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アルパカ日記

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教育

2009年11月30日
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カテゴリ:教育

 ≪メルヘンのような行政≫

 

やってみなくちゃ判らない事はあるが、やる前から結果が出ている話もこれまた多い。

 

高校生のあるぱかは教員になろうと、教育大を狙ってた。

勉強が大嫌いで、全く勉強していなかったから、合格するはずがない

 

試験を受ける前から結果が出ていたが、”やってみなくちゃ判らない”と無謀な挑戦をしたモノだ。

 

入試の試験料をドブに捨てたようなモノ

息子の学力を信じた父ちゃん母ちゃん、、、許してクロorz

 

でも間違って合格し、教員なんぞ成らんで本当に良かっただよ。

 

絶対、父兄を殴り飛ばしたり、国会前に日教組の組合員を装って紛れ込み、ガソリン撒いて火を付けずに済んだ。

 

どちらも犯罪者として裁かれ、一生を棒に振る。

 

結果は火を見るより明らか、、、、

 

教員免許更新制や、教育課程6年への延長なんて、駄目に決まってる。

 

西村先生は早期の研修なんて言ってるが、それもバカらしい。

 

どうすべきか?2年前に書いた。

こんな簡単なことも分からない人々が教育を左右する。

我が国はじり貧、絶対良くなる訳がない

 

 

民主党政権の長妻昭厚生労働大臣は野党時代から、厚労省が「年金などの現状把握」をしていないと指摘していた。また、理念にとらわれ、現実を見ない、という意味で「厚労省はメルヘンの世界に生きている」ともいった。
 教員の質の向上を目的に今年4月に導入された教員免許更新制について、文部科学省の鈴木寛副大臣は14日、平成22年度は継続した上で、早ければ23年度から、現役教員が教職大学院大学で学び「専門免許状」を取得する新制度へ移行する考えを示した。免許更新制は導入からわずか2年で廃止される見通しとなった。

 

 







最終更新日  2009年11月30日 22時48分27秒
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2007年08月25日
カテゴリ:教育

はりり坊っちゃんて”何”な方は、まずこちらを

教育の重要性は認識されつつあるが、的はずれな議論が多く、このままだとより悪くなる気がしてならない。

とにかく子供の成長を急がせすぎる状況を変える必要がある。 

 

寺子屋や、尋常小学校しかなかった過去の日本が、どうして世界に互する迄に急成長したのか。
教育制度をあれこれ弄る前に、その訳を冷静に検証するべきではないのか。

全国から俊英ばかりを集めた陸海の士官学校。
その一握りのエリート達がなしえた事は何だったのか?
なるほど、中には真のエリートと言える人も有っただろうが、その数は満足できる水準なのか?

現在の状況に当てはめれば、東大を卒業したエリートで構成される官僚達が犯した失敗の数々。
一体何時まで同じ過ちを続けるつもりなのか。

教育制度の誤りは明らかなのに、根本に手を入れず、表面的な対策でお茶を濁すばかりとしか見えない。
今まで蔑ろにしてきたに光を当て、突き詰めていく必要があると思う。

今の633制ならば、義務教育を切り離し、そこで完結させる

つまり、中学を卒業したら、社会で充分暮らして行ける。
進学する為の学力ではない、日本人として恥ずかしくない教養を身に付けさせる。

思考の土台になる国語、論理の基礎、算数。
日本人としての揺るぎ無い個性を培うための古典。
それらを支えるために不可欠な、健康な体作りの為の体育。

これらを人格が形成されるべき時期に重点的に行う。
まずは守を徹底すべきではないか。

中学卒業までに、国民としての素養をしっかり身に付けさせれば、国が主導すべき義務教育は事足りる。
それ以上はむしろ害悪だろう

子供も中学生くらいになれば、親に楯を突く。
黙っていても既存の殻を破り、個性を発揮しようとするモノだ。

内から突き破ろうとする衝動を「受験」で押し込めるから色々問題が出る。

義務教育の改革と平行して、大学の在り方を変えなくてはならない
むしろ、こちらを変えなければ、教育改革は成り立たない。

一番の問題は、「受験のプロにならなければ、入試を突破できない」ここに尽きるはずだ。
大学を優秀な成績で卒業した人でも、もしまた入試を受けたとして、確実に合格できるだろうか。

いびつな入試が受験競争を生み、入試で疲れ果てた学生が学業を疎かにしてしまう。
これでは活力に溢れた人材を輩出する事は難しい。

そもそも大学が何かを教える場であってはならない。
多彩な才人を集め、常に新しい何かを生み出す生産の現場であるべきだ

入試は思い切って無くす。
今の教養課程、入学後の1,2年で、その大学の研究レベルに付いていける能力があるかないかの判断を下す。レベルに付いていけない連中は容赦なくふるい落とす
在学中にどれだけの成果を上げたかで評価するシステムに作り替える。

落第は退学として厳しく扱えば、競争や新陳代謝が促され、大学の品位とレベルが保たれるだけでなく、優秀な頭脳が、新しい発見を次々もたらすのでは無いだろうか。

その時点で力が足りなくても、入試が緩ければ何度でも入学することが出来る。
これこそ、本当の意味での再チャレンジではないか

学生が社会に出るまでの猶予期間と成り下がっている現在の大学。
ここの在り方に言及しない教育改革など、百害あって一利もないと思うのだが・・・







最終更新日  2007年08月25日 07時33分15秒
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2007年04月29日
カテゴリ:教育

