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2022年06月29日
全29件 (29件中 1-10件目) 教育
カテゴリ:教育
≪メルヘンのような行政≫ やってみなくちゃ判らない事はあるが、やる前から結果が出ている話もこれまた多い。 高校生のあるぱかは教員になろうと、教育大を狙ってた。 勉強が大嫌いで、全く勉強していなかったから、合格するはずがない。 試験を受ける前から結果が出ていたが、”やってみなくちゃ判らない”と無謀な挑戦をしたモノだ。 入試の試験料をドブに捨てたようなモノ。 息子の学力を信じた父ちゃん母ちゃん、、、許してクロorz でも間違って合格し、教員なんぞ成らんで本当に良かっただよ。 絶対、父兄を殴り飛ばしたり、国会前に日教組の組合員を装って紛れ込み、ガソリン撒いて火を付けずに済んだ。 どちらも犯罪者として裁かれ、一生を棒に振る。 結果は火を見るより明らか、、、、 教員免許更新制や、教育課程6年への延長なんて、駄目に決まってる。 西村先生は早期の研修なんて言ってるが、それもバカらしい。 こんな簡単なことも分からない人々が教育を左右する。 我が国はじり貧、絶対良くなる訳がない。 民主党政権の長妻昭厚生労働大臣は野党時代から、厚労省が「年金などの現状把握」をしていないと指摘していた。また、理念にとらわれ、現実を見ない、という意味で「厚労省はメルヘンの世界に生きている」ともいった。
最終更新日
2009年11月30日 22時48分27秒
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2007年08月25日
カテゴリ:教育
はりり坊っちゃんて”何”な方は、まずこちらを 教育の重要性は認識されつつあるが、的はずれな議論が多く、このままだとより悪くなる気がしてならない。 とにかく子供の成長を急がせすぎる状況を変える必要がある。
寺子屋や、尋常小学校しかなかった過去の日本が、どうして世界に互する迄に急成長したのか。 全国から俊英ばかりを集めた陸海の士官学校。 現在の状況に当てはめれば、東大を卒業したエリートで構成される官僚達が犯した失敗の数々。 教育制度の誤りは明らかなのに、根本に手を入れず、表面的な対策でお茶を濁すばかりとしか見えない。 今の633制ならば、義務教育を切り離し、そこで完結させる。 つまり、中学を卒業したら、社会で充分暮らして行ける。 思考の土台になる国語、論理の基礎、算数。 これらを人格が形成されるべき時期に重点的に行う。 中学卒業までに、国民としての素養をしっかり身に付けさせれば、国が主導すべき義務教育は事足りる。 子供も中学生くらいになれば、親に楯を突く。 内から突き破ろうとする衝動を「受験」で押し込めるから色々問題が出る。 義務教育の改革と平行して、大学の在り方を変えなくてはならない。 一番の問題は、「受験のプロにならなければ、入試を突破できない」ここに尽きるはずだ。 いびつな入試が受験競争を生み、入試で疲れ果てた学生が学業を疎かにしてしまう。 そもそも大学が何かを教える場であってはならない。 入試は思い切って無くす。 落第は退学として厳しく扱えば、競争や新陳代謝が促され、大学の品位とレベルが保たれるだけでなく、優秀な頭脳が、新しい発見を次々もたらすのでは無いだろうか。 その時点で力が足りなくても、入試が緩ければ何度でも入学することが出来る。 学生が社会に出るまでの猶予期間と成り下がっている現在の大学。
2007年04月29日
カテゴリ:教育
医は仁術とよく言われる。 長崎で射殺された伊藤前市長。 弾丸は彼の心臓を傷付けていたそうで、本来なら即死だが、死亡の発表があったのは翌日になってからだった。 同じように教育に携わる人達も「聖職者」と呼ばれているが、こと、教育行政に関して、子供の将来を第一に考える”聖職者”は居るのだろうか。 全国一斉の学力テスト。 実施に30億円掛かるそうだ。 個人情報に配慮しつつ、学力の把握に努める一案を示してみたが、情報処理の専門家でなくても”よさげ”な提案が出来る。 ましてや、高学歴で優秀な役人が思い付かないハズが無い。
