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あま野球日記@大学野球

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近鉄バファローズ

2013.12.20
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カテゴリ:近鉄バファローズ

■不思議なことだ。自分のチームが戦っている試合をテレビで観戦し、相手チームを応援していたというのだから。プロにはあるまじき行為である(いや、アマチュアだって同じか?)。

しかし、そんなことが実際にあった。

1988年10月19日、リーグ優勝を賭けて戦う近鉄と、ロッテのダブルヘッダー。第2試合をテレビ観戦していたロッテの選手たちが、心の中で近鉄の勝利を願っていたという。逆に言えば、選手にあってはならない心理の変化を及ぼすほど、「10・19」は”異常な試合”だったと言える。そして、それは、後年、伝説の試合と呼ばれる所以でもある。



■第2試合で本塁打を放ち、その本塁打を後悔した高沢秀昭の話はすでに紹介した(→こちら)。以下に書くのは、雑誌『Number+ 20世紀スポーツ最強伝説』(1999年8月刊、写真も)に紹介された、「10・19」第2試合をテレビで観戦していたロッテ各選手の心情の吐露集である。



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■第1試合で先発したロッテ・小川博の述懐。
第1試合終了後に自宅に帰り、家族とともに近所の寿司屋でテレビ中継を見ていた。
店に入った時、全国放送で、しかも、放送枠を無視して延々と放送を続けていることに驚いた。いくら近鉄の優勝が懸かった試合とはいえ、小川は、全国的なニュースになっていることを知らなかった・・・。そして、スタンドの凄まじい歓声がテレビを通じて伝わった。

「すごい試合で自分は投げていたんだな。目の前で胴上げなんてたまるか、とさっきまで必死だったけれど、このときは不謹慎にも『近鉄頑張れ』って思っていた。『もう、近鉄でいいじゃん』とまで思っちゃって・・・。ロッテの選手じゃなくて一野球ファンになっていた。感動したんですよ、近鉄にね」。

そして、「(8回裏、高沢の本塁打が飛出し、ロッテが同点に追いつくと)、高さん(高沢)、よう打てるなぁ、と思ったものの、でも、ヒットでもよかったんじゃないの・・・」と責めたくもなった。

さらに、9回裏、ロッテ・有藤道世監督の執拗な抗議を見て、
「監督、もういいじゃないですか。そりゃないでしょう」。



■近鉄の優勝が消えた10回裏、代打で打席に立ったロッテ・丸山一仁の回想。
「(後から振り返った話だけどと前置きしつつ)、打席に立って、パッと下を見たら、梨田さんがね、うつむいていた。現役最後の試合だったでしょ、梨田さんは・・・。泣いていたんでしょうね。守っても、もう勝ちはなかったし。梨田さんのこの姿が一番印象に残った。『あぁ、やってしまったな。なんてことしたんだろう』。情が入ったというのか・・・。こんな試合、他にはないですよ」。

そして、丸山は「10・19」は、神様が作ってくれた試合だと思っている。
「第1試合から奇跡の連続。近鉄に神様が勝利をあげてもいいのに、と誰も思っていたでしょうね。でも、勝利の女神が微笑まなかったのには、何かがあったんでしょうね。自分にはわかりませんけど・・・」。



■最後に、当時ロッテのエースだった村田兆治。村田は、登録抹消中だったため、自宅でテレビを見ていた。
「正直な話、自分が投げられるものなら、自分が投げたかった。参加できなかったのは事情があったにせよ、複雑な気持ちですよ。あの日、野球ファンの心理はほかに贔屓チームがあっても『近鉄、頑張れ! だったでしょ? 現場にいなかっただけにね、自分まで『近鉄頑張れよって、第三者的な気持ちになりましたよ』。



■ボクは、延長10回表、近鉄の優勝が消えた時点で、川崎球場を後にした。優勝が消えたのに、守備にく近鉄の選手たちを見ていられなかったから。しかし、最後の瞬間まで見ればよかったなと、今さらながら思う。神様が作った試合をナマ観戦する機会など、ザラにはない。

あれから25年、ボクにとって、とてつもなく大きな後悔である。

 







Last updated  2013.12.21 11:43:32
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2013.12.08
テーマ:日本野球史(126)
カテゴリ:近鉄バファローズ

前回の続き。

 

「パ・リーグには行きたくない。人気がないし、テレビにも映らないから。90%近鉄には行かない」。

1972年のドラフト、近鉄バファローズが1位指名したのは、日大桜丘高のエース・仲根正広(後に政裕に改名)だった。だが、仲根が希望していたのは在京セか阪神だったため、思わぬ近鉄の指名に腹を立て、冒頭の言葉を発したのだった。

そんな言葉を聞くと、逆にこちらも腹を立てたくなるが、当時のボクは何とも思わなかった。なぜなら、当時、こういった言葉を吐くのは仲根だけではなかった。パの球団から指名を受けた時、同様の言葉を吐く選手は少なくなかったため、感覚がマヒしていたとでも言おうか・・・苦笑



■しかし、仲根の強気な発言のウラには、それなりの根拠もあった。なにせ同年のセンバツでチームを全国制覇に導いた優勝投手である。193cm、90kgの巨漢ゆえ「ジャンボ仲根」と呼ばれ、同大会で最もスポットライトを浴びた人気No1選手でもあった。人気のない
近鉄にとって、喉から手が出るほど欲しい「全国区」の選手だった。