医は仁術とよく言われる。
科学が進歩し、医療技術が飛躍的に向上した現代。
不治の病の治療が可能になった。

重傷者を見守る事しか出来なかった時代では確かに医は仁術であったし、またそうでなければならなかった。

長崎で射殺された伊藤前市長。

弾丸は彼の心臓を傷付けていたそうで、本来なら即死だが、死亡の発表があったのは翌日になってからだった。

心停止=死、であった定義が曖昧になったのは、高性能の人工心肺が登場した為である。

医療器や薬剤の進歩によって支えられている現代医療。
昭和天皇の場合でも、癌末期で治癒の見込みが無いのに、松の内の御崩御は避けたかった。
と言ったら言いすぎだろうか。

命と医療費の対費用効果を考えなくてはならない現代では、医は算術なのである。

同じように教育に携わる人達も「聖職者」と呼ばれているが、こと、教育行政に関して、子供の将来を第一に考える”聖職者”は居るのだろうか。

全国一斉の学力テスト。

実施に30億円掛かるそうだ。
その利権に群がる政治家や、天下りポストを狙う役人は居なかったか?

個人情報に配慮しつつ、学力の把握に努める一案を示してみたが、情報処理の専門家でなくても”よさげ”な提案が出来る。

ましてや、高学歴で優秀な役人が思い付かないハズが無い
何故やらないのか?

「業者の言いなりなら、役人にそれなりのメリットがあるから」としか考えられない。

住基ネットの場合なら、システムをWindowsで統一し、全国の市町村にハードを売り、儲けた連中が居るハズ。


彼等は仕事を落札しただけで満足したのだろうか?仕事を回してくれた政治家や役人に便宜を図ったりしなかったろうか??

教育という国の根幹に関わる事業だからこそ、まさに聖職者が公平無私で当たるべきなのに、私利私欲が優先されていないか?

すべからくこの世はお金で回っている

この事実に目を瞑り、最前線で額に汗して働く医師や教師に、仁術だ、聖職者だのと祭り上げ、無理をさせていないか。

大東亜戦争で度重なる作戦や武器弾薬の補給に失敗。

数々の過ちを犯したにも関わらず、前線の兵士の驚異的な粘りで凌いできた日本軍。

医者や教師に限らずあらゆる場面で良く出くわすが、リーダーシップを取るべき指導層の無能を、個々人の能力と犠牲で補ってきた悪癖。
昭和が終わって20年が過ぎようとしているのにちっとも変わらない。

普通の人間が普通に仕事しているのに上手く行かない世の中って、制度が間違っているとしか言えない。

ブラックジャックのような医師、金八先生のような教師、完璧な人材じゃないと動かないなんて、あり得ない。
そう思いませんか?







最終更新日  2007年04月30日 00時25分50秒
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2007年03月24日
カテゴリ:教育

自分の仕事の一部に、実習生の相手をするのも業務に組み込まれている。毎年、二十歳そこそこの学生さんと顔を合わす訳だ。


報酬もなくボランティアでやってるので(病院には実習費という形で収入があるらしい)、
やる気を維持するが大変だが(無報酬でやさられるのはアホらしい)、一種の定点観測だと思って続けている。(何か楽しみを見つけないとね)



技術職と言っても、国家資格の裏付けがあるから人気が高い。



で、いつも心がけている事がある。

医療技術は日進月歩だから、つい先端技術を教えたくなってしまうのだが、高校生に毛が生えたような若者に対し、社会に出る事の意味を語りかけるように努めている。

今までの人生の中で、サービスを一方的に受けてきた若者達。

それが資格を取り、社会に出ればサービスを供給する立場に転換する。

この変化は思いの外大きい

物見遊山で、実習に臨む若者達にとって、アルパカの言う話は面食らうモノらしい。(実習生を混乱させてどうするってツッコミはなしで)

学生達も一昔、二昔前の連中と比べてみると、明らかに毛色が変わって来ている。

サービスを受けるのが当然と考える傾向が強くなってきているのだ。


実習に来ているのだから、「教えて貰うのが当然」と考えてる連中の割合が高くなっている。

そこで「さるかに合戦」の話をするのだが・・・・

「さるかに合戦ってなんですか」と来る、前のエントリーでちょっと確認をお願いしたのは、コレが自分の身の回りだけの話じゃなく、日本国中の傾向かどうか知りたかったからなんです。

昔話が連綿と語り続けられてきた裏には、子供達に対する道徳教育の側面があったはずだ。

舌切り雀、金の斧銀の斧、洋の東西を問わず、無欲であれと言う願いが込められているし、かちかち山、花さか爺さん、悪行には報いが、善行には幸福が来る事を織り込んで語られてきた。
(”のだめカンタービレ”の影響で、金の斧・銀の斧の話は我が家では間違って伝わっている)

善悪の区別が付かない子供達に、昔話の形で染み込ませる合理的な方法だからこそ、長い間受け継がれてきたはずだ。

自分の子供のような実習生と話のきっかけを作るには、有名な昔話を使うのは理にかなった事だと思うが、最近その手が通じない。

まず、さるかに合戦のあらすじから話を始める必要がある。

おにぎりを持っていた蟹が、猿に言いくるめられて柿の種と交換する(柿の種は越後の銘菓じゃなく、果物の柿な)
蟹は種から柿を育て、いよいよ収穫しようとした時、木に登れないために猿に収穫を依頼するが、猿は自分ばかり柿を食べ、蟹には食べられない青い実を投げつける、猿の乱暴狼藉に怒った連中が復讐を果たす。

