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あま野球日記@大学野球

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2020.05.10
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テーマ:日本野球史(134)
カテゴリ:日本野球史
1944年(昭和19年)、プロ野球の運営は困難になった。戦局は緊迫していた。B29が日本を襲い、一億総武装を閣議で申し合わされるなど野球を続けることが絶望的になり、11月13日、職業野球の一時休止が発表された。

 この年1月、職業野球を統括する日本野球連盟が「日本野球報国会」に名称変更し、選手は軍需工場で働き試合を土日だけにするなどして行き残りを謀ったが、結局叶わなかった。こうした不安定な状況に不安を感じた選手には退団する者もいた。

 そんなことがあり、同年8月30日、甲子園球場の阪急対朝日戦が終わった時、各球団の選手は10人ぐらいまで減り、単独球団の試合はできなくなっていた。そのため「巨人と朝日」「阪急と近畿」「阪神と産業」で混成軍を作り、「日本野球総進軍」大会を9月9日から開いた。そして秋になりいよいよ試合を行うことが不可能になると、甲子園、後楽園、西宮の3球場で行った3つの大会を最後に試合を打ち切った。最後の試合が行われたのは同年9月26日だった。

 驚くのは、このような激しさ増す戦時下にあって、甲子園、後楽園、西宮球場の9日間18試合に3万2658人もの観客が集まっていたという事実。よくぞこれだけの人が野球を見に球場へ行ったものだ。たぶん戦後の野球復興を後押ししたのも彼らなのだろう。





​​ ちなみにこの19年の最高殊勲選手賞は、阪神の若林忠志​投手がなった。戦前から戦後にかけて頭脳的ピッチングの第一人者。絶妙のコントロールが際立ち、「七色の変化球」が一世を風靡した。​​


若林忠志.JPG

(写真)法政大時代の若林忠志 ~ 『日本プロ野球偉人伝』(ベースボール・マガジン社)より。



野球教室 若林忠志・山本一人・別当薫 [DVD]



若林忠志が見た夢 プロフェッショナルとい (単行本・ムック) / 内田 雅也 著

 





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Last updated  2020.05.11 06:24:33
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