2006/03/09(木)11:33
散歩
電話が鳴った。
僕はおもむろに受話器を取り、「もしもし」と呟いた。
「今日の牡蠣鍋。材料は一通り買ったから夕方には着くわ。」
と彼女は言った。
そういえば、今日は彼女と牡蠣鍋を食べる日だった。
牡蠣鍋など、ここ最近まったく食べてない。
べつに食べたからどうなるという話ではない、けれど彼女が牡蠣鍋をしたいのならそれでいい。
「わかった。」
と僕は言った。
今は四時。
二十五にもなって、この時間帯が暇だということはどれだけ情けないことなのだろう、と僕は思った。
よれよれの無地のTシャツと、ボロボロのズボン。
髭は一週間ほど剃ってないし、髪の毛もぐしゃぐしゃ。
鏡に映る自分を「こいつは一体誰なんだ」と思いながら、僕は煙草を吸った。
自分の顔を見ながら煙草を吸ったって、新しい発見は自分の嫌なところでしかない。
学生の頃はよく屋上で吸ったっけ。
屋上に上ったって、周りは高層ビル群に囲まれていたから景色なんて何も見えなかった。
そういえば、僕が位置する場所の丁度反対側にも僕と同じように煙草を吸ってる奴がいた。
奴は女の子だった。
髪を金色に染めて、手にも顔にもアクセサリーをいっぱい刺して、「思春期の反発」という作品にさえ見えた女の子。
どうでもいい。
僕はそう思っていた。
そんな女の子だって気付いた時にはよぼよぼの婆さんになる。
若いのだって老けてるのだって、時間が違うだけで全ては同じことなのだ。
三本目の煙草を吸ったところで僕は顔を洗った。
外に出ると、眩しいくらいの太陽の光が落ちていた。
僕はそれを拾い上げ、口の中に入れた。
虚構の世界。
葉はバラバラの方向を向き、虫達は地中に埋められる。
木は全て同じ色をし、並列に並べられている。
人々の笑い声は僕の頭を裂いていく。
内臓はでろでろに溶かされ、ある意味気持ちがいい。
「すいませーん、ご質問よろしいでしょうか。」
とアンケートボードを抱えた中年の女が僕に話しかけてきた。
「よろしくない。」
と僕は言ってさっさとそこをあとにした。
高速道路のせいで空が見えない。
飛行機のせいで空が見えない。
僕はこの路地を初めて通る。
ありふれた路地だ。
どこにでもある。
人は道を、猫は塀を歩く、そんな路地。
一五,六の眼鏡をかけた女の子が本を読みながら歩いてる。
なのに何故か僕と目が合った。
女の子はその場に立ち止まり、こう言った。
「人殺し。」
「そうさ、僕は人殺しだ。現実と想像に何の違いがある。他人がやったことと自分がやったことになんの違いがある。」
と僕は言った。
「パーティーは始まるの。」
と彼女は言った。
「知ってるよ。今夜は牡蠣鍋だもの。」
僕がそう言うと、彼女は微笑んだ。
そして自らの家に僕を誘うと―それはとても小さな家だった―、小さな箱を渡してくれた。
「今度はあなたの番。誰かにそれを渡せばあなたはあなたでなくていいのよ。」
僕は家に戻った。
時計は六時八分。
もう少しでダイアナクラークの演奏が始まる。
「もう少しで着くわ。ビールでも先に飲んでて。」
僕はビールを飲んだ。
何をすればいいのだろう。
何もしたくない時にも何かをしなければならない。
生きている間の選択は自由なのだ。
死んだら生きている間の選択が出来なくなる。
それだけだ。
暗闇にいると、小さな光が大きく見える。
僕の身体は暗闇。
血が流れるように、闇が僕の身体を流れている。
隅々まで、僕の身体を浸すように。
しかし僕だって小さい頃はもっと光を持っていた。
逆に光を持ちすぎていたことで、実は何も持っていないことに気付かなかったのだ。
闇に気付けば、気付いた分だけそれは増える。
どうしたってそれを拭い取ることはできない。
どうしたって。
偽善的な活動をして、自己満足を感じたっていい。
でも、一瞬でも存在したことは無くならない。
弁護士の資格を持ってる。
職に就こうと思えば、どこかの事務所には入れる。
しかし、僕は何をすればいいのだろう。
そんな迷いも気付かなければよかった。
未だに彼女は帰ってこない。
小さな箱はテーブルの真ん中で孤独を演じている。
目を細めればそれは全く違う物にも見える。
見ようと思えば何にだって見えるのだ。
彼女はもう帰ってこないのかもしれない。
正しい選択だと僕も思う。
「そうだよ。」
と口に出して呟いてみる。
そうすると太陽の光が口から静かに出てきた。
そしてゆっくりと、名残惜しそうに消えていった。
「おやすみ。」