「さるかに合戦」の話をしてから、実習生に聞いて見る。

「さるとかにどっちが悪い?」と結局この話の裏にも勧善懲悪があるから、猿が悪いに決まっている。

ガッカリするのは、単純な話でもなかなか結論が出てこない、試験されていると考えて正解を出そうと苦労している様子がありありと見て取れる。

もっとも、何か命題が出された時、どんな反応するのか、ツッコミ力があるかどうか見てる訳なんだが、猿が悪いと言ってくれるのは及第点で、困るのはそのまま固まってしまう連中が多すぎる事だ。

時間は無限に無いので、仕方なく話を進めるのだが、さるかに合戦で悪いのは蟹に決まっている。

柿の収穫という一番大事な事を猿に委ねる。

立派な柿の木に育てる努力しようとも、収穫を疎かにしては台無しなんである。

木登りが苦手だろうが何だろうが、必死で取り入れしなくてはならない

見事に実習生諸君の姿勢と重なるのである。

二十数年間、勉学に勤しんできても、何か答えを求められた時、(アルパカの下らない質問でも、患者さんからの真摯な訴えでも)即座に対応出来なければ意味がない。

幾ら今まで努力したと言っても、仕事上でその知識を生かした解決策を即座に出せなければ意味がない。

社会に出て就職した時、患者さんや医師をはじめとするスタッフからの要求に即座に対応出来るか、まさしく収穫の部分で、ぐずぐず時間を掛けたり、人に頼ったりするのは間抜けな蟹ではないか。

教室と違い、実社会では完璧な答えなど有り得ない。

正解に近いか、少なくとも間違いでない答えを出していく必要がある。

生まれてから、ずっと正解のみを求められてきた連中にとって、アルパカの出す問いは厄介で、出来れば関わらずに済ませたいと考えるのは良く判る。


ウチの職場では実習生の自主性に任せているから、避けようとすれば避けられる。

実習生の間では担当者の評判は共有されているから、先入観バリバリで来るんである。

素直でソツはないのだが、全然面白味がない。

まるでロボットを相手にしているようだ、命令通りに動くロボットならまだ、それなりに対処出来るのだが、最近の傾向として、根拠のない自信に裏打ちされたロボットが増えている。

平気で危ない事をするから目が離せないし、注意すると固まって始末に負えない、ロボットではなく、ボロット

ボロットである事を気付かない連中に、社会に出る前にそのことを自覚させる仕組みが欲しい。

繰り返しになるが今まで、サービスを受ける一方だった諸君、卒業したからには自ら社会を構成する一員として、今度はサービスを供給する立場に立たなくてはならない。

そのことを肝に銘じ、蛹が蝶に変身するように今までの自分を脱ぎ捨て、社会に飛び立って貰いたい。

卒業シーズンの今、学校をさる諸君に言いたいかに。







最終更新日  2007年03月24日 10時05分15秒
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2007年02月05日
カテゴリ:教育

同じ年頃の娘を持つ身として、この件に対して慎重な態度を取ってきた。
詳細が伝わると、これはただの事故だと言う想いが強くなった。

きつく叱ったら、子供が家を飛び出し、交通事故に遭ってしまったようなモノである。

いわゆる虐待死とは別物であり、結果として我が子を死に至らしめた父親の心境を思うと、同情に堪えない。

子供も10歳くらいになると相当生意気な口をきく。

男の子はもう少し後だが、女の子のマセぶりは相当なモンだ。
男親にとって、あれだけ可愛がり、愛情を注いだ分だけ懐いていた子供が、少しずつ距離を取ることに、子供の成長と寂しさを感じるのである。

とは言え、まだまだ子供、しっかり躾する義務がある。
家庭内のルールを破ることに対し、毅然とした態度を取らないと、逆に子供達が混乱する。
叱るタイミングや方法にこれと言ったルールが有るわけではない。
皆それぞれ試行錯誤しながらやって行くのである。

外に縛り付けて、酒を飲み続けて居たと、この父親を非難したいようだが、それは違う。
一度罰を与えたら本人が真に反省するまで決して折れてはならないのである。

こうした場合は、仲裁者が子供に非を認めさせた後、父親との仲裁に入るのだ。
些か芝居懸かって居ても重要な手続きと言える。

まっ、何かと虐待虐待と騒ぎ立てる御仁が多いので、これ以上は言わないが、縛った父親に子供が首吊り状態になることを予見せよと言うのは無理な相談で、ひょっとしたら叱られたことを苦に、自殺を試みた可能性だって有る。

 「なぜ逮捕したのか。過敏に反応しすぎのように思う」
 逮捕翌日の1月24日、栗原市のバス運転手、遠藤忠男容疑者の自宅に駆け付けた地元市議は「逮捕」に強い違和感を示していた。


