興味本位で禍が起こった付近に近づくと禍が引き込もうとする目に見えない力が働く、時として死ぬ。
いままでどうして、豪雨による水害時におじいさんが川を見に行って死ぬのか、その理由が分からなかった。
実際に自分で近いものを体験して、そのなぞが解けた。
昨年、大雨による水害が一部地域であった。
その翌週、ドライブがてら温泉宿を探していた。
どういう訳だか、いつもとは違う地域の温泉宿に行きたくなり、向かったのだが、なんと水害から一週間も経つのに付近は復旧工事をしている道が多く、あちこちと迂回をしいられた。
今思えば、一週間しかたっていないというのが正しい判断なのだろう。
当然かもしれないが、迂回をすればするほど通った事も無い山道へいくようにナビが誘導する。
山道は木々が生い茂り、突き抜けるような晴天で景観は最高だ。
決して嫌いじゃない、こういった自然との一体感を楽しめるこんな山道は。
ふと見ると橋を渡ったところから、川辺に降りられるような場所が有ったので、そういえば先週の水害の影響はあるのかと気になり、見に行くことにした。
川辺手前に車を止めて、ちょっと様子を見てくると言い、降車し川を見ると、今まで見たことない、想像を絶する程の勢いで土色の川が豪快にゴーっという爆音とともに流れていた。
なんとも荒々しくも豪快なその光景を見てしばしたたずんでいた。
本当ならタバコに火をつけてじっくり眺める所だけど、テレビのニュース映像なんかも頭を過り、
なんだか見れば見る程怖くなり
車に戻ろうとした
その時。
なんと車が川に向かってまっすぐ突進するかの如く動き始めたのだった。
慌てて車に戻るが、徐々に動き出した車の勢いは増す。
サイドブレーキを引いたのになぜ動く?!
二つの選択肢がよぎった。
車の前に立ちはだかり、止めてみるか。
車に急いで乗り込んでブレーキを踏むか。
さぁどうする?俺は後者を選んだ。
車の勢いからして、力でねじ伏せられる状態ではないと判断した。
恐らく顔面蒼白で車のドアを開け、ブレーキを踏んだ。
慌てていたので、腕をねじり負傷した。
実は一年経つ今でもそのときねじった腕が痛む。
しばらくは手が上がらなくなってしまった。
一年間もの間、この腕の痛みと共にあったのは、この教訓を忘れないためなのかも知れない。
ぎりぎりだけど、なんとか無事に停車できた。
あとほんの少しで車は濁流の中だ。
よくよく見ると、停車した場所は、結構な下り坂。
普段だったら、そんな場所に車を停めるような事はしないはずだ。
危機一髪で難を逃れたのだが、停車した車越しに目の前の濁流の川を見ると、「おいで、おいで」と言っているような気がした。
声は無いが、そんな気がしてぞっとした。
しばらく身動き取れず呆然としていたら、そんな光景を見ていたのか近くにいたおじさんが慌てて飛んできて、大丈夫ですか?と
こんな山奥におじさんがいるのもなんとも不思議だったが、なんだかほっとした。
復旧工事とかの関係の人なんだろうか、なぜこんな山奥に人が?とも思ったが、人がいたことになんだかほっとして安心した。
今思えば、付近は危険かもってことくらいは普通は分かりそうなものだ。
でもどこかで興味があり、無意識の中で、現地の状態を生で見てみたいという発想があったように思える。
だから普段いかない筈の方向へ向かってしまったのだと思う。
ということで、どういうことかと言えば。
災難があった→テレビで知る→近隣だと興味がわく→生で状態を見たくなる→なぜか直接でなくともその方角に行きたくなってしまう→災害地が引き込もうと働く→行ってしまう→どんどん近づいて行ってやがて。。。死。という事だ。
なので正しくは
災難があった→テレビで知る→弔う心を持つ→終わり
決して近づこう等とは思わない筈だ。
人が人として生きていれば、決して巻き込まれる事はないのだ。
つまり正しく生きていかないと道を外すよってことだ。
災害は決して面白い事でも興味を持つことでもなく、不幸が起きた事や被害者に対して礼を尽くす必要がある。
こういった意味では、自己中心的な発想で、心霊スポットや禍が起こった場所等へ行く事も危険を伴う可能性が有る。
災難を逃れる為の第一歩として、日ごろから人の心を以て何事にも対応していくという基本事項を心がけると良いだろう。