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あま野球日記@大学野球

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2014.01.27
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テーマ:日本野球史(134)
カテゴリ:日本野球史

<1.最後の早慶戦>


■1943年(昭和18年)10月16日、「最後の早慶戦」の試合開始前、早稲田大野球部のマネージャー・相田暢一さんは、戸塚球場(のちに安部球場と改名)で慶応義塾大の小泉信三塾長を迎えた。

「小泉先生を、飛田(穂洲)さんらがおられるネット裏の席へご案内しようとしたところ、塾長は『私は学生と一緒にいるのが楽しいのです。学生と一緒にいます』と言われて、スタンドの応援団席の真中に席を占められた。私はこのとき、本当に慶応は羨ましいと思った。塾生は幸せだなと痛感した。小泉先生のこういうお気持ちがあるから慶応が全学をあげて早慶戦をやろうという気持ちになれるのだ。それに引替え早稲田は本当に情けなかった・・・」

これは、相田さんの述懐である。この小泉塾長の言葉は、映画『最後の早慶戦』でもクライマックスのシーンに使われていた。

この試合開催前の早稲田のドタバタぶりは説明するまでもない。業を煮やして大学当局を説得しようと奔走した相田さんにとって、小泉塾長の言葉は大きな感動をもって聞こえたに違いない。2つの大学で、なぜこんなに対応が違うのかと。



■この試合を最後に、多くの選手たちが繰り上げ卒業して、戦地に赴いた。 そして、野球への弾圧はますます厳しくなり、野球をすること自体がほとんど出来なくなる。

その頃、飛田穂洲が、合宿所に残り野球部を守り続けていた相田さんに伝えた言葉がある。

「野球はアメリカから来たスポーツだというが、野球はたんに勝った負けただけのスポーツではない。日本の学生野球は一つの道だ。野球道である。だから早稲田大学の野球部は一人になっても野球を続ける。練習をやるのだ。練習で体を体を鍛えておいてこそ、戦地に赴いてもお国のために充分働けるのだ。・・・野球をやる者は国賊だなどというのは、戦地に赴き戦死した人たちに対して大変な冒涜である。そのためにも早稲田は野球を続ける」。

この話は飛田の本心に違いないが、それ以上に、安部磯雄が作った野球部を失くすわけにはいかない、その強い思いが言葉に込められていたのかもしれない。

ともかく、これを受けて、相田さんはさっそく道具を少しずつ買い集める。なぜなら野球を続けるのであれば、いつでも使えるようにボール、バット、グラブ、スパイクを揃えねばならない。革製のボールはすでに統制品になり入手困難だったが、美津濃や玉沢など野球部に出入りしていたメーカーに集めてもらい、それを買い入れ、結果、ボール300ダース、バット300本が集まった。

いつ使われるかわからない状況下での道具集め、それは気の遠くなるような、まるで手ごたえの感じられない作業だったはずだが、後年、終戦の約3か月後にすぐオール早慶戦が開催できたのは、相田さんの機転と作業が大いに貢献したのである。

 

<2.中学時代~最後の早慶戦まで>
 

■小樽中(現・北海道潮陵高)時代は投手として鳴らした。1939年(昭和14年)は地区予選、北海道大会を順調に勝ち進み、甲子園出場を期待されたが、準決勝で惜しくも札幌一中(現・札幌南高)に敗退する。

※ちなみに札幌一中はこの甲子園大会(第25回大会)で初戦を熊本工高と戦ったが、スコア0-8で敗れた。この時、熊本工のエースは田中金太郎(のちに大連満倶ー名古屋)、そして後に阪神に進み監督を務めた後藤次男がレフトを守っていた。川上哲治‐吉原正喜のバッテリーで甲子園準Vした2年後のことだ。

また、この大会で優勝したのは和歌山の海草中(現・向陽高)。エースは嶋清一(のちに明治大)、ほかに真田重蔵(のちに松竹ー阪神ほか)らがいた。


■その後、都市対抗の名門チーム、函館オーシャンに誘われ練習に参加したことがある。ちょうどその時、このチームにいた早稲田OBの町谷長市や久慈次郎らの影響を受け、ぜひ早稲田で野球をやろう! という気持ちが芽生えたようだ。

そして一浪後、晴れて早稲田に入学した相田さんは、すぐさま野球部に入部。当時、戸塚球場の練習は一軍選手のみに許された。その他の選手は東伏見のグラウンドでの練習が慣例だったが、相田さんは一年生の時から戸塚のマウンドに」立つ幸運に恵まれた。それは一軍の打撃投手が足りないという理由によるものだったが、相田さんは一球一球を懸命に投げて制球力を磨き、いずれは投手として神宮のマウンドに立つはずだった。

ところがーーー、
二年生の時に、突然、肩を故障する。「選手を続けたい、でも・・・」そう悩んでいた時、チームマネージャーの林節から「野球部のために尽くすのであれば選手もマネージャーも同じ。むしろマネージャーとして部をまとめていくほうが責任があるし大変な仕事だ」と説得され、マネジャーへの転身を決意する。

このマネージャーへの転身が、相田さんに幸運をもたらした。これこそが野球殿堂入りに至るまでの出発点になったのだから。以降、早稲田大の学生監督、そして甲子園の審判員など、戦後のアマチュア野球を支え続けていく。



<3.終戦後~>


■戦後、相田さんは15年間にわたり審判員を務めた。この時も、飛田の精神、早稲田野球部で学んだ地力主義を基礎にしていた。

「判定のストライク、ボール、アウト、セーフのひとつひとつで試合の流れが大きく変わることがある。それだけに審判たるものは、しっかりと練習して、自分の体調を整え、試合に臨むことが大切なのである。そうでなければ、自分の判定に不安が生まれ、自信が持てなくなる。『ボールと言ったが今のはストライクかな?』と自問自答するようではいけない。選手諸君は一年に、いや一生に一度の命がけの試合をしているのだ。そのためにも自らが摂生し体調を整え、自分で納得のいく練習をして、自信のある判定をすることが必要であり、これが審判の務めである」。


■元フジテレビアナウンサーだった方のブログには、生前の相田さんから聞いた、審判員時代の一番の思い出について書かれていた。

それは1958年(昭和33年)8月16日・17日の準々決勝にあった徳島商‐魚津高の延長18回再試合だったという。相田さんは、後々まで語り継がれるこの試合の主審だった(2試合とも)。

ここにも相田さんが登場するのか? ボクはこの事実を初めて知った。


(8月16日)
徳島 000 000 000 000 000 000 =0
魚津 000 000 000 000 000 000 =0

(8月17日)
徳島 000 102 000 =3
魚津 000 000 100 =1


この試合、主審の相田さんの視線の先には、2試合を熱投する徳島商・板東英二がいた。

 

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Last updated  2014.01.29 10:47:25
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