普段は仲のいい親子で、子供を溺愛するタイプの父親だったのでは無いだろうか。
親子の知り合いであろう、地元市議はだからこそ違和感を感じたのではないか。

 子を虐待死させてしまうタイプの鬼畜は、10年も育児に耐えられない。

大概は児童給付が終わるまでに殺してしまうモノなのである。

 結果的に愛するわが子を殺してしまった父親に、この後、司法が突き付けるのは、単に人が死んだと言う事実だけである。

罪の意識に苛まれる哀れな父親にとって裁判はどうでも良く、と言うより贖罪の意識から無実を主張したりしないだろう。

残された家族をしっかり養うことが亡くなった子供の供養になると諭して、立ち直させる必要がある。

彼を良く知る人のサポートが重要である。

ところで、この子がイジメに悩んで居なかったかどうか気になる。

ちょっとした仲間外れをイジメと受け取り、その鬱憤を家族に放出して居た可能性は無かったか?
いじめの初期症状を捉えるのは意外に難しい。

訳もなく家族に当たり散らすのが、家族へのSOSだったりすることがある。
親がそのサインを見落とし、単なる反抗期と思い込んで強く押さえ込み、子は親にまで見放されたと悲観したとしたら、、、何れにせよやるせない出来事で、何とも形容しがたい。

もう一つの事例は、イジメの被害にあって居た子供が今度は逆に暴行に荷担し、注意されたことをきっかけに、自殺してしまったと言う事件。

格闘技などを見て興奮するのは、アドレナリンが分泌されるから、見て熱くなるくらいだから、実際喧嘩になったとき、どんどん興奮して見境が付かなくなる。

自己のコントロールが出来る大人であっても、口喧嘩から暴力に発展する事がよくあるから、年端の行かぬ子供なら尚のことであろう。

理性で制御できない獣性を人間なら誰でも持つ、小さい内に自分の内にある獣性に気付き、上手く飼い慣らす術を身につけないで居ると、大人になったとき暴発してしまうと思う。

喧嘩、暴力のみならず、競争の類も絶対駄目だとする今の風潮が、自己制御出来ない人格を生み出して居る気がしてならない。

イジメられる側だったこの子が、暴行に荷担し、相手を完膚無きまでに叩きのめしてしまったとき、以前の自分を被害者に投影してしまった事だろうし、一方的な結果はしばしば後味が悪いモノだ。
自らの獣性に気付かされ、教師に注意されたことより、自分自身の良心が彼に死を選択させたような気がする。

若い命が無惨に散って行く。
効率を重視して、無駄を省き、完全を目指してきた日本社会。
戦後60余年が経ち、一応の完成を見たが、たまった歪みが脆い所に過剰な圧力を掛けている。
一本の金属棒のように丈夫に見えても、ストレスを加え続けると、ぼっきり折れることがある。
子供達の自殺は、ゆとりの無い完璧な現代社会に出来た小さな傷、クラックの様な気がしてならない。

ひずみがそこに集中し、社会がポッキリ折れるきっかけになりそうだ。

彼等の冥福を祈るのは勿論、続く犠牲を如何に無くすか?

本腰を入れるのは、大人達の義務だ。







最終更新日  2007年02月05日 22時58分40秒
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2007年01月27日
カテゴリ:教育

入学試験は元々科挙の影響を受けたのではないかと思われる。

大学は、学問を目指す者は広く受け入れるが、向学心のない者は切り捨てて行くと言う本来の姿に戻せば良いだけだ。
エリートを入学させるのではなく、エリートを養成するのが当たり前のような気がする。
優秀な人ばかり集めているにも関わらず、世界的なレベルで見てそれ程優秀な人材が輩出されないのはゆゆしき問題ではないか。

教育関係者は疑問や責任感を感じないのだろうか。 

科挙は採用試験ではないか。
学生は大学に就職するのか?そんな訳はない。

教育改革は根本を見つめ直す必要がある。
大体、20数年間教育しなければ使い物にならないなんて、その時点で終わっている。
戦前の教育で悪い点だった、高学歴=エリート、一般の兵隊はどんなに頑張っても偉くは成れないが、海士や陸士に受かった連中(まともな人も居たが、コネで入った連中もいると聞く)は自動的に昇進していく仕組みを温存して、良い点である、教育に区切りを付けていた所を取っ払ってしまった。

一番変えなくてはいけないところが、明治以降全く手を付けられていない事に気が付く必要がある。

戦前の教育で良い点だと思うのは、それぞれ教育の段階でキッチリ区切りがあり、問題の先送りがなかった点ではないだろうか。

尋常小学校を卒業すれば、読み書きそろばんが出来、そのまま社会に出て行けた。

今は義務教育を終えても満足に読み書きできない子供が存在する。
その年齢までに仕込まなくてはならない必須の知識を、授業時間の短縮や、余計な受業で(英語、パソコン等)邪魔をし、小学校で出来なければ中学へ、中学でダメなら高校へと、授業を把握できない子供でも次々先送りしてしまう。

授業がつまらない子供達は当然色々な事件を起こす。

子供達にはとりあえず勉強しろと言って、当て所ない勉強の海に放り出す。
勉強が出来る出来ないと言う極狭い社会しか、大人が提示できないから、世間が狭められた子供達は首を括る。

だからここで、

  • 義務教育は日本人として最低限必要な知識を身につけさせる。
  • 高校で、たいていの職業に就職できる程度の教養と、大人として自立できる生活態度を身につけさせる。
  • 大学はあくまでも研究機関として、物事の真理を突き詰めて考えたい人達のために門戸を広く開ける。

と言ったようにそれぞれの役割と責任を明確にする必要がある。

それぞれ、目指すべきゴールがしっかりしていれば、余裕が生まれ、それが真のゆとり教育に繋がるのではないか。
特に初等教育においては、読み書きそろばんをしっかり覚え込ませるだけでなく、より洗練して貰いたい。
すなわち、より綺麗な字が書ける、より早く正確に計算が出来る子供を育てる必要がある。
前回のエントリで言えば、円軌道をしっかり回す事が必要になる。