※ボクは、仲根のセンバツ決勝の試合をテレビで観ていた。相手は兄弟校の日大三高。日大勢どうしの戦いということもあり、大いに世間の耳目を集めたが、仲根人気が勝り、ボクも多くの高校野球ファンも、日大桜丘のほうを応援していたと記憶している。

指名後はさっそくノンプロ行きを宣言し、日参する近鉄・中島スカウトに絶縁状まで突きつけて拒み続けたが、仲根の家庭の事情があり、形勢は一転して契約に至った。

そして、入団発表の席上でも、仲根のビッグマウスぶりは健在だった。「12」に決まっていた背番号を「20」に変更することを要求し、受け入れられると「来年は20勝、20ホーマーで頑張ります」と公約した・・・。



■しかし、プロの世界は決して甘いものではなかった。 1年目(73年)は、25試合1勝8敗の散々な成績。その後もクチほどの成績を残せず、8年目の81年からは投手を諦め、打者に転向した。

ボクには、打者としての仲根のほうが印象に残っている。大きな身体で左打席に立つ姿は、ファンに長打を期待させた。事実、83年は106試合に出場し、83安打、14本塁打、打率.267を残した。



■仲根について、wikipediaに気になることが書いてあった。曰く、
近鉄時代のとある試合で満塁時の走者となった際、他2走者が同じ甲子園優勝投手の島本講平と金村義明だったことがある。

仲根、島本、金村の3人が揃って塁を埋めた?
気になって、それがいつの試合だったかを調べてみた。この3人の打順がつながっている試合がもっとも確率が高いだろうと予想し、スタメンデータベースで探してみた。

すると、該当する試合が1試合だけ見つかった(3人の内、だれかひとりでも代打、代走で出場した場合はその限りではないが)。84年9月29日の対日本ハム戦がそれだった。

6番(9)仲根、7番(7)島本、8番(5)金村。

断言はできないが、この試合で、三塁ベースに仲根、二塁に島本、一塁に金村が立ったシーンが見られた可能性が高い。垂涎もののシーンである。

ちなみに、この試合のスタメンは以下のとおり。
1(4)大石大二郎
2(8)佐藤純一
3(D)加藤英司
4(3)デービス
5(2)梨田昌孝
6(9)仲根政裕
7(7)島本講平
8(5)金村義明
9(6)村上隆行

そして、この試合の先発投手は「ビッグマウス」のご本家? 加藤哲郎だった。



ジャンボ仲根.jpg







Last updated  2013.12.09 23:44:40
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2013.11.23
テーマ:日本野球史(126)
カテゴリ:近鉄バファローズ

前回の続き。


■1973年、近鉄の土井正博が1500本安打、清俊彦が1000奪三振を各々記録した。また、岩本尭監督が休養のため、嶋田光二コーチが代理監督として指揮をとったのもこの年だった(8月~)。結局、岩本はそのまま監督を辞し、11月、代わって西本幸雄が監督に就任した。

この年、近鉄にとって頭の痛い出来事があった。藤井寺球場を巡る騒動である。2月、藤井寺にホームグラウンドを移すことを決定し、7月にナイター工事を着工したものの、地域住民に反対の声が上がり、10月、大阪地裁が条件付きながらナイター工事続行中止処分を下された。



■この顛末について、『近鉄球団、かく戦えり。』(浜田昭八著、日経ビジネス人文庫)に詳しいので、以下に引用する。

高い家賃を払うぐらいなら、多少無理してでもマイホームを建てる。まして使っていない古い家があるなら、手入れして使いたいと思うだろう。近鉄球団の思いは、まさにこれだった。

近鉄は1958年、「家賃」値上げのため、それまでナイターで借りていた大阪球場を去り、新たにナイター設備をつけた日生球場に「転居」した。ところが、移った先の「家主(日生)」も年々、「家賃」の値上げを要求してきた。

72年の年間使用料は3290万円。1試合当たりだと約70万円。これに各種興行経費を加えると、1試合あたりの経費は約115万円になった。しかも球場のフェンスなどへの広告収入は、すべて日生側が受け取る契約だった。その上、73年度からは1試合の使用料を100万円とする申し入れがあったため、もはや、日生に固執するメリットは近鉄にはなかった。

 

■そこで浮上したのが、「古い家」の藤井寺球場への回帰プラン。それは、この藤井寺に照明をつけてナイターも興行しようというものだった(それまではデーゲームと練習だけに使用していた)。

自前の球場を有効利用することで、余計な出費を抑えることができる。当然と言えば、当然のプランだ。ところが地域住民への説明が後手にまわり、思いがけない事態が起きた。 

そもそもこの地は、閑静を売り文句にして、近鉄自身が開発した住宅地。その住民がナイターによる騒音、光、自動車の行き来などによる公害を恐れるのは当たり前だった。したがい、73年7月、見切り発車で着工するも、住民から「ナンセンス!」と問答無用で退けられた。結局裁判に持ち込まれ、紆余曲折の末、工事着工が認められたのは、10年後の83年9月である。



■その後も藤井寺球場は、悲運に見舞われた。近鉄のホームグラウンドとして再スタートするも、97年に大阪ドームが完成し、再び準フランチャイズに降格。さらにオリックスとの合併により、2005年1月をもって球場を閉鎖し、ついに翌06年、解体された。

