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あま野球日記@大学野球

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2017.11.03
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カテゴリ:日本野球史

昨季​「慶應・清水翔太に注目!」​​と記事を書きましたが、ついにこの秋、清水翔太(4年、桐蔭学園)が首位打者そしてMVPのタイトルを獲得しました。4番・岩見雅紀に注目が集まりがちでしたが、優勝した勝因はそのあとを打つ5番・清水の活躍にあったに違いありません。4番を引き立てるには、5番の役割は重要です。そうです、ボクが5番打者のしんどさに気づいたのは巨人V9の頃でした。末次、柳田、国松、黒江などONの後を打つ5番打者は本当にコロコロと変わりました。ちょっとやそっとでは5番の役目を果たせないのです。従い、清水の活躍は見事というほかありません。



DSCN5834.JPG

(写真)10月28日早慶1回戦。この直後に先制となる2点適時打を中前に放つ ~BS朝日~



首位打者を獲った清水を契機に、かつての東京六大学の首位打者を調べてみました。清水の今季記録(打率.480)を超える打者は想像以上に多くいました。例えば5割超の主な打者では、


昭和36春 榎本博明(慶) .517
昭和47春 長崎慶-(法) .511
平成8春   高橋由伸(慶) .512
平成13秋 喜多隆志(慶) .535
平成26秋茂木栄五郎(早) .514


眺めていて慶應の選手が多いなぁと。歴代最高打率(.535)も慶應の喜多隆志。あの智辯和歌山卒でロッテに行った巧打者ですよね。そしてボクの目についた法政・長崎慶一は、昭和47年に首位打者s翌シーズンも2季連続で首位打者を獲得したことを知りました。


長崎慶一さん(北陽ー法政大、のちに大洋、阪神)。​
ボクが思い出すのは彼の大洋時代のこと。昭和57年、田尾安志との首位打者争いは「敗退行為」と揶揄されるなどあって、とても後味の悪いものでした。長崎さんに何の責任もなかったのに。そして今から10数年前、都内のリトルシニアのチームを率いて、よく埼玉・大宮のグラウンドで指導されていた長崎さんの姿を思い出しました。



DSCN5835.JPG

(写真)法政大時代の長崎慶一さん ~『東京六大学野球80年史』(ベースボール・マガジン社)~



そして長崎さんをwikipediaで調べていると、大洋時代の指導者は「青バット」の大下弘さんだったとか。大洋の同僚・山下大輔とともに大下さんから指導を受けていたそう。


大下弘さん(高雄商ー明治大、のちにセネタース、西鉄など)。​
戦前は明治大の下級生だったため球拾いばかりで、東京六大学の公式戦に出場経験はない模様。戦後に復学した際、明大グラウンドで大飛球をポンポン打ち上げる大下に横沢三郎(戦前のセネタースで活躍した明治大の先輩)が目をつけて、大下さんを職業(プロ)野球の世界に導いた。


昭和20年秋、戦後初のプロ野球「東西対抗戦」​を控えて次々と元プロ選手たちが復員し練習のため大宮のグラウンドに集結する中、大下さんの長打力を見て目を丸くしたそう。「いったいあの打者は誰なんだ?」と。そして同年11月23日、神宮球場で東西対抗戦が開催され、東軍の5番打者として彗星のごとくデビューした大下さんは、後に日本の野球ファンに「ホームラン」の素晴らしさを伝える伝道師になることは、この時点で誰も気づいていませんでした。



DSCN5836.JPG

(写真)西鉄ライオンズへ移籍直後の大下弘さん ~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)~​​






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Last updated  2017.11.22 21:22:49
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