話が飛ぶが、国技大相撲で、日本人力士の活躍が見られない。
これは、国民が学歴至上主義に陥り、貴乃花のように中学卒業後すぐに相撲部屋に入門する子供が減ったからである。
他にも日本の物作りが揺らいでいるが、集団就職の様な若い労働力が減り、就職年齢が上がっているのも一因だろう。
若くて柔軟なウチに仕事に没頭し、そのコツを体得していく。
そんな場面がめっきり減ってしまい、職人が育ちにくい世の中になってしまった。

若い内でなければ出来ない事がある。
とりあえず、社会に出てみて仕事して、自分に足らないモノを見つけた時、広く門戸を開いている大学で学ぶ。
コレこそが、安倍首相の言う再チャレンジに合致しているのではないか?

企業の採用担当者にとっても、遊び惚けた学生を採用し、使い物になるまで教育するのと、若くて体力のある連中を子飼いで教育し、無理の利く内にこき使うのではどちらが得か考えた方が良い。

サッカーのカズはもう21年もプロ生活を続けている。
ゴン中山が、21年やるには43歳?までやらなければならない。

こうした人達が、自らの人生でつかんだアイデアや疑問を、大学の場で議論や調査によって深め、真理を探る。
高度の教養と言ってその実、カビの生えた左翼思想や、気持ち悪いジェンダーフリー思想を洗脳しやすい若者に垂れ流す、今の大学のあり方とではどちらが我が国の為になるのか、是非とも考えて貰いたいものだ。

我が国を動かすエリート層がほとんど全て、大学の洗脳を受け、自らの行いに疑問を持たない以上、発想の転換は無理なのかも知れない。
大学入試をなくして、進学卒業を厳しくせよと言うアイデアの他に、もう一つ検討に値するアイデアもあるのだが、コレは言わぬが花であろう。
 







最終更新日  2007年01月28日 01時10分24秒
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2007年01月25日
カテゴリ:教育

歪んだ入試制度のお陰で国力を失いつつある我が国。
本当に手が着けられない状況になってきた。
早急な対策が求められ、必要性も充分認識されているにも関わらず、有効な手だてが打てない。
全ては、学習や教育に対する認識が間違っているからだと思う。
算数を例に取り、話を整理してみよう。

誰もが最初に習う足し算、引き算。
初等教育に於いて、まずここから重大な問題が隠れているが、今回は触れずにおく。
前回までに、勉強は土星の輪のようなモノと言ってきたが、教育関係者や世間一般がそうした認識を持っているとは思いがたい。
下の図の右側のように、学習を始めた所から弛まず続けていけば、次々関所を通るが如く進化して行くと考えられているのでは無いだろうか。
早くから始め、足し算が出来るようになったら、引き算、それが出来たらかけ算と、次々教え込んでいけば人より早く外周の高みに達すると言う考え方だ。

勉強の概念図.GIF
だが実際、人間の進化は左側の同心円の様なモデルではないだろうか。
足し算などは簡単に出来るようになるだろうが、計算の正確さ、速度を追求していくとこれで良いという限界がない。早く正確に出来るようになったところで自動的にかけ算が出来ないのは、学習が連続ではなく、次に移る為には連続しない隣の軌道にジャンプする必要がある証拠と言えないか。
むしろ暗算が得意なら、3×3とするより、3を3回足して答えを出してしまい、掛け算の存在に気付かず過ごしてしまうかも知れない。

子供達を受験に駆り立てる今の教育では、ほぼ正解が出せるようになると、次の段階に進んでいく。
ゆとり教育最大の過ちは、次へと踏み出す関門を引き下げてしまった事にある。
初等教育で重要視されるべき習熟度が、あまり問題とされない。

最近綺麗な字を書く人がめっきり少なくなったように感じるのは、パソコン・ワープロの普及のせいではなく、子供の時の訓練が圧倒的に不足しているからだと感じる。

這えば立て、立てば歩めの親心は昔からだが、子供が次の飛躍への準備が整うまで、木の陰で見守るのも親の役目。
足し算一つとっても、同じ数を繰り返し足すうち、かけ算を発見してしまうこともある。
こうして、誰かに教わることなく、問題を解決してしまう喜びはかなり強烈だ。
誰もが小学生くらいの小さな時、学校が好きでたまらなかったのは、子供にとっての大発見がふんだんに溢れていたからと言えるだろう。

今の教育はあれやこれや、次から次へと教え込んで、子供が自ら発見し興奮する機会を奪い、学ぶ喜びを取り上げてしまっているようにしか見えない。

安倍内閣が掲げる教育改革は重要で是非成功させる必要はあるが、「全ての国民に高度な教育」と言うスローガンは、子供が自ら発見し興奮する機会を奪い、果てしない受験競争に巻き込む危険を伴う。
「国民の基礎学力を向上させ、学ぶことの大切さを認識させる」と言うスローガンに代えて貰いたい。