しかし、球場の看板だけは現存するらしい。近くでスナックを経営する70年代の主砲・栗橋茂さんが抱きかかえるようにして持ち帰ったという。近鉄が藤井寺球場をホームグラウンドとして再スタートを決めたのは1973年、同年ドラフト1位で近鉄に入団したのが栗橋さんだから、これも不思議な縁ではある。 

 

  • 2013.11.23 藤井寺球場 001.JPG

(写真)藤井寺球場 ~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)~







Last updated  2013.11.23 22:17:37
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2013.11.09
カテゴリ:近鉄バファローズ

小林繁 近鉄北川の代打逆転満塁本塁打でV 002.JPG

 

■NHK『ヒーローたちの名勝負-代打男優勝弾』を見た。(写真も同番組より)

2001年9月26日、北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁本塁打で近鉄バファローズがリーグ優勝を決めた試合を、北川の視点から振り返った番組だ。

上の写真は、北川が生還する場面。正面でタフィ・ローズが迎えている。右端、大泣きしているのは大塚晶文。少し左側に目を移すと大村直之が見える。さらに左には吉岡雄二、礒部公一、山村宏樹、水口栄二、中村紀洋がいる。

この時、ボクはもちろん嬉しかったが、2,3日後のロッテ-近鉄戦(千葉)のチケットを持っていたから、「今日決めなくなくてもよかったのになぁ」なんて不遜なことも考えていた。また、相手オリックスの監督が仰木彬さんだったことも、ボクの気持ちを複雑にさせた。

小林繁 近鉄北川の代打逆転満塁本塁打でV 001.JPG

 

■そして同番組には、たまたま故・小林繁投手コーチも映っていた(写真左)。小林さんと番組の趣旨は特に関係ないけれど、ボクは先日、日刊ゲンダイで読んだ小林さんについての一文を思い出した。

その一文は、若菜嘉晴氏が連載している『サスライ野球道』(10月18日付)にあった。
「(江川卓の交換相手になり、阪神へ移籍後)小林さんは絶大な人気に加え、巨人戦では大きなプレッシャーを背負った。心に鬱積した感情を酒で洗い流しているようだった
と書かれていて、ボクにはとても印象深いものだった。

さらに若菜氏は続ける。
「小林さんとは一時、毎日のように朝まで飲んだ。小林さんはブランデーを一気に流し込む。決して酒は強くないのに強いフリをして、ボトルはすぐに空になった。・・・2人で飲んでいると、巨人への未練が垣間見えた。それがグチになる。巨人を愛し、戦ってきた。それなのに江川との交換相手になった。
『なんでオレなのか・・・』まるで、愛する女性を失ったような・・・」。

そしてまた、小林さんは若菜氏相手にグチを肴にして、心に鬱積した感情を酒で洗い流していた、のだ。



■この時期はおそらく江川卓が引き起こした、いわゆる「江川事件」後、小林さんが阪神へ移籍した1年目、1979年頃だと思う。

ただ夜は浴びるように酒を飲んでいたものの、肝心の仕事は順調だった。巨人と当たるようなローテーションを監督に直訴し、対巨人戦8連勝を飾った。そして、通期は22勝を挙げて沢村賞、ベストナインを獲得した。その後も毎年二けた勝利を挙げ、1983年に現役を引退。スポーツニュースのキャスターなどの活動をして、いかにも小林さんらしく派手な、そして、順風満帆な人生を送っているように見えた。



■驚いたのは1997年、近鉄の一軍投手コーチに就任した時だ。少なくとも小林さんは、コーチとかいった指導者に向いていないと思えた。一匹狼でテレビの世界などで活躍するタイプに見えた。なぜ、小林さんはコーチをやっているのだろう? ボクにはとても不思議な出来事だった。

2001年、冒頭に書いた北川の本塁打で優勝を決めた後、近鉄の監督・コーチ・選手たちはチャンピオンフラッグをもってグラウンドを一周した。みんなが歓喜し、はしゃぎまわって歩く中、ひとりだけ浮かない表情で歩く人がいた。それが小林コーチだった。この時の小林さんの表情をボクははっきり憶えている。

優勝したものの投手成績は最悪、この年を最後に辞任が決まっていたが、それだけが理由だったろうか。江川事件をきっかけに、それまで小林さんが考えていた人生設計とのギャップが広がり、その溝が埋まらないことに、ただただ一人でもがいていたようにも思える。


■若菜氏は最後にこう書いて、コラムを締めくくった。
「苦労をひとりで背負い、なんでも自分の力でやろうとした小林さん。・・・江川は孤独だったという人がいる。でも本当に孤独だったのは小林さんだったんじゃないか。私はそう思っている」。


You Tube 「黄桜」CM (by博報堂)

 







Last updated  2013.11.23 05:58:00
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2013.11.04
カテゴリ:近鉄バファローズ

■昨日(11月3日)、第7戦で楽天イーグルスが巨人を破り日本一を決めた。球団創設9年目の快挙だった。

最終回は、前日160球を投げて完投した田中将大がマウンドに上がった。巷ではこの田中の登板に賛否両論が溢れている。残念ながら正解がわからないので、これはボクにとって興味の外だ。

ボクが興味をもったのは、この回が始まる直前のシーン。主審に投手交代を告げた星野仙一監督とともにいた佐藤義則コーチの「笑顔」である。前日、160球を投げた投手を連投させることに何のためらいもないのか? それがとても不思議だった。



