底
陰鬱なる心の闇に囲まれて、私は底に向かって落ちていた。風は身体に当たらず、音は身体に響かず、熱は身体に届かず、私に残されていた感覚というものは、体のうちにある臓器がふわりと持ち上がる不快なものだけだった。私は何も抵抗はしない。私はひたすら底にある境界に向かって落ちるだけなのだ。これは前進でもなく後退でもない。時間は進まず、戻るものもなにも無い。私は瞬間的なその位置で、ただただ身体を任せる。私には留まることさえ許されなかったのだ。 すっかり陽は落ちてしまった。私は家の近くにある小さな公園のブランコに乗りながらぼんやりと遠くを眺めていた。ジャングルジムや鉄棒や滑り台が長い影を伸ばす中、私の影はブランコの中に溶け込んでいった。唇からペロリと舌を出して風を舐めてみる。何も感じる事は出来ない。しかし、何も感じる事ができない事に私は感じてしまっている。感じる事によって私は私以外の何かを失っていく。もしかしたら当分の間、私には未来が訪れないのかもしれない。いや、そんなことはどうでもいいことだ。人生のあらゆることは自らの背中にぴったりと張り付いている。ねっとりと舐めるような視線で観察を怠らない何かを私たちは背負っている。何も臆する事は無い。全ては前からでもなく後ろからでもなく、始めからそこにあるのだ。私は滑り台の影が闇に侵食されるのを眺めてから、帰路に着いた。 「あなたって不思議な人ね。こんなに柔らかいペニスがちょっとこうするだけで釘を打てるくらい硬くなってしまうっていう事と同じくらい不思議な秘め事をあなたはたくさん持っているような気がするわ。」と、女は言った。女は私の股間にそっと手を置いた。「そうだね。確かにたくさんの秘密を僕は持っているよ。でも、その殆どが、その偶然にさえ出会えれれば誰にでも持ちえる秘密だってことさ。だから僕にはペニスほどの不思議さはひとかけらもないよ。ペニスにさえ劣る男だ。それはそれで不思議なのかもしれないけれど。」と私は言った。ペニスにさえ劣る男。「ほとんど。ほとんどってことは少しは誰にでも持ち得ない秘密があるって言う事かしら。」と女は言った。女は私の中で柔らかな潜入捜査を始める。「そうだね。誰にでも持ち得ない秘密はある。少しばかりは、ね。ただ、その秘密は本質的に秘密なんだ。形式上の秘密でもないし、表面的な秘密でもない。それはあくまでも秘密。どこまで言っても秘密なんだよ。本当の秘密と言うのは、永遠に秘密のままなんだ。だから僕にとってはその秘密については存在しないことと同価値なんだ。たとえ僕がその秘密を話したところで、それは全く値しない。」と私は言った。女は静かに笑みを浮かべた。えくぼが浮かび、とてもかわいらしかった。女は捜査を中止して、顔に垂れた長い髪の毛を耳にかけた。「なにもあなたから秘密を穿り出そうって訳じゃないのよ。ただ、秘密があることを知りたかっただけなの。そうなのね。あなたには本質的な秘密があるのね。私なんてそんな秘密何一つ無いわ。」「そんなことは無いよ。誰にだって秘密はあるさ。」と私は言った。「いいえ、あなたの秘密に比べたらどうでもいいことよ。私はこういう仕事で、いろんな人の秘密を目にしてきたけれど、大体の秘密と言うのはどれもこれも共通しているのよ。その人個人だけの秘密なんて何も無かったわ。よくわからない金をもらったり、知らない男や女と寝てみたり、片方の乳首が黒ずんでいたり、ペニスが曲がっていたり、両親のセックスを盗み見してしまったり、本当に私の28年間の人生の秘密なんて爪に溜まるカスほどにも役に立たない事よ。」 女はそう言うと、蛇のように身体を動かして、するりとベッドから出ていった。冷蔵庫からビールを取り出し、まるでコマーシャルのようにとても美味しそうに飲み干した。私の喉がゴクリと鳴った。唇からこぼれたビールの雫がゆっくりと女の首筋を通り、乳房を通り、胎盤を通り、深い茂みの中へと入っていった。 女はあくまでも女であり、他の何ものでもなかった。妻でもなければ恋人でもない、ましてや友人でさえない。私たちは闇の底へと落ちる過程なのだ。そこには誕生も消滅も無い。我々はひたすらそこでセックスをしてビールを飲み美味しい物を食べて下らない会話を交わし、そして、そして、、そして、、、。 男はこれがけじめです、とだけ言って私に左手の薬指をくれた。ダイヤが埋め込まれた贅沢なつくりの指輪がグリコのおまけのようについていた。男はぼこぼことした頭を丸め、アルマーニのコートを着て私の家に訪れた。そしておもむろに薬指をポケットから取り出し、私に渡したのだ。