アサヒアートフェスティバルへの参加
半分夢か冗談のようなものだった、「夢ぷらん」。それは実現するためのお金やネットワークがまだイメージできていなかったからでした。
2004年の暮れ頃、
「アサヒ・アート・フェスティバル」についての情報が、「流域見聞」にも参加していた
NPO法人アート・プランまぜまぜに入ってきました。これは、全国で行われるいろいろなアートイベント(それもコミュニティ参加型のものが多く含まれているのですが)をネットワーク的に繋ぎ、一連のものとして世に紹介し、一定の助成をも与えてきた民間のメセナ活動でした。
「これに当たったらなんとかなるんとちゃうか…」とにかく当たって砕けろの精神で、書類を送付。東京で行われるヒアリングに臨むことになりました。この時点では、この
「アサヒ・アート・フェスティバル」については、民間の助成金、という程度の認識しかありませんでした。しかし、その後のヒアリング等のなかで、単なる助成事業ではなく、もっと大きな全体的なポリシーのある事業であることが判ってきました。
この「アサヒ・アート・フェスティバル」の参加を得たことで、天若湖プロジェクトは急速に現実的なものになっていきました。
また、このプロジェクトについて
NPO法人アート・プランまぜまぜ側から、具体化の糸口がつかめたことは、流域団体である
桂川流域ネットワークにも大きな刺激を与えました。そしてここに、環境系・工学系・社会系の色合いが強かった流域団体と、アート系NPOのコラボレーションが始まったのです。現在の準備作業は、両グループのメンバーを中心に、京都の大学生等幅広いメンバーからなる緩い実行委員会組織によって進められつつあります。
では、アサヒ・アート・フェスティバル関係の経過について、まぜまぜ理事長のさとうひさゑさんのブログ
「雨傘芸術談義」から引用してご紹介したいと思います。
005.2.16.
あわただしい1週間だった。7日に連絡があり10日に「アサヒ・アート・フェスティバル2005」のヒアリングのため東京へ出張することになったためだ。2005年度のまぜまぜは助成金も使って成長するぞ。とはりきっていた矢先だったので、アサヒビールメセナのヒアリングまで漕ぎ着けたことは幸先のいいスタートである。
テーマは理事の下村さんと前々から相談していた日吉ダムを舞台にしたアートプロジェクトである。河川環境を考えるNPOとの協働プロジェクトとしていうところが特徴である。
わたしが企画書を書いたせいかもしれないが。ちょっとかわいらしすぎないかなあ・・という感想も頂いた。
言いたいことは言ってきたので、すっきりとした気持ちで結果を待っている。アサヒビールメセナの傾向に合うか、合わないかということだと思う。どうなるかなあ・・
11日の祭日は東京に住む友人と世田谷美術館で瀧口修造展-夢の漂流物展-を観た。京都からのおみやげにATHAの箱を渡したのだが、展覧会の内容とあまりに合っていて、その偶然がおもしろかった。それから世田谷美術館のミュージアムショップで買った福田美蘭のポケットティッシュは最高。わたしが経験したミュージアムショップグッズでは1番かも。横浜トリエンナーレで消費者金融のポケットティッシュを塗り絵にしてたのも同じ作者だったと記憶している。
2005.2.20.
わたしの30回目の誕生日に嬉しいお知らせ。
まぜまぜ企画の「天若湖アートプロジェクト」がアサヒ・アートフェスティバルに採択された。
良いスタートだ。
2005.3.5/6
東京のアサヒアートスクウェアで行われたアサヒ・アートフェスティバル(AAF)の会議に参加する。2日間通して、全国から選考を通った企画35のうち34のプレゼンが行れた。
一言で言えば「新しいことがはじまるぞ」という熱気と意欲にあふれているかんじ。なかなか頭の中で整理するのが大変である。
35団体のプロジェクトの性格として大体2種類あって、天若湖アートプロジェクトのように特定の地域性と結びついて意味を成すものと地域を限定せずに行えるデリバリー型のもの(例えばトラックをギャラリー化したものなど)があった。
このデリバリー型のものについては今想定している地域でなくても例えば天若湖アートプロジェクトのときに呼ぶことも可能なわけで、パーティーの席ではさかんにそういった交流が生まれて、わくわくしてきた。純粋に全国で新しい波を起こす1人として参加できて嬉しいなあと思う。
京都パブリック・アート研究会をはじめたのが10年前。「地域にアートを開く」というAAFの発想はわたしがずっと持ち続けた理想と共通している、ずいぶん叩かれたこともあるし、無視されたこともあるが、ついに潮流になってきた。時代が変わってきたのだと実感することができた。
この後、何度か会議や現地踏査が行われています。次回はその経過についてご紹介したいと思います。(つづく)