教育という国の根幹に関わる事業だからこそ、まさに聖職者が公平無私で当たるべきなのに、私利私欲が優先されていないか? すべからくこの世はお金で回っている。 この事実に目を瞑り、最前線で額に汗して働く医師や教師に、仁術だ、聖職者だのと祭り上げ、無理をさせていないか。 大東亜戦争で度重なる作戦や武器弾薬の補給に失敗。 数々の過ちを犯したにも関わらず、前線の兵士の驚異的な粘りで凌いできた日本軍。 ブラックジャックのような医師、金八先生のような教師、完璧な人材じゃないと動かないなんて、あり得ない。
最終更新日
2007年04月30日 00時25分50秒
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2007年03月24日
カテゴリ:教育
自分の仕事の一部に、実習生の相手をするのも業務に組み込まれている。毎年、二十歳そこそこの学生さんと顔を合わす訳だ。
医療技術は日進月歩だから、つい先端技術を教えたくなってしまうのだが、高校生に毛が生えたような若者に対し、社会に出る事の意味を語りかけるように努めている。 今までの人生の中で、サービスを一方的に受けてきた若者達。 それが資格を取り、社会に出ればサービスを供給する立場に転換する。 この変化は思いの外大きい。 学生達も一昔、二昔前の連中と比べてみると、明らかに毛色が変わって来ている。 サービスを受けるのが当然と考える傾向が強くなってきているのだ。
そこで「さるかに合戦」の話をするのだが・・・・ 「さるかに合戦ってなんですか」と来る、前のエントリーでちょっと確認をお願いしたのは、コレが自分の身の回りだけの話じゃなく、日本国中の傾向かどうか知りたかったからなんです。 昔話が連綿と語り続けられてきた裏には、子供達に対する道徳教育の側面があったはずだ。 舌切り雀、金の斧銀の斧、洋の東西を問わず、無欲であれと言う願いが込められているし、かちかち山、花さか爺さん、悪行には報いが、善行には幸福が来る事を織り込んで語られてきた。 善悪の区別が付かない子供達に、昔話の形で染み込ませる合理的な方法だからこそ、長い間受け継がれてきたはずだ。 自分の子供のような実習生と話のきっかけを作るには、有名な昔話を使うのは理にかなった事だと思うが、最近その手が通じない。 まず、さるかに合戦のあらすじから話を始める必要がある。 おにぎりを持っていた蟹が、猿に言いくるめられて柿の種と交換する(柿の種は越後の銘菓じゃなく、果物の柿な) 「さるかに合戦」の話をしてから、実習生に聞いて見る。 「さるとかにどっちが悪い?」と結局この話の裏にも勧善懲悪があるから、猿が悪いに決まっている。 ガッカリするのは、単純な話でもなかなか結論が出てこない、試験されていると考えて正解を出そうと苦労している様子がありありと見て取れる。 もっとも、何か命題が出された時、どんな反応するのか、ツッコミ力があるかどうか見てる訳なんだが、猿が悪いと言ってくれるのは及第点で、困るのはそのまま固まってしまう連中が多すぎる事だ。 時間は無限に無いので、仕方なく話を進めるのだが、さるかに合戦で悪いのは蟹に決まっている。 柿の収穫という一番大事な事を猿に委ねる。 立派な柿の木に育てる努力しようとも、収穫を疎かにしては台無しなんである。 木登りが苦手だろうが何だろうが、必死で取り入れしなくてはならない。 見事に実習生諸君の姿勢と重なるのである。 二十数年間、勉学に勤しんできても、何か答えを求められた時、(アルパカの下らない質問でも、患者さんからの真摯な訴えでも)即座に対応出来なければ意味がない。 幾ら今まで努力したと言っても、仕事上でその知識を生かした解決策を即座に出せなければ意味がない。 社会に出て就職した時、患者さんや医師をはじめとするスタッフからの要求に即座に対応出来るか、まさしく収穫の部分で、ぐずぐず時間を掛けたり、人に頼ったりするのは間抜けな蟹ではないか。 教室と違い、実社会では完璧な答えなど有り得ない。 正解に近いか、少なくとも間違いでない答えを出していく必要がある。 生まれてから、ずっと正解のみを求められてきた連中にとって、アルパカの出す問いは厄介で、出来れば関わらずに済ませたいと考えるのは良く判る。
最終更新日
2007年03月24日 10時05分15秒
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2007年02月05日
カテゴリ:教育