間違った施策を取れば、我が国は壊滅的な打撃を受ける。

今度の教育改革が成果を上げないと、教育の迷走が益々深まり、取り返しが付かない事態に陥る。

かなり深刻な時期に来ているので、関係者は私心を捨て、子供への愛情を機軸に論議を深めて貰いたい。

大学受験に、人生経験が豊富な大人ですら解けない問題を出す。
受かる為には、幼少時から塾などで解法のテクニックを学び、熟達しなければならない。

必修科目の未履修問題は、豊かな人間性を培うべき青春時代に、ひたすら受験競争に駆り立てた結果と言えるはずだ。

大事なモノを見失い、促成栽培したエリート達がどんな事をしでかしているか、近頃のニュースを見るにつけ、教育の失敗を見せつけられる気分である。
今回のエントリで教育改革の具体案を示すつもりでいたが、算数を例に取り、図示する事でより理解が得られると思い、絵を描いてみた。

抽象的な話が、算数を例に取ると単純化され、理解しやすくなる。
意図が解って頂けただろうか。








最終更新日  2007年01月25日 16時50分42秒
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2007年01月22日
カテゴリ:教育

教育に関するイメージを前のエントリーで示したが、それに全く同意しない或いは、根本的に間違っているとお考えの場合は、これ以降読んで頂くのは時間の無駄だと思う。
この先どんなヨタ話に持っていくか、若しくは暇で暇で仕方が無い場合だけ読んでいただけると摩擦が少なくて済む。

先のエントリで、知識や教養は土星の輪のようなモノと述べた。
勉強が出来る人も、出来ない人も、土星の重力に支配された軌道上を回る塵や岩石のようであり、ただ前を行くか後ろにあるかの差でしかない。
人が本当に進化しようとするなら、何時までも同じ軌道を回り続けるのではなく、隣の軌道にジャンプすることが必要だ。
多くの日本人が誤解していると思えるのは、外側の軌道に移るのに、勉強を続けてさえいれば良いと信じて疑わないことに有る。

2次元の世界の住人には3次元の構造が理解できないのは、3次元の世界の我々が4次元の世界を理解し得ないのと同様ではあるが、そうした世界が有る事を考え想像すること可能だ。
より高次に身を置く事によって、世界観が広がる。

今の閉じた世界に身を置く限り、外側に別の軌道が有ることさえ気付くのは難しいが、持ち得た知識を総動員すれば、構造を理解することは出来るだろう。

西尾先生の円周を打破したいとする気持は、別軌道の存在に気付き、次元を超える為の糸口が見つからないもどかしさ、地道に努力を続けていけば何れ最外周にたどり着くと思っていた信念が揺らぎ、乗り越えられない溝を発見した事への畏れから発せられ事だと思う。
新たな次元に気が付いた者は次の地平にたどり着けるが、間違った認識を捨てきれない者は進化できない。

大多数の人々が、その罠に嵌り込んでいる様に思われる。
自分の子供に施す教育でも、幼児期からの英才教育は、「早くから始めれば、より遠くへ到達できるはず」という思いこみによって行われている。
コレは個人だけではなく、ほぼ国民の常識となりつつあって、教育の再生を阻む大きな要因だと思う。

うーしびれが切れてきた。
性に合わない書き方は疲れるし、文章が続かん。

勉強にキリがないのは、一つの輪を巡っているから。
子供達を勉強に駆り立てると、先に進んでいるように見えるが、軌道上を飛び飛びに進んでいくようなもので、色々取りこぼしが起きる。
だからと言って、隙間を埋め軌道が美しい線になるように、森羅万象全ての事を学ぶのも、「貴方はここまで勉強して、十分理解しましたから、次に進んでください。」と誰かにケリを付けて貰わないと無限の作業に落ち込んでしまう。

大学の入学試験で問われるべきものは、個人の知識の量ではなく、次の地平に飛び立つ勇気と、行動力のはずだ。

西尾先生のブログから受けた印象は、我が国の入試制度はそうした要求には応えられないと言う点に尽きる。

例えば、医師を目指す人間に、死生観を問う
それに優劣を付けるのも何だかなと思うが、入試にはそぐわない。
仮に満点を取れる回答があったとしたら、それは入学してから、そこで受けた教育の成果でなくてはならないはずだ。

入試において満点を取るような人物を、大学でいかように教育していこうと言うのだろう。
そもそも難問を解ける人間が、何のために大学に入ろうとするのか。
入試で篩にかけられた秀才達が、キャンパスライフを送る。
賢い人達ばかりだから、学校側の教育の手間が省け、結局4年間遊んで暮らす羽目にならないのだろうか?

どうにも頭が悪くて理解できない。
こんな馬鹿なアルパカを、世間に放り出すと具合が悪いから、一時期収容して教育を施すという方が理に叶っていると思うがどうだろう。

大体何のために大学に入るんだろう。
大学に入って学究の道を邁進し、偉大な研究者になると言うなら話は判る。
今はそうした人は少数で、ほとんどの場合「就職に有利だから有名大学に入りたい。」のではないか。
大学のブランドで人事を差配する企業もアホだが、東大に受かるような頭のよい子はサッサと企業に就職させ、4年間鍛え上げた方が、東大の新卒を就職させるより会社のためにならないだろうか。
4年間勉強してきた事が役に立たないからといって、専門学校に入り直す学生も少なくない。
そうやって貴重な青春時代を学業に費やした所で、社会に出てすぐ働き出せる訳もなく、ニートやフリーターを大量生産してしまう。

我が国にとって、唯一の財産である人材を、大学に眠らせておくのは無駄でしかない。
本来研究者しか受け入れるべきでない大学に、我が国の子供達が大挙して押し寄せる理由は「勉学は続けるほど高見に到達する」という誤解だ。