■ボクは1988年10月19日の近鉄対ロッテダブルヘッダー・第2試合の仰木彬監督と権藤博コーチのことを思い出した。

この試合、近鉄ベンチは、8回からエース・阿波野秀幸をマウンドに送った。阿波野は2日前に128球を投げて完投し、そしてこの日の第一試合も救援投手としてマウンドに立っていた。さらに、この第二試合も8回から登板である。

ブルペンからマウンドに歩を進める阿波野の表情には、さすがに疲労の色が見えた。送り出す権藤コーチは憤懣やるかたない、といった苦々しい表情をしていた。後日、権藤が語っていた。
「2日前に128球投げた阿波野に、この日は一度だけ登板する機会があるとは言っておいたが、まさか第二試合まで投げさせるとは思っていなかった」。

この時、阿波野登板を命じる仰木と権藤には、何らかの対立があったはずである。それまでも、そしてその後も投手起用をめぐって対立していた2人である。勝利を優先する仰木、投手のことを優先する権藤。2人の間に何もなかったほうがおかしい。

■そんな経験があって、ボクは知らず知らずのうちに、監督と投手コーチが対立することは当たり前だと頭の中に刷り込まれてきた。そんなものだから、佐藤コーチの笑顔には少なからず違和感を覚えたのだ。

佐藤は、1993年、出身地の奥尻島が震災に遭い(北海道南西沖地震)親戚を亡くした。しかしその直後に出場したオールスターで力投し、95年は阪神大震災に襲われるも同年にノーヒットノーランを達成し、オリックスの優勝に貢献した。そして2011年には東日本大震災に遭遇と、佐藤の野球人生と大震災・復興が見事に符合している。

まるで震災復興の使命を帯びた感ある佐藤ゆえ、自軍の投手を守ることはもちろんだが、それ以上に、東北の復興を願う気持ちが人一倍強かったのかもしれない。ボクはそう想像することで、佐藤の笑顔の理由を納得した。



■はたして、昨日の試合は田中が期待に応え好投し、楽天が日本一に輝いた。アナウンスで「投手交代、背番号18、田中~」と告げられた時、スタンドを埋めた観衆から大歓声が上がった。この瞬間、ボクは身震いするほど興奮した。

それは、ボク自身が東北出身ということもあるが、それ以上に近鉄が成し遂げられなかった日本一を、まさに今つかむといった喜びのほうが大きかった。
※もちろん、楽天は近鉄の後継球団ではないことは知っているが。

そして、楽天がたった9年で達成した日本一は、50年かかってもできなかった近鉄のことを一層くっきりと浮かび上がらせ、今後も近鉄が語り継がれるきっかけになれば、何も言うことはない。その意味でも嬉しかった。とても屈折した感情であることは重々承知しているが、本心だから仕方がない。



■フェイスブックに「3.11で震災、11.3で(楽天が優勝し)復興」と書いていた人がいた。

うまいもんだな、この人に座布団一枚だ!

 

近鉄百貨店優勝記念セール.jpg







Last updated  2013.11.04 16:20:46
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2013.10.19
カテゴリ:近鉄バファローズ

■今日(10月19日)、「10・19」25周年トーク&ライブ(第1部)に行ってきた。

あれから25年経った。早いようでもあり、長かったようでもあり。

ただ、この25年の間に、あの時の記憶が薄れてきたことだけは間違いない。

たくさんのシーンがボクの頭の中に残っているものの、それがダブルヘッダーの第1試合だったか、第2試合だったか記憶が危うくなってきた。また、第2試合は延長10回まであったことを忘れてしまい、先日のブログでは、近鉄ナインの最後の守備を「9回裏」と書いてしまった。嗚呼、恥ずかしい・・・。

そんなものだから、今日のイベントはとても有難かった。お蔭さまで、薄れかかっていた記憶を少しだけ取り戻すことができた。



■ゲストには、当時近鉄のコーチだった中西太さん、そして第2試合で同点本塁打を放った憎きロッテの高沢秀昭さん(笑)。

中西さんは、いま齢80歳と自ら話していた。足腰が多少弱っているようにお見受けしたけれど、メリハリのある語り口は、ボクの知っている以前の中西さんとまるで変わらなかった。

面白かったのは、第1試合の9回表、梨田昌孝の適時打で生還した故・鈴木貴久と抱き合いながらグラウンドを転げまわっていた理由。

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(写真)中西太さん、齢80歳。

それは、ボクにとって最も記憶に残るシーンだ。中西さんも鈴木も感極まって抱き合いながら転げまわったものと思っていた。でも、実は違った。

当時、中西さんは気管支を患い、呼吸することがつらいほど体調が悪かった。そんな最悪の体調の時、鈴木が本塁まで駆けてきた勢いで中西さんにしがみついたものだから、ただ押し倒されただけなのだ、と。

一瞬会場が静まり、直後にどっと笑いが起きた。
なんだよ・・・、25年も大事に温めてきた記憶は、ただそれだけのことだったのか!(笑) 

たぶん会場にいた多くの人がボクと同じ気持ちだったと思う。ただ、その後に「でもね、あの足の遅い鈴木がね、よくセーフになったよね」としんみりと話した下りには、いまこの世にいない鈴木のかつての雄姿を思い出し、ボクは目頭が熱くなった。

 

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(写真)生還した鈴木貴久と抱き合う寸前の中西太さん。このあとに2人でグラウンドの上を転げまわった。右端は安達俊也。~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)より~



■ロッテ・高沢さんもステージに登場した。

拍手で迎えられた高沢さん、冒頭にこう言った。
「第2試合で余計なホームランを打ってしまった私が、近鉄ファンが集まるこのイベントに出席していいのだろうかと迷いました。でも皆さんに温かく迎えてもらって嬉しく思います」
この一言で、会場を埋めた近鉄ファンの心をつかみ会場がどっと沸いた。

高沢さん、つかみはOK!