同じ年頃の娘を持つ身として、この件に対して慎重な態度を取ってきた。 きつく叱ったら、子供が家を飛び出し、交通事故に遭ってしまったようなモノである。 いわゆる虐待死とは別物であり、結果として我が子を死に至らしめた父親の心境を思うと、同情に堪えない。 子供も10歳くらいになると相当生意気な口をきく。 男の子はもう少し後だが、女の子のマセぶりは相当なモンだ。 とは言え、まだまだ子供、しっかり躾する義務がある。 「なぜ逮捕したのか。過敏に反応しすぎのように思う」 子を虐待死させてしまうタイプの鬼畜は、10年も育児に耐えられない。 大概は児童給付が終わるまでに殺してしまうモノなのである。 結果的に愛するわが子を殺してしまった父親に、この後、司法が突き付けるのは、単に人が死んだと言う事実だけである。 罪の意識に苛まれる哀れな父親にとって裁判はどうでも良く、と言うより贖罪の意識から無実を主張したりしないだろう。 残された家族をしっかり養うことが亡くなった子供の供養になると諭して、立ち直させる必要がある。 彼を良く知る人のサポートが重要である。 ところで、この子がイジメに悩んで居なかったかどうか気になる。 ちょっとした仲間外れをイジメと受け取り、その鬱憤を家族に放出して居た可能性は無かったか? 訳もなく家族に当たり散らすのが、家族へのSOSだったりすることがある。 もう一つの事例は、イジメの被害にあって居た子供が今度は逆に暴行に荷担し、注意されたことをきっかけに、自殺してしまったと言う事件。 自己のコントロールが出来る大人であっても、口喧嘩から暴力に発展する事がよくあるから、年端の行かぬ子供なら尚のことであろう。 理性で制御できない獣性を人間なら誰でも持つ、小さい内に自分の内にある獣性に気付き、上手く飼い慣らす術を身につけないで居ると、大人になったとき暴発してしまうと思う。 ひずみがそこに集中し、社会がポッキリ折れるきっかけになりそうだ。 彼等の冥福を祈るのは勿論、続く犠牲を如何に無くすか? 本腰を入れるのは、大人達の義務だ。
2007年01月27日
カテゴリ:教育
入学試験は元々科挙の影響を受けたのではないかと思われる。 大学は、学問を目指す者は広く受け入れるが、向学心のない者は切り捨てて行くと言う本来の姿に戻せば良いだけだ。 教育関係者は疑問や責任感を感じないのだろうか。 科挙は採用試験ではないか。 教育改革は根本を見つめ直す必要がある。 一番変えなくてはいけないところが、明治以降全く手を付けられていない事に気が付く必要がある。 戦前の教育で良い点だと思うのは、それぞれ教育の段階でキッチリ区切りがあり、問題の先送りがなかった点ではないだろうか。 尋常小学校を卒業すれば、読み書きそろばんが出来、そのまま社会に出て行けた。 今は義務教育を終えても満足に読み書きできない子供が存在する。 授業がつまらない子供達は当然色々な事件を起こす。 子供達にはとりあえず勉強しろと言って、当て所ない勉強の海に放り出す。 だからここで、
と言ったようにそれぞれの役割と責任を明確にする必要がある。
最終更新日
2007年01月28日 01時10分24秒
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2007年01月25日
カテゴリ:教育
歪んだ入試制度のお陰で国力を失いつつある我が国。 間違った施策を取れば、我が国は壊滅的な打撃を受ける。 今度の教育改革が成果を上げないと、教育の迷走が益々深まり、取り返しが付かない事態に陥る。 かなり深刻な時期に来ているので、関係者は私心を捨て、子供への愛情を機軸に論議を深めて貰いたい。 大学受験に、人生経験が豊富な大人ですら解けない問題を出す。 必修科目の未履修問題は、豊かな人間性を培うべき青春時代に、ひたすら受験競争に駆り立てた結果と言えるはずだ。 大事なモノを見失い、促成栽培したエリート達がどんな事をしでかしているか、近頃のニュースを見るにつけ、教育の失敗を見せつけられる気分である。 抽象的な話が、算数を例に取ると単純化され、理解しやすくなる。
最終更新日
2007年01月25日 16時50分42秒
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2007年01月22日
カテゴリ:教育