例えば世界のソニーと言われた企業がふるわない。

有名ブランドになり、就職希望者が増えた結果、就職試験の成績の良い者が多く居るはずだが、企業の活力がなくなり、凋落傾向に歯止めがかからない。

我が国最高峰の教育機関、東大。

難関を突破した俊英揃いであっても、画期的な研究成果をあまり聞いた事がない。ノーベル賞の小柴先生にしたところで、「業績として凄いのは”カミオカンデ”と言う観測装置を作る為に巨大な予算を分捕った政治手腕でしょ」と言ったら言い過ぎか。

西尾先生の一連のエントリーで、試験問題を作る側の苦労が良く解ったが、そうした”中の人”の苦労が全く報われていない。
「教育がその個人の人生を豊かにする」といったミクロな目的の儘なら、それでも良い。
高度な知識を国や、世界に提供し、世の中を豊かにする。
そして、その豊かさが最終的に「自分に還元されていく」と言った理想的な教育のあり方を願うのなら、大学のあり方を根本的に見つめ直す必要があり、それこそが教育改革のはずだ。

具体的にどうするかは次に書く。 







最終更新日  2007年01月22日 14時36分56秒
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2007年01月19日
カテゴリ:教育


今年は明けてから、西尾先生のblogで遊ばせて貰っている。

ある程度知的レベルの高い所で、一つのテーマについて考える時、自分が持っているイメージがより鮮明になる事がある。

一人で考え込むのと、他人の意見を聞きながら、ワイワイやるのとの差だろう。

自分以外の誰かが発したちょっとした言葉が、解決の糸口を見つけたりする。
何かのテーマに向かって注意を傾注し、問題を解決しようとする。
コレは授業そのものではないか。

西尾先生のblogは「入学試験問題と私」のテーマで(五)まで進んでしまった。
特に今回は医療系の入試問題という事で、医療従事者として、何かしら解答めいたコメントを寄せたいと考えているが、個人的に見過ごせない問題もあって、そちらに手が掛かり、ついつい後回しにしてしまった。

西尾先生は自分の文章を入試問題として出題された経験から、出題者がどう料理するか楽しんでおられる様子が窺えるが、時に意図しない捉え方をされ、戸惑っているようにも見える。

この一連の流れを見て、入試制度の不具合を感じ、持論である「大学入試の廃止」は、教育改革の為に益々必要不可欠に思えて来た。

本来大学とは、各々の個性をぶつけ合い、学問を深める為にあるはず。
入学試験によって、その大学に相応しい人物を選抜すると言うが、学生の質を揃えるという事は活性化という意味に置いてはマイナスに作用する。

入試問題がどんな意図の元に作られているか、無学な自分には知る由もないが、この幾つかのエントリーで感じた事は、試験官が想定したレベルのモノだけが通過出来ると事だ。

自分のように頓珍漢な答えを出すモノは勿論だが、試験官のレベルを超えてしまったモノも試験に受からない可能性がある。

日本の大学のレベルは最高位の東大ですら19位であると新聞に出ていたが、並はずれた天才を排除しかねない入試制度が、その要因の一つであるかも知れないとさえ思う。

我々は勉強すれば賢くなれると教えられ、多くのモノがその努力を惜しまないが、そうで無い気が今では強くなっている。

人間の永い営みの中で、人は賢くなって来たとは言えず、輪廻の輪の中にいると言う古くからの認識に納得させられる。

現在の日本人の多くは、円周と言う認識を持ち得ても、レコードの溝のように1本であり、勉強を続けていけば何れ最外周にたどり着くと考えているのではないだろうか。

そこに教育の迷走があるように思えて仕方ない。

輪廻はちょうど土星を取り巻く輪のようで、そうした構造を最初にハッキリ認識した人物が釈迦であり、教育でも同じ事が言えるのではないだろうか。

カッシーニ

拾い先のURL忘れてしまいました。国の公的機関のはず。


すなわち多くの人が言う「賢くなる」と言うのは、無数にあるリングを巡る塵芥である我々が、その決められた軌道の、前を行くか後ろにあるかの差でしかなく、多少愚鈍なモノでも、同じ位置にたどり着け、賢いモノも勉強のスピードを緩めれば、侮っていたモノと肩を並べる羽目になる。

そうした無限の苦しみから逃れる為には、今いる位置から、外側のリングに次々と遷移していき、最終的には、土星の重力を振り切って、遠くからその構造を眺めるが如く理解する。

そのためには今のままのやり方が正しいとはどうしても思えない。
幾ら入試を厳しくした所で、教育する側の認識が変わらない限り、いつまでも同じ場所を回り続ける気がしてならない。

学力低下や、日本社会の停滞は、外のリングへの飛び出しを許さず、同一軌道を回すに等しい教育制度にあると言って良いだろう。


リングの内周に当たる初等教育では、その軌道が、美しい円軌道になる事を心がける。

軌道が安定したらエネルギー順位を上げ、次の中等教育にシフトさせる。

エネルギーの順位が上がれば、元いた場所に戻れないのと同じように、教育のレベルを上げて行外側のリングへ移して行く。

高等教育を終える頃には、各人が色々なエネルギーを備えているはずで、そうした雑多なエネルギーのぶつかり合いが、ブラウン運動によってはじき飛ばされる分子のように、同じくの塵芥である我々を激しく揺さぶり、宇宙の彼方に放出する程のエネルギーを与えてくれるだろう。

