元凶は入試
入学試験は元々科挙の影響を受けたのではないかと思われる。大学は、学問を目指す者は広く受け入れるが、向学心のない者は切り捨てて行くと言う本来の姿に戻せば良いだけだ。エリートを入学させるのではなく、エリートを養成するのが当たり前のような気がする。優秀な人ばかり集めているにも関わらず、世界的なレベルで見てそれ程優秀な人材が輩出されないのはゆゆしき問題ではないか。教育関係者は疑問や責任感を感じないのだろうか。 科挙は採用試験ではないか。学生は大学に就職するのか?そんな訳はない。教育改革は根本を見つめ直す必要がある。大体、20数年間教育しなければ使い物にならないなんて、その時点で終わっている。戦前の教育で悪い点だった、高学歴=エリート、一般の兵隊はどんなに頑張っても偉くは成れないが、海士や陸士に受かった連中(まともな人も居たが、コネで入った連中もいると聞く)は自動的に昇進していく仕組みを温存して、良い点である、教育に区切りを付けていた所を取っ払ってしまった。一番変えなくてはいけないところが、明治以降全く手を付けられていない事に気が付く必要がある。戦前の教育で良い点だと思うのは、それぞれ教育の段階でキッチリ区切りがあり、問題の先送りがなかった点ではないだろうか。尋常小学校を卒業すれば、読み書きそろばんが出来、そのまま社会に出て行けた。今は義務教育を終えても満足に読み書きできない子供が存在する。その年齢までに仕込まなくてはならない必須の知識を、授業時間の短縮や、余計な受業で(英語、パソコン等)邪魔をし、小学校で出来なければ中学へ、中学でダメなら高校へと、授業を把握できない子供でも次々先送りしてしまう。授業がつまらない子供達は当然色々な事件を起こす。子供達にはとりあえず勉強しろと言って、当て所ない勉強の海に放り出す。勉強が出来る出来ないと言う極狭い社会しか、大人が提示できないから、世間が狭められた子供達は首を括る。だからここで、義務教育は日本人として最低限必要な知識を身につけさせる。高校で、たいていの職業に就職できる程度の教養と、大人として自立できる生活態度を身につけさせる。大学はあくまでも研究機関として、物事の真理を突き詰めて考えたい人達のために門戸を広く開ける。と言ったようにそれぞれの役割と責任を明確にする必要がある。それぞれ、目指すべきゴールがしっかりしていれば、余裕が生まれ、それが真のゆとり教育に繋がるのではないか。特に初等教育においては、読み書きそろばんをしっかり覚え込ませるだけでなく、より洗練して貰いたい。すなわち、より綺麗な字が書ける、より早く正確に計算が出来る子供を育てる必要がある。前回のエントリで言えば、円軌道をしっかり回す事が必要になる。話が飛ぶが、国技大相撲で、日本人力士の活躍が見られない。これは、国民が学歴至上主義に陥り、貴乃花のように中学卒業後すぐに相撲部屋に入門する子供が減ったからである。他にも日本の物作りが揺らいでいるが、集団就職の様な若い労働力が減り、就職年齢が上がっているのも一因だろう。若くて柔軟なウチに仕事に没頭し、そのコツを体得していく。そんな場面がめっきり減ってしまい、職人が育ちにくい世の中になってしまった。若い内でなければ出来ない事がある。とりあえず、社会に出てみて仕事して、自分に足らないモノを見つけた時、広く門戸を開いている大学で学ぶ。コレこそが、安倍首相の言う再チャレンジに合致しているのではないか?企業の採用担当者にとっても、遊び惚けた学生を採用し、使い物になるまで教育するのと、若くて体力のある連中を子飼いで教育し、無理の利く内にこき使うのではどちらが得か考えた方が良い。サッカーのカズはもう21年もプロ生活を続けている。ゴン中山が、21年やるには43歳?までやらなければならない。こうした人達が、自らの人生でつかんだアイデアや疑問を、大学の場で議論や調査によって深め、真理を探る。高度の教養と言ってその実、カビの生えた左翼思想や、気持ち悪いジェンダーフリー思想を洗脳しやすい若者に垂れ流す、今の大学のあり方とではどちらが我が国の為になるのか、是非とも考えて貰いたいものだ。我が国を動かすエリート層がほとんど全て、大学の洗脳を受け、自らの行いに疑問を持たない以上、発想の転換は無理なのかも知れない。大学入試をなくして、進学卒業を厳しくせよと言うアイデアの他に、もう一つ検討に値するアイデアもあるのだが、コレは言わぬが花であろう。