教育に関するイメージを前のエントリーで示したが、それに全く同意しない或いは、根本的に間違っているとお考えの場合は、これ以降読んで頂くのは時間の無駄だと思う。 今の閉じた世界に身を置く限り、外側に別の軌道が有ることさえ気付くのは難しいが、持ち得た知識を総動員すれば、構造を理解することは出来るだろう。 西尾先生の円周を打破したいとする気持は、別軌道の存在に気付き、次元を超える為の糸口が見つからないもどかしさ、地道に努力を続けていけば何れ最外周にたどり着くと思っていた信念が揺らぎ、乗り越えられない溝を発見した事への畏れから発せられ事だと思う。 有名ブランドになり、就職希望者が増えた結果、就職試験の成績の良い者が多く居るはずだが、企業の活力がなくなり、凋落傾向に歯止めがかからない。 我が国最高峰の教育機関、東大。 難関を突破した俊英揃いであっても、画期的な研究成果をあまり聞いた事がない。ノーベル賞の小柴先生にしたところで、「業績として凄いのは”カミオカンデ”と言う観測装置を作る為に巨大な予算を分捕った政治手腕でしょ」と言ったら言い過ぎか。 西尾先生の一連のエントリーで、試験問題を作る側の苦労が良く解ったが、そうした”中の人”の苦労が全く報われていない。 具体的にどうするかは次に書く。
最終更新日
2007年01月22日 14時36分56秒
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2007年01月19日
カテゴリ:教育
入試問題がどんな意図の元に作られているか、無学な自分には知る由もないが、この幾つかのエントリーで感じた事は、試験官が想定したレベルのモノだけが通過出来ると事だ。 自分のように頓珍漢な答えを出すモノは勿論だが、試験官のレベルを超えてしまったモノも試験に受からない可能性がある。 日本の大学のレベルは最高位の東大ですら19位であると新聞に出ていたが、並はずれた天才を排除しかねない入試制度が、その要因の一つであるかも知れないとさえ思う。 我々は勉強すれば賢くなれると教えられ、多くのモノがその努力を惜しまないが、そうで無い気が今では強くなっている。 人間の永い営みの中で、人は賢くなって来たとは言えず、輪廻の輪の中にいると言う古くからの認識に納得させられる。 現在の日本人の多くは、円周と言う認識を持ち得ても、レコードの溝のように1本であり、勉強を続けていけば何れ最外周にたどり着くと考えているのではないだろうか。 そこに教育の迷走があるように思えて仕方ない。 輪廻はちょうど土星を取り巻く輪のようで、そうした構造を最初にハッキリ認識した人物が釈迦であり、教育でも同じ事が言えるのではないだろうか。 拾い先のURL忘れてしまいました。国の公的機関のはず。
そのためには今のままのやり方が正しいとはどうしても思えない。 学力低下や、日本社会の停滞は、外のリングへの飛び出しを許さず、同一軌道を回すに等しい教育制度にあると言って良いだろう。
軌道が安定したらエネルギー順位を上げ、次の中等教育にシフトさせる。 エネルギーの順位が上がれば、元いた場所に戻れないのと同じように、教育のレベルを上げて行外側のリングへ移して行く。 高等教育を終える頃には、各人が色々なエネルギーを備えているはずで、そうした雑多なエネルギーのぶつかり合いが、ブラウン運動によってはじき飛ばされる分子のように、同じくの塵芥である我々を激しく揺さぶり、宇宙の彼方に放出する程のエネルギーを与えてくれるだろう。 釈迦が輪廻を発見したかのように書いた時点で、減点され、どこの大学にも受かりそうにないアルパカだが、教育に対して持っているイメージを、ここまで辛抱強く読んで下さった方には判って頂けたと思う。 次は、もっと具体的に教育改革について書いてみる。
最終更新日
2007年01月20日 01時21分01秒
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2007年01月09日
カテゴリ:教育
幼稚園の運動会で気になった事がある。
