男の子が好き
どうしても男の子が好き。生まれ変われるなら、男の子になりたいと思っていた。その傾きを持ったまま、大人になったら、今度は男の子が産みたくなった。いや、男の子しか産みたくなかった。一応願いは叶っているが。なんで、こんなに男の子が好きなのか。ルーツは、おそらく幼少期にある。幼い頃、実家の近所には何故か男の子が多かった。三歳頃、ようやく近所の子どもたちと遊べる楽しみを知り始めた時、周りは男の子ばかりだった。当然、まだその年齢なら、自分が男だの女だの意識はしていない。で、何の疑問もなく手にはウルトラマン、ベルトは仮面ライダーV3で足こぎ車に乗って遊んでいた。もちろん、虫やザリガニ、亀、蛙も飼っていた。「トンボって頭無くてもしがみつくんやで」トンボの頭をむしって、私の胸に付ける。固まる私。「マーガリン持ってきて」言われるままに冷蔵庫から盗んできて渡す。空きビンの口の内側にマーガリンを塗っている。何をするんだろう?と見ていると、蟻を捕まえてぽいぽい放り込む。蟻はビンを這い上がり、出口付近でマーガリンに足を滑らせつつつーとビンのそこへ落ちていく。あらら。「な、逃げられへんやろ」なるほどね。「探検ごっこ」は怖がりで、小柄な私にとっては立派な冒険。人んちの庭を勝手に通過。空き家で何故かマッチで焚き火(おいおい)。つくし取りと称して線路にあがる。私がつくしをせっせと摘んでいる間、線路に耳をぺったりつけている。「電車来た!」と叫ぶ。慌てて降りたらそこを特急が。用水路をずぶずぶどこまでも行ったり、途中何故か虫の解体ショーが始まったり、すべてが予測不可能。男の子達はそれらを純粋に楽しんでいる。私だけが、いちいち戸惑っていた。もちろんそれ以上に楽しんでいたが。幼稚園に行くようになれば、おままごとなどいわゆる女の子遊びもそれなりに覚えた。でも、女の子の遊びは、大人の模倣や手先の訓練?みたいなものばかり、まるで「大人になるための練習」。きちんと成長がのぞめる遊びではあったけど、それだけ。そう、それだけだった。「何が起こるかわからない」的な楽しみは全くなかった。むしろ、そういった危険やトラブルは上手に回避するのが女の子。よって、無理をしながらでも、男の子たちの危険な香りのする遊びにはまっていく毎日だった。私がこんなにも「男の子遊び」にはまったのも、なにより私が女だからに違いない。私は女の感覚をもったまま、男の子遊びにまみれていった。男女の違いを楽しんでいたのだ。この経験が、「男の子のほうが面白い」として私に刻まれてしまった。結局そこから抜け出せない。三つ子の魂ってか。そもそも、男と女は別の生き物。生物学的にその構造が違うこともはっきりしているし、そのせいで行動、思考に違いもでてくる。養老猛司氏の著書によると、受精卵が分裂を繰り返し、そのまま成長していったのが女で、途中で突然変異的に分化していったのが男だそう。俗に女のほうが生物として強いといわれているが生物としての安定度は確かに女性のほうが高い。いろいろなものの統計をとると、両極端には必ず男が。女はだいたい中心付近にまとまるという。子どもを見ていると、歴然。女の子はちゃんと話も聞くし、目だった行動には出ない。男の子はばらばら、めちゃくちゃ。しかし、飛びぬけて目立つ子は男の子。結局大人になっても、その傾向は変わらず、安定し、計画的な行動ができるのは女。だから、日々の生活をきっちり進めていくのは女のほう。でも、歴史に残るような、発明、記録を残すのは男。飛行機を見て思う。こんな鉄の塊が空を飛ぶなんて、女ならとっくにあきらめているはず。「どうせ無理よ」と思うのが女。ある意味現実的。「なんとか飛ばせられないか」と信じ続けられるのが男。ロマンチストね。属人的な個性はあるにせよ、大きな違いがあることは確か。いざ、男の子を育ててみると、そりゃあもう理解不能なことばかり。そのたび思い出す。幼い頃、必死で男の子の後をついて行って見た景色。「何でそんなこともできないの」、と怒る前に、楽しまないとね。違いを。じゃないと、やってられないわ。まったく。