者の在り方について常に考えていた。いまから20年前に書いた「スポーツの社会学的アプロ-チの必要性について」を改めて読み返してみた。一概に登山をスポーツと規定することはできないが共通するものは多い。 読み返してみて、特に修正することは何もない。私のアーカイブとして、そのままの内容を掲載することにした。参考にして下さい。 「スポーツの社会学的アプロ-チの必要性について」 現代社会は国民皆スポ-ツと言われるように、あらゆる人々が何らかのスポ-ツを楽しむ(スポ-ツを観戦する楽しみを含めて)時代になった。これは産業経済の発展を背景として、スポ-ツがすべての人々にとって、充実した人生を送るために重要な意味と価値を持つようになってきたからである。 しかし、一方では、従来のように、スポ-ツを技術だけに片寄った見方でとらえ、技術のみの向上を目指す指導を行ったり、現実の社会とスポ-ツを切り放して考えたり、競技偏重による結果のみの重視といったとらえ方がなされている。また、スポ-ツに関する科学的研究の欠如は、非科学的な架空の神話を人々に信じ込ませる傾向さえ生んできた。 以上のような状況に鑑み、このような時代にあって、スポ-ツが現実社会とどのようにかかわり、他の社会制度とどのようにかかわりあっているのか、人間の社会行動の原理(信条や人間の悲劇や偉大さ)はどのようなものなのかを解明していくことはきわめて重要な課題であると言わざるをえない。 このような点を明らかにしていく研究が、スポ-ツに対する社会学的アプロ-チである。スポ-ツに対する社会学的アプロ-チによって、スポ-ツの社会的特性とは何か、なぜスポ-ツを文化現象としてとらえなければならないのか、スポ-ツをする人間としての主体性(倫理観や価値観を含め)をどうとらえるべきか、スポ-ツ指導の原則はどうあるべきか、といった問題をト-タルに明らかにすることができる。 もし、これらのト-タルな社会学的アプロ-チによる解明がなければ、スポ-ツの現状に対し、人間性の向上と社会福祉の発展を求めることができなくなってしまい、スポ-ツの隆盛は単なる商業主義や消費主義の蔓延を助長するだけになってしまうであろう。 いま、スポ-ツ指導者に求められているものは、社会学的に明らかにされたスポ-ツ指導の科学的知識と道徳的規範を持った指導理念を兼ね備えた人間像であるといえる。