■今日(4月19日付)の朝日新聞は、「戦中戦後、野球の灯をつなげた」相田暢一さんの訃報を伝えていた。
1943年10月16日の出陣学徒壮行戦、いわゆる「最後の早慶戦」で、相田さんは早大のマネージャーとして開催に向けて奔走した。自ら出征するにあたり、「残る後輩には心おきなく野球を続けてほしい」と、バット300本、ボール300ダースをかき集めて野球部の寮に保管しておいた。
■いくつかの書籍に、その頃のことが詳しく書かれている。まず『早慶戦100年 激闘と熱狂の記憶』(富永俊治著、講談社刊)から引用。
保管するきっかけになったのは飛田穂洲のひとことだった。
「今は戦争で野球がやりにくい時代だけど、戦争が終わりさえすれば、すぐに野球の時代がやってくる。その時に肝心の用具がなかったら、野球そのものがやれないよなぁ」
飛田の命を受けたのは当時マネージャーだった相田暢一だった。慌てて用具を買い集めた。そして相田が出征後は、昭和19年度の主将・吉江一行が管理を引き継ぎ、まさに用具を「死守」した。
空襲警報発令のサイレンが鳴るや、まだ合宿所に残る数人の部員たちと手分けをしてバットやボールを敷地内の防空壕に運び込み、警報解除とともに、今度は部員たちの手渡しで用具を倉庫に戻す重労働を繰り返した。晴れた日には湿気を取るための虫干しも行っていた。
■次に『1943年晩秋 最後の早慶戦』(教育評論社刊)から。
当時、早稲田大野球部のマネージャーだった相田暢一もついに1943年12月10日、横須賀第二海兵団に入団した。
その直前、相田はすでに入手困難になっていたボール300ダース、バット300本、ノックバット10数本を準備した。これらの用具は東京大学野球連盟(現・東京六大学野球連盟)の残務整理に伴い、各大学への配分金で購入されたもので、たとえ部員が一人になっても練習を続けるという、飛田穂洲の意を受けた相田の機転によるものだった。
その後、新たに主将になった吉江一行にバットやボールの管理を託された。吉江は福島県立磐城中学の出身で、「最後の早慶戦」には5番ライトで出場した。飛田穂洲は吉江の人となりを、心から愛した。
※吉江主将も終戦直前、とうとう戦場に送り込まれる。そして戦場で病を患い、その病気がもとで、戦後間もなく故郷の福島県で亡くなった。
■再び、朝日新聞の記事から。相田さんの回想。
終戦からわずか3ヶ月後の1945年11月18日、米軍に接収されていた神宮球場で開催されたオール早慶戦。復員した相田さんは、この試合の実現にも尽力する。
「試合が終わっても、4万5千人の観衆がなかなか帰ろうとしない。薄暗い球場に、たばこの火が、まるでホタルのようにともっていたのが忘れられません」
■戦後、職業野球(東西対抗戦)が初めて行われたのが同年11月22日。大学野球は職業野球よりも復活は早かった。
相田さんは、吉江さんとともに、戦後の野球復活を支えた人だった。
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