 

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(写真)高沢秀昭さん。


続けて第2試合の8回裏、自ら打った同点本塁打について話し始めた。
「打った瞬間はフェンスに当たると思い、全速力で一塁に走りました。そして打球の方向を見て、本塁打になったことを知り、『あ、入ってしまった・・・』と思いました。二塁ベースを回るとき、個人的にも親交のある大石大二朗には、心の中で『申し訳ない・・・』と語りかけました」。

「やった、入ったぞ」ではない、「あ、入ってしまった」である。

この時、首位打者がかかっていた高沢さんは、必死だったはずである。なのに、わずかでも後悔したような話を聞くことで、高沢さんの人柄を知ることができた。そして「首位打者争いだから、別に本塁打でなくてもよかったんです。本当はヒットでよかったんですけどね」と続け、会場の爆笑を誘った。



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(写真)同点の本塁打を放ち二塁ベースに向かう高沢秀昭さん。うなだれる近鉄・阿波野秀幸。ボクはこの瞬間、何が起きたかよくわからなかった。たぶん口をあんぐりと開けて打球の飛び込んだスタンドを見ていたと思う。そしてしばらく間をおいて、同点に追いつかれたことを知った。~『大阪近鉄バファローズ 伝説の野武士軍団BOOK』より~



■さらに高沢さんは、お互いのベンチの状況を話してくれた。
近鉄ベンチからの野次はロッテベンチに筒抜けで、その野次が逆にロッテ選手の心に火を点けたのだと。

第1試合に勝利した近鉄は、その時点で圧倒的に有利だったはずである。「流れ」から言えば、第2試合はほぼ間違いなく勝てるはずだった。なのに勝ちきれなかった。それは、勝つこと、優勝することに慣れていなかった球団の、悲しいかな「性」だったのかもしれない。野次を飛ばして、相手を必要以上に刺激する必要はなかったのだ。高沢さんの話を聞き、そう思うに至った。

ここまで書いて、第2試合で主審を務めた前川芳男さんが語った回想記(雑誌『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を思い出した。前川さん曰く、

近鉄ベンチの焦りが、ロッテの闘争心に火をつけてアドバンテージを消してしまったんですよ。近鉄ベンチの焦りは嫌でも伝わってきます。6回表、ロッテの園川がカーブを投げました。ストライクです。私は自信をもって三振であることをコールしました。でも、あの試合は抗議権のない中西太コーチが喰ってかかってきましたからね。

焦りは、仰木監督からも感じられました。9回の有藤監督の抗議の際に、仰木監督も出てきて「大事な試合なんだ、(時間がないから)もう、いい加減にやめてくれ」みたいなことを言ったんですよ。その時、有藤監督が言ったことをよく憶えています。

「絶対に負けない!」

近鉄ベンチの焦りが、モチベーションは高くなかったはずのロッテの闘争心に火をつけたように感じましたね」



■今日のイベントに、ボクはzappaloesさんと行ってきた。1988年10月19日、ボクたちは川崎球場にいた。ただ、その頃は知り合いではなく、まったく別の場所にいた。彼はネット裏、ボクは三塁ベンチの真後ろ。

それから25年の時を経て、また近鉄応援団のトランペットが鳴り響く同じ空間にいる。近鉄が結びつけた不思議な縁だと思う。お互いに当時は独身だったけれど、今はどちらも子供が成長して20歳前後に達している。

この25年は早かったのか、長かったのか・・・。

何度考えても答えは出てこないが、この間に様々な人生経験があって、そして25年後に出会う機会を作った近鉄バファローズ、そして10・19の吸引力は計り知れないほど強いものだと改めて思う。



■イベントの最後にプレゼントの抽選会が行われ、ボクはこのイベントの主催者である佐野正幸さんの著書『1988年10・19の真実』(主婦の友社)が当たり、有難いことに、ご本人から直接いただくことができた。zappaloesさんは旅行宿泊券だと!

最後に、
佐野さんはじめ、素晴らしいイベントを企画していただいた主催者の皆様、本当にありがとうございました。感謝いたします。



 IMG_20131019_220637.jpg

(写真)前述のとおり。

 







Last updated  2013.10.20 02:33:01
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2013.10.13
カテゴリ:近鉄バファローズ

本日、『東京野球ブックフェア』に行ったところ、『「10・19」25周年トーク&ライブ~近鉄バファローズの一番長かった日~』の開催を告知したチラシが配布されていました(写真)。

このブログに何度も書きましたが、あの伝説の試合「10・19」をボクは川崎球場で見ていました。そして近鉄は負けなかったけれど、優勝できませんでした。羽田が併殺打に倒れた直後、あまりに悔しくて、第2試合の10回裏を見ずにボクは川崎球場を後にしました。優勝がなくなっても守備につかなければならいナインの姿を見ることができませんでした。

