テーマ:日本野球史(134)
カテゴリ:近鉄バファローズ
高い家賃を払うぐらいなら、多少無理してでもマイホームを建てる。まして使っていない古い家があるなら、手入れして使いたいと思うだろう。近鉄球団の思いは、まさにこれだった。 72年の年間使用料は3290万円。1試合当たりだと約70万円。これに各種興行経費を加えると、1試合あたりの経費は約115万円になった。しかも球場のフェンスなどへの広告収入は、すべて日生側が受け取る契約だった。その上、73年度からは1試合の使用料を100万円とする申し入れがあったため、もはや、日生に固執するメリットは近鉄にはなかった。
■そこで浮上したのが、「古い家」の藤井寺球場への回帰プラン。それは、この藤井寺に照明をつけてナイターも興行しようというものだった(それまではデーゲームと練習だけに使用していた)。 自前の球場を有効利用することで、余計な出費を抑えることができる。当然と言えば、当然のプランだ。ところが地域住民への説明が後手にまわり、思いがけない事態が起きた。 そもそもこの地は、閑静を売り文句にして、近鉄自身が開発した住宅地。その住民がナイターによる騒音、光、自動車の行き来などによる公害を恐れるのは当たり前だった。したがい、73年7月、見切り発車で着工するも、住民から「ナンセンス!」と問答無用で退けられた。結局裁判に持ち込まれ、紆余曲折の末、工事着工が認められたのは、10年後の83年9月である。 しかし、球場の看板だけは現存するらしい。近くでスナックを経営する70年代の主砲・栗橋茂さんが抱きかかえるようにして持ち帰ったという。近鉄が藤井寺球場をホームグラウンドとして再スタートを決めたのは1973年、同年ドラフト1位で近鉄に入団したのが栗橋さんだから、これも不思議な縁ではある。
(写真)藤井寺球場 ~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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