私は薬指は愛おしいけれど、こんな指輪は要らない、と言って指輪を薬指からはずそうとした。しかしピッタリとくっついているようでまったく取れなかった。指輪の加工部分の素材と指の脂が混ざり合って取れないのだ、と男は言った。私は仕方がないので薬指をポケットにしまってから、本当は君の薬指が欲しくて欲しくて堪らなかったんだ、ああ、残念、と耳元で囁いた。男は眉を潜め、ドアの隙間から逃げるように帰っていった。私はその姿を見ながら、肌が焼けるような夏の日に風に飛ばされた真っ白なTシャツを連想した。そうだな、夏は小指にしよう。男の行方はそれきり途絶えた。 私はその男の全てが欲しかった。全てを手に入れたところで、男の全てが分かるわけではないのだけれど。男の中にある膨大な知識量を手にし、私もその不安定なカオスの世界へと導かれたかったのだ。しかし、いつだって男は突然に現れて、私の中に黒い液体を注ぎ込み、それが体現化され始めた頃にはもういなくなっている。私はどうしたって男には追いつく事が出来ないのだろうか。私にこれほど侵食した男はかつていなかった。だが、永遠に男は通低する事は無いだろう。なによりも、男がそれを許さないのだから。 私は闇へと落ちながら、鳥になって飛んでいく者を数え切れぬほど見てきた。彼らは闇に吸い込まれていることにも気付かず、懸命に羽を動かし、そしていつしか上空に向かって飛んでいった。ある日、私は腕から羽毛が生え始めている女に出会った。若鶏が一番おいしい。「空を飛びたい、自由に。そしたら私は地に這いつくばってる下卑た人間を鎖の無い空から見下せるのよ。本当の自由よ。観て、そのためにこんなに努力をしたのよ。夫だって捨てたし、子供だって捨てたし、胎児だって引きずり出したわ。観て、綺麗でしょこの羽。もう少しよ。そうね、来年くらいには飛んで見せるわ。残念だけどあなたとはもう会えないかもしれないわね。心配しないで、あなたは地面を舐めるのが性に合ってるわよ。あら、あなたアリクイに似てるわね。」 一年が経つと、女は身体を震わせて空へ飛び立っていった。女はいまや空を飛ぶことのみ許された生物になってしまった。果たしてそれは自由なのだろうか。時折私の周りにだけ雨が降る。 落下に変遷は訪れないが、内的な移り変わりは起こる。しかし、それは未来への投企では無く、心の退嬰である。腐心するほど人は愁思するようになり、それに気付いたその瞬間に、人は老いと死を匂いで感じ取る。それからの人は、生きながら死に、鼻をひくつかせながら自然に終焉へと歩を進めていく。体の横を風がよぎるのを感じ、青い黄昏を睨み、夜のとばりに乏しい油で松明を燈し、灯が消える頃には、嘆声を上げること無くひっそりと死んでいく。人の根幹を考えれば考えるほど、私の身体は底へと導かれ、かつては矜持を持した友の身体を時の流れと共に眺める事を繰り返す。味読に足る人の生とは一体なんなのだろうか。 しかし、私にもそろそろ終わりが近づいてきたようだ。真っ白なクロスがかかった長方形のテーブルの前に立ち、椅子が引かれ、私は座った。鉄道員みたいな制服を着た男が私の前に座り、大きく手を広げて口を開けた。彼の胸の名札欄には「遺失物管理官」と書かれていた。遺失物管理官は、いよいよ終わりですよ、終わり、と私に言った。私は無言で頷き、奥にある扉を指差した。もう行かなくては。遺失物管理官は、大丈夫、時間はあります、と言い、私に白い石を渡した。そしてあなたのそのポケットに入ってる黒い石を下さい、それを集めるのが私の役目なんですよ、と言った。私は気付かぬうちにポケットに入っていた黒い石を遺失物管理官に渡した。遺失物管理官はそれを手に取ると、複雑に定規が貼り付けられた計器で石をくまなく調べ、舌で舐め、口の中でコロコロと転がし、再び手に戻した。つまらん人生ですな、と私に言った。私は立ち上がり、扉に向かった。もう行かなくては。遺失物管理官のまとわりつくような視線を背中に感じる。もう行かなくては。私は扉を開き、第一歩を踏み出した。 周りは再び真っ暗だ。認識する事のできない手や足を感覚のみで動かし、私は進んでいく。しかし、歩を進めるごとに、私の脳味噌はとろとろに溶け鼻や耳から流れ出し、眼球が転げ落ちて、歯がボロボロととれ、耳が腐り落ち、神経はブチブチと音を立てて弾け飛び、内臓がボコボコと音を立てて伸縮し、手や足の指が奇妙な方向へ折れ曲がり、朝露が光を浴びて蒸発するように意識も消え去っていった。 つまらん人生ですな。遺失物管理官は私を見届けると立ち上がり、誰にも気付かれないように柔らかく扉を閉め、落下地点を求め去っていった。