あれから、25年が経ちました。

まさか、こんなイベントが開かれるなんて夢にも思っていませんでした。主催は元近鉄バファローズ東京応援団の方、そして佐野正幸さんが協力されているそうです。次第にあの時の記憶が薄れ始めている今、とても嬉しい企画です。

すでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、念のため、このイベントを『あま野球日記』でもご紹介します。開催日が迫っていますので、リンクでもなんでも結構です。お知り合いに近鉄ファンの方がいらしたら、ぜひ教えてあげてください。

第1部は、中西太さんや高澤秀昭さんがゲスト出演されるそうです。



<申し込み方法> 第1部、第2部の2部構成。

■第1部の申し込み方法は、3種類あります。

予約フォームからの申し込み:
https://form.os7.biz/f/47a9f4d5

Facebook:
https://www.facebook.com/1019KAWASAKI

e-mail:
kintetsu1019_25@yahoo.co.jp
※名前、年齢、性別の記入、必須。
※問い合わせもこのアドレスへ。


■第2部の申し込みは、ローソンチケット(Lコード:36696)
ほかに、ネイキッドロフト



<概要>

日時:2013年10月19日(土)
    第1部:13:30~15:30、第2部:18:30~

場所:第1部 パセラリゾーツ新宿本店6階 GRACE BALI
         (新宿区歌舞伎町1‐3‐16)

    第2部:ネイキッドロフト
         (新宿区百人町1-5-1 百人町ビル1階) 

料金:第1部 6,000円

       第2部 (前売)2,000円 (当日)2,300円




【詳細はこちらをご参照ください】

2013.10.13 012.JPG







Last updated  2013.10.19 04:19:25
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2013.10.09
カテゴリ:近鉄バファローズ

ムーンライト・グラハムとは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場しメジャーでは1試合に出場したものの、一度も打席に立つことなく現役を終えた実在の選手のこと(引退後は医者に転じた)。

彼について、wikipediaはこう記していた。
「W・P・キンセラが、ベースボール・エンサイクロペディアの中から偶然グラハムの特異な経歴を見つけ出し、そのエピソードを著書『シューレス・ジョー』に掲載したことから、映画『フィールド・オブ・ドリームス』として劇場公開され、グラハムの経歴が広く知れ渡ることとなった」。



■ボクは歴代1軍出場選手539人のデータが収録された『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を見ながら「1試合に出場したものの、一度も打席に立つことのなかった」いわゆるムーンライト・グラハムを調べ始めた。

すると該当する選手が11人見つかった。その人たちはどんな選手だったか、そして彼らが近鉄バファローズに在籍した当時、近鉄はどんなチームだったかを、このブログにまとめている。そして今回は吉田好太さん。

北村さんが近鉄に在籍したのは、1999年(平成11年)から2001年の3年間。通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)。ポジションは二塁手・遊撃手、背番号91。神奈川・桐蔭学園高出身。高校卒業後、米国にわたりアスレチックスのアリゾナリーグ・アスレチックスでプレーし、98年のドラフトで近鉄から8位指名を受け入団した。身長175cm、体重73kg。右投げ両打ち。1977年生まれ(現在35歳)。桐蔭学園高時代、94年、95年のセンバツに三塁手として出場したが、いずれも初戦敗退した。



■吉田さんがドラフトで近鉄から指名を受けた98年は、横浜高・松坂大輔を何球団が重複指名するか、そして松坂をどの球団が引き当てるかが大いに話題になった年だった。そして西武、日本ハム、横浜が競合し、結局、松坂を引き当てたのは西武だった。松坂の横浜高時代の同期で、先ごろ現役引退を発表した小池正晃もこの時、横浜から6位指名を受け入団した。

同じ時、近鉄は1位が宇高伸次、2位が藤井彰人と、近畿大バッテリーをセットで指名した。佐々木恭介監督が近畿大OBだったため、その縁故入団だとか、近鉄は宇高だけ欲しかったが近大から注文がつき藤井もセットで指名したと噂を聞くこともあった。もちろん真相はわからないが、未だ現役を続ける「近鉄(らしい)顔」の藤井を見るたび、ボクは嬉しくなる。

さて、近鉄にドラフト8位で入団した吉田さんは俊足好打の二塁手、遊撃手として期待されたと推察する。しかし、この頃、近鉄の二遊間には水口栄二、武藤孝司、前田忠節、吉田剛らがおり、吉田さんの前に立ちはだかった。悲しいかな、結局、唯一出場した試合は、2000年8月19日の対オリックス戦だった。8回表に鷹野史寿の代走として初めてグラウンドに立った。

吉田さんが代走で出たのは一塁だったろうか。ならば、この時、オリックスのファーストは藤井康雄だった。二塁に代走として出ていたなら、セカンドは小川博文、ショートは塩崎真。吉田さんの足を警戒して頻繁に牽制する小川や塩崎を見て、もし守備に自信があったなら「ちくしょう、俺もそれがやりたいな・・・」と思ったかもしれない。



■吉田さんが在籍した3年間において、近鉄の最大のニュースは2001年9月26日の北川博敏が放った逆転サヨナラ満塁本塁打だろう。この一発で、近鉄は4度目のパ・リーグ優勝を決めた。