玉入れ、綱引き等の競技を二回戦とし、一回戦で負けた方に幼稚園の教諭が加勢して、結局引き分けにしてしまうのだ。 日頃、彼女達の献身的な保育に感謝し、事を荒立てたくはないので黙っていたが、それにしてもである。 どうして、優勝劣敗を否定し、幼児教育にとって害悪のように扱うのだろうか。 現実社会では競争は必然で、子供達は受験競争のただ中に置かれている。 そして、その競争は苛烈で時に残酷ですらある。 所謂「お受験」等は単なる抜け駆けであって、フェアな競争とは言い難い。 公平な競争を通じて培われる精神は、人間社会で重要視されるスポーツマンシップであったり、敗者をいたわる気持ちであったりする。 実社会で目の当たりにする駆け引きや、裏取引を経験する前に、公平な競争を幼稚園の様な幼児教育の場に於いて経験させるべきだし、またその機会は他に求めがたい。 学校とは、児童に公平な競争の場を提供する使命があるはず。 教師が子供に教える事には限界があるが、ライバルとの競争の中で得るモノは計り知れない。 何故、競争を忌避するのか?正月休みネットを徘徊して、手がかりをらしきモノを見つけた。 西尾先生のインターネット日録である。 西尾先生もやはり、競争を排除する教育に疑念を持っており、子供を腫れ物に触るが如く接することは、教師の被害妄想で、ために彼等は自信を失い、子供達は気力を失うと述べられている。 随分前の著作が入試問題として出され、 この文章に対し、反論せよとの命題が入試問題にふさわしくないのでは? と言うのがエントリーの趣旨だった。 冒頭に述べたように、西尾先生と同じ様に受け取る者にとって、頷くことばかりで反論の余地は無いし、確かにやっかいな設問と言える。 しかしながら、これを入試問題と捉えた時、出題者のきわめて明確な意図が浮かび上がるとは言えないだろうか? すなわち入試選抜とは、学生を篩にかけ、志を同じくする者を掬い上げるモノならば、競争を悪と見なす同類を選抜し、異端を排除するには誠に都合の良い設問と言えるのだ。 或いは、自分たちの実践してきた悪平等主義の根拠が揺らぎ始め、斯様に突っ込まれたときの言い訳に困り、学生の模範解答に活路を見いだそうとしている、、、穿っ見方だが、そう見え無くもない。 ともあれ、一部とは言え大学教育の場に於いて、競争は悪という見方が色濃く巣くっているのなら、我が幼稚園の教諭諸姉が、負けそうな子供達に当然のように加勢するのは頷ける話ではある。 ただ、驚くのは西尾先生の論文が1969年と有り、例に引いている話を数年前としていることから、驚くほど昔から競争を排除する教育が為され、その教えを受けた者が次の者に継承するという鎖の輪が出来上がってしまっていることである。 これほど長きに渡って行われているのなら、今や「学校に於ける競争は悪」という国民合意が形成されてもおかしくはなく、そうなった暁には、連鎖を解くことは困難だし、現にそうなりつつある。 子供達が精一杯頑張り、真剣に取り組んでいるのに、不正に気が付いてしまったら、、、 勝つにしろ負けるにしろ、子供が受ける衝撃は、一生懸命取り組んだ分だけ大きく、良かれと思っている事が、全くの逆の効果をもたらすだろう。 兎にも角にも、こうした偽善的教育は、戦前の教育に対する裏返しの産物だと思われるが、結果としてどうだったのか? 毎年毎年、猿のように振る舞う新成人、子供より自分が大切な親、殺人に躊躇いの無い人間、 何より長年勉強しても、簡単な挨拶さえ外国語で話せない 対して、蛇蝎の如く嫌われる戦前の教育はどうであったのか? 日本統治下であった多くの国々で、当時日本の教育を受けた方々が、日本語を話す光景に出くわした経験を持つ人は多いはずだ。 学校教育については、当時の日本式の教育方針がそのまま持ち込まれていて、「日本人は体罰を使って非常に厳格なしつけを行った」としながらも、「一年生ですらかけ算の九九を暗記することができた」等、教育水準の高さも語られています。 さらに「当時の生徒は学年末、とりわけ権威のある年間賞をもらう儀式で認められたて、とてもよく働き勉強したものだった。その儀式は特別で、村の人たち全員が出席、子供がなしとげた誇りを分かち合った」と、身分を問わず努力次第で公平に認めらる社会を構築した成果についても書かれていて、日本教育を経験した人の「学校の厳いしつけが人生に役立った」というコメントも載っています。 「日出づる処のニゥス」パラオより抜粋 口を開けば子供達の為と言う連中が多いが、どちらが本当に子供の為になっているか。 昨今の目を覆いたくなるような惨状は、間違った教育の輪が閉じられようとしている事への警鐘と言う気がしてならない。 全29件 (29件中 1-10件目) 総合記事ランキング
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