テーマ:日本野球史(134)
カテゴリ:日本野球史
いま夏の甲子園記録をまとめています。
今回も「無失点優勝」という記録。現在2人の投手がその記録保持者ですが、小倉高・福嶋一雄投手(第30回大会、1948年、5試合連続完封)のほかにもうひとり、和歌山・海草中(現向陽高)の嶋清一投手がいます。嶋投手は福嶋が達成する9年前に記録しています(1939年、第25回大会、5試合連続完封)。 初戦の嘉義中を5-0、2回戦の京都商も5-0、続く3回戦は土井垣武(のちに阪神)のいる米子中を3-0。さらに準決勝・島田商戦を4四球17奪三振で9-0のノーヒットノーラン、決勝の下関商も2四球のみのノーヒットノーラン(8奪三振)で5-0の勝利、優勝しました。5試合で154人の打者に対して許したヒットはわずかに8本。準決勝決勝の2試合連続ノーヒットノーランは史上初、決勝戦のノーヒットノーランも1998年夏に横浜・松坂大輔が達成するまで史上唯一の記録でした。 『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社)には嶋と海草中のチームメイトだった中堅手・古角俊郎の証言があります。 「5試合で外野に飛んだのはわずか12本。私のところには2個だけ。特にドロップは鋭く、センターから見ていると、一度止まって、それが戻ってくるような感じだった」と。 突然ですが、嶋清一と西本幸雄。ボクは初めて知りましたが、調べてみると2人は同郷で、よくよく縁があるようです。例えば嶋が甲子園優勝する2年前(1937年)、和歌山大会決勝戦で対戦したのが西本のいた和歌山中でした。結果は、嶋の海草中が勝利。 ※実は西本が和歌山中で野球をやったのはこの時の1年間だけ。それ以前はラグビー部に所属するラガーマンでした。 その後、嶋は明治大に進み戦前最後の主将になると、西本も立教大の実質的な監督に(当時の立教大は監督不在のため)。そして1943年に文部省命令により東京六大学リーグが解散すると学徒出陣前の同年5月に明治と立教が対外試合を敢行し2人は対戦しましたが、その申し入れをしたのは西本だったと言われています。 悲しいかな、嶋は終戦直前にベトナム沖で戦死しました(享年23歳)。が、もし存命ならば、2人の因縁は戦後も続いたかもしれません。職業野球の選手として、監督として。 また、嶋は朝日新聞の記者を目指していたという報道もありますから、もし新聞記者として1960年日本シリーズの大毎のスクイズ失敗を見たら、他の評論家たちと同じように西本批判を繰り広げたでしょうか。ひょっとしたら、もっと違う視点の記事を書けていたかもしれない。ついそんなことを想像してしまいました。 【中古】嶋清一 戦火に散った伝説の左腕 /彩流社/山本暢俊 (単行本) 【新品】【本】プロ野球伝説の名将 鶴岡一人/著 川上哲治/著 西本幸雄/著 稲尾和久/著 <関連記事> 無失点優勝 小倉高・福嶋一雄 https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201712130000/ 夏第99回甲子園大会で生まれた大会記録 その2 https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201708290000/ 夏第99回甲子園大会で生まれた大会記録 その1 https://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201708270000/ (写真)海草中時代の嶋清一。~『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社)~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.01.13 04:56:14
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