釈迦が輪廻を発見したかのように書いた時点で、減点され、どこの大学にも受かりそうにないアルパカだが、教育に対して持っているイメージを、ここまで辛抱強く読んで下さった方には判って頂けたと思う。

次は、もっと具体的に教育改革について書いてみる。







最終更新日  2007年01月20日 01時21分01秒
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2007年01月09日
カテゴリ:教育
幼稚園の運動会で気になった事がある。
玉入れ、綱引き等の競技を二回戦とし、一回戦で負けた方に幼稚園の教諭が加勢して、結局引き分けにしてしまうのだ。
日頃、彼女達の献身的な保育に感謝し、事を荒立てたくはないので黙っていたが、それにしてもである。
どうして、優勝劣敗を否定し、幼児教育にとって害悪のように扱うのだろうか。
現実社会では競争は必然で、子供達は受験競争のただ中に置かれている。
そして、その競争は苛烈で時に残酷ですらある。
所謂「お受験」等は単なる抜け駆けであって、フェアな競争とは言い難い。

公平な競争を通じて培われる精神は、人間社会で重要視されるスポーツマンシップであったり、敗者をいたわる気持ちであったりする。
実社会で目の当たりにする駆け引きや、裏取引を経験する前に、公平な競争を幼稚園の様な幼児教育の場に於いて経験させるべきだし、またその機会は他に求めがたい。

学校とは、児童に公平な競争の場を提供する使命があるはず。
教師が子供に教える事には限界があるが、ライバルとの競争の中で得るモノは計り知れない。

何故、競争を忌避するのか?正月休みネットを徘徊して、手がかりをらしきモノを見つけた。
西尾先生のインターネット日録である

西尾先生もやはり、競争を排除する教育に疑念を持っており、子供を腫れ物に触るが如く接することは、教師の被害妄想で、ために彼等は自信を失い、子供達は気力を失うと述べられている。
随分前の著作が入試問題として出され、
この文章に対し、反論せよとの命題が入試問題にふさわしくないのでは?
と言うのがエントリーの趣旨だった。

冒頭に述べたように、西尾先生と同じ様に受け取る者にとって、頷くことばかりで反論の余地は無いし、確かにやっかいな設問と言える。

しかしながら、これを入試問題と捉えた時、出題者のきわめて明確な意図が浮かび上がるとは言えないだろうか?
すなわち入試選抜とは、学生を篩にかけ、志を同じくする者を掬い上げるモノならば、競争を悪と見なす同類を選抜し、異端を排除するには誠に都合の良い設問と言えるのだ。

或いは、自分たちの実践してきた悪平等主義の根拠が揺らぎ始め、斯様に突っ込まれたときの言い訳に困り、学生の模範解答に活路を見いだそうとしている、、、穿っ見方だが、そう見え無くもない。

ともあれ、一部とは言え大学教育の場に於いて、競争は悪という見方が色濃く巣くっているのなら、我が幼稚園の教諭諸姉が、負けそうな子供達に当然のように加勢するのは頷ける話ではある。

ただ、驚くのは西尾先生の論文が1969年と有り、例に引いている話を数年前としていることから、驚くほど昔から競争を排除する教育が為され、その教えを受けた者が次の者に継承するという鎖の輪が出来上がってしまっていることである。
これほど長きに渡って行われているのなら、今や「学校に於ける競争はという国民合意が形成されてもおかしくはなく、そうなった暁には、連鎖を解くことは困難だし、現にそうなりつつある。

子供達が精一杯頑張り、真剣に取り組んでいるのに、不正に気が付いてしまったら、、、

勝つにしろ負けるにしろ、子供が受ける衝撃は、一生懸命取り組んだ分だけ大きく、良かれと思っている事が、全くの逆の効果をもたらすだろう。
兎にも角にも、こうした偽善的教育は、戦前の教育に対する裏返しの産物だと思われるが、結果としてどうだったのか?

毎年毎年、猿のように振る舞う新成人子供より自分が大切な親殺人に躊躇いの無い人間
何より長年勉強しても、簡単な挨拶さえ外国語で話せない井川投手多くの人を生み出している。

対して、蛇蝎の如く嫌われる戦前の教育はどうであったのか?
日本統治下であった多くの国々で、当時日本の教育を受けた方々が、日本語を話す光景に出くわした経験を持つ人は多いはずだ。
学校教育については、当時の日本式の教育方針がそのまま持ち込まれていて、「日本人は体罰を使って非常に厳格なしつけを行った」としながらも、「一年生ですらかけ算の九九を暗記することができた」等、教育水準の高さも語られています。 さらに「当時の生徒は学年末、とりわけ権威のある年間賞をもらう儀式で認められたて、とてもよく働き勉強したものだった。その儀式は特別で、村の人たち全員が出席、子供がなしとげた誇りを分かち合った」と、身分を問わず努力次第で公平に認めらる社会を構築した成果についても書かれていて、日本教育を経験した人の「学校の厳いしつけが人生に役立った」というコメントも載っています。
「日出づる処のニゥス」パラオより抜粋

口を開けば子供達の為と言う連中が多いが、どちらが本当に子供の為になっているか。
昨今の目を覆いたくなるような惨状は、間違った教育の輪が閉じられようとしている事への警鐘と言う気がしてならない。






最終更新日  2007年01月10日 00時39分33秒
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