この瞬間をボクは自宅のテレビで観ていた。もちろん嬉しかったし、それなりに興奮した。でも中村紀洋タフィ・ローズがどんどん「お山の大将」になっていくように見えて、彼らが活躍する頻度が増すたび、それに反比例してボクの近鉄熱は次第に下降し始めていった。

吉田さんはこの瞬間を見届けたはずだが、シーズン終了後に近鉄を去った。そして新天地を横浜ベイスターズに求めたが、その1年後に現役を引退した。

 







Last updated  2013.10.11 00:05:02
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2013.10.05
カテゴリ:近鉄バファローズ

前回の続き。

ムーンライト・グラハムとは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場しメジャーでは1試合に出場したものの、一度も打席に立つことなく現役を終えた実在の選手のこと(引退後は医者に転じた)。

彼について、wikipediaはこう記していた。
「W・P・キンセラが、ベースボール・エンサイクロペディアの中から偶然グラハムの特異な経歴を見つけ出し、そのエピソードを著書『シューレス・ジョー』に掲載したことから、映画『フィールド・オブ・ドリームス』として劇場公開され、グラハムの経歴が広く知れ渡ることとなった」。



■ボクは歴代1軍出場選手539人のデータが収録された『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を見ながら「1試合に出場したものの、一度も打席に立つことのなかった」いわゆるムーンライト・グラハムを調べ始めた。

すると該当する選手が11人見つかった。その人たちはどんな選手だったか、そして彼らが近鉄バファローズに在籍した当時、近鉄はどんなチームだったかを、このブログにまとめている。そして今回は北村俊介さん。

北村さんが近鉄に在籍したのは、1996年(平成8年)から97年の2年間。通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)。ポジションは内野手、背番号35。京都・大谷高出身。1996年3月、トレードで中日から近鉄に移籍した。身長174cm、体重70kg。右投げ左打ち。1967年生まれ(現在46歳)。大谷高時代、甲子園出場経験はない。

ただ、北村さんはこれまで取り上げた8名の方とは少々事情が異なる。調べてみると1986年に中日にテスト入団し、中日在籍時は50試合に出場、計21安打を放っている。だから、ボクがムーンライト・グラハムと呼ぶのは、近鉄に在籍した2年間においてのみ、とあらかじめお断りしておく。


■1985年、北村さんの高校最後の夏、京都を制したのは花園高。その花園高は甲子園の初戦で、小倉全由監督(現・日大三高)率いる関東一高と対戦し、スコア1-12で敗退した。
ちなみにこの大会の優勝は、桑田真澄、清原和博を擁したPL学園高。

北村さんは高校卒業後、1987年に中日にテスト入団した。初出場は89年9月10日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)。大宮龍男の代走として初めて一軍のグラウンドに立った。そして初打席は、その3日後の9月13日、鈴木康友の代打で出場した(2打数0安打)。

その後、95年には50試合に出場し79回打席に立った。安打数は16。おもなポジションはセカンドとサードだった。当時、セカンドには立浪和義、サードには仁村徹、そして近鉄から移籍した金村義明らスター選手が立ちはだかるも、その間隙をぬって出場を果たし、このシーズンを最後に96年3月、近鉄に移籍した。



■96年3月に移籍と書いたが、3月のトレードというのは微妙だ。すでにキャンプを終えてオープン戦の真っ最中。そろそろ開幕という時期である。どんな事情があったか不明だが、北村さんが近鉄に在籍した96~97年前後は、近鉄にさまざまな動きがあった。

まず95年1月、野茂英雄が任意引退選手となり、米国に渡った。同年8月、鈴木啓示監督が休養し、水谷実雄ヘッド兼打撃コーチが監督代行として指揮を執る。そして2か月後の10月、佐々木恭介が新監督に就任した。

97年3月、大阪ドームが完成し、観客動員数は球団新記録となる186万6000人達した。チ―ムも3年ぶりにAクラスに返り咲く。また小池秀郎が最多勝利(15勝)、赤堀元之が最優秀救援投手賞(33SP)を獲得、ベストナインにはクラーク、ローズの両外国人選手が選ばれた。



■また忘れられないのは95年秋のドラフト。就任直後に佐々木監督がPL学園の福留孝介を引き当て「よっしゃ―」と叫びニュースになった(結局、福留は入団拒否。日本生命へ)。

ちなみにこの時、近鉄は福留(1位)のほか、関西大の岡本晃(2位)、創価大・武藤孝司(3位)、日南学園高・平下晃司(5位)を指名した。

北村さん獲得の目的は、福留を逃したその補充要員としてか? そう思わないと、武藤と北村さんは同じタイプの選手であるため、武藤を獲得後に北村さんをわざわざ中日から獲得した説明がつかないように思うが。 




■さて、北村さんは近鉄在籍時、1試合だけ出場した。それは1996年であることはわかったが、WEBサイト『スタメンデータベース』をもってしても、出場した試合を特定することはできなかった。残念だけど、同年開幕戦のスタメンを記載して、この項を終わることにする。

1 大村直之(8)
2 大石大二郎(4)
3 C・D(DH)
4 石井浩郎(3)
5 ローズ(7)
6 鈴木貴久(9)
7 中村紀洋(5)
8 古久保健二(2)
9 吉田剛(6)
P 高村祐



■ブログをアップした直後、たばともさんから連絡をいただき、北村さんが近鉄で唯一出場した試合が1996年3月31日の開幕第2戦であることがわかりました。CDの代走で出場したそうです。なお、その時のスタメンは「P アキーノ」以外、上記と変わりなしです。たばともさん、ありがとうございました!

 




(写真)近鉄時代の野茂英雄。~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)より~







Last updated  2013.10.06 03:30:21
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2013.09.25
カテゴリ:近鉄バファローズ

前回の続き。


ムーンライト・グラハムとは、映画『フィールド・オブ・ドリームス』に登場しメジャーでは1試合に出場したものの、一度も打席に立つことなく現役を終えた実在の選手のこと(引退後は医者に転じた)。

彼について、wikipediaはこう記していた。
「W・P・キンセラが、ベースボール・エンサイクロペディアの中から偶然グラハムの特異な経歴を見つけ出し、そのエピソードを著書『シューレス・ジョー』に掲載したことから、映画『フィールド・オブ・ドリームス』として劇場公開され、グラハムの経歴が広く知れ渡ることとなった」。


■ボクは歴代1軍出場選手539人のデータが収録された『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)を見ながら「1試合に出場したものの、一度も打席に立つことのなかった」いわゆるムーンライト・グラハムを調べ始めた。

すると該当する選手が11人見つかった。その人たちはどんな選手だったか、そして彼らが近鉄バファローズに在籍した当時、近鉄はどんなチームだったかを、このブログにまとめている。今回(その8)は、原田和彦さん。

原田さんが近鉄に在籍したのは、1986年(昭和61年)から92年の7年間。通算成績は出場試合数「1」、打数は「0」(四死球、犠打はなし)。ポジションは捕手、背番号は69と42。兵庫・村野工高出身。1985年ドラフト外で近鉄バファローズに入団した。身長177cm、体重76kg。右投げ右打ち。1967年生まれ(現在45歳)。村野工高時代、甲子園出場経験はない。


■1985年のドラフトはPL学園高の桑田真澄、清原和博の進路が注目を集めた。当初早稲田大進学を表明していた桑田を読売が1位指名(入団)、そして読売を希望していた清原が西武から指名(1位)を受けて入団した。記者会見で見せた清原の悔し涙が印象的だった。

原田さんは、同じ年の2人が華々しいスポットライトを浴びる中、ドラフト外でひっそりと近鉄に入団した。梨田昌孝、有田修三に代表されるように、もともと近鉄は捕手王国である。1986年当時も梨田や山下和彦らが常時マスクを被っており、新人の高卒捕手が入り込む隙はなかった。そのため「いつかは一軍の正捕手に」と希望を持ちつつも、当面は二軍のブルペンに仕事場を求めたに違いない。
 

■wikipediaによると、原田さんが唯一出場したのは1991年のこと。しかしWEBサイト『スタメンデータベース』で確認しても、原田さんの名前はどこにも見当たらなかった。出場試合を特定できなかったのは残念だが、91年当時の近鉄の主要選手を書き留めておく。

投手:野茂英雄、阿波野和幸、山崎慎太郎・・・
捕手:古久保健二、光山英和
一塁手:トレーバー
二塁手:大石大二郎
三塁手:金村義明
遊撃手:吉田剛
左翼手:ブライアント
中堅手:新井宏昌
右翼手:鈴木貴久
DH:石井浩郎



■原田さんの在籍当時、近鉄の最も大きな出来事は1988年の「10・19」だろう。ボクは会社を休んで朝から川崎球場のチケット売り場に並び、三塁側の近鉄ベンチのすぐ後ろでダブルヘッダーを観戦していた。

これまで何度もブログに「10・19」を書いてきた。あれから25年の時間が過ぎ、記憶がだいぶ薄れてきたが、鈴木貴久の本塁生還、佐藤純一の走塁ミス、新井宏昌の激高、村上の適時二塁打、梨田の中前適時打のシーンはよく憶えている。

他にもある。自分でも不思議だが、第2試合9回裏の出来事がいまだに目に焼き付いている。それはロッテが無死一塁で、袴田英利が送りバントをした場面。打球は阿波野秀幸梨田昌孝のちょうど中間あたりに転がった。だが2人はお見合いし、その直後に交錯して阿波野が転倒してしまった(写真)。一塁二塁、オールセーフ。

起き上がった阿波野は顔面蒼白だった。そしてキッとした目つきで梨田を睨んでいたのだ。ほんの一瞬の出来事だったけれど、ボクにはとても印象的だった。近鉄が優勝を賭けてガムシャラになって戦ったこの試合は、つねに異様な空気が球場を包んでいた。その中で戦う選手たちは、先輩後輩の序列などといったお決まりのルールに収まりきらない、喜怒哀楽をこれでもか!と思えるほどむき出しにしてプレーしていた。阿波野の表情はその象徴的なものに思えた。

結局近鉄は負けなかったが、優勝はできなかった。グラウンドで選手たちは涙を流したものの、仰木彬監督の目に涙はなかった。だが金村の後日談によると、仰木監督が球場内のトイレでこっそりと目を拭っているのを見つけたそうだ。

この時、原田さんはどこにいたのだろう。祝勝会に備えチームに帯同して川崎球場にいたのだろうか。もしそうなら、仰木監督の涙を見つけることはできたかな?

 


2013.9.25 10・19 002.JPG

(写真)このシーンの数分後にロッテ・有藤道世監督の9分間に及ぶ抗議があった
~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)より~







Last updated  2013.09.26 01:18:58
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