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2005/05/01(日)16:55

桐生悠々「生活権即遊食権」

リンクのない新着テキスト(1233)

 私たちは、ここに、有理的革命といわれる生活安定策、即ちミルナー氏の「国家ボーナス案」(第二年第十四号ー第十九号所載)を紹介するに先だって、今少しく「生活」なるものの性質を検討して置かねぽならない必要を感ずる。何ぜなら、これを知らなければ、漫に生活を保障し、安定せしむるというも、その範囲と程度とが分らないからである。  個人は、集団の一員として生活する権利を持つ。しかも、この権利は、彼が生れない以前に於てすら、既にこれを享楽(註受か)する。「私権の享有は出生に始まる」(民法第一条)と雖も、「胎児は家督相続については、既に生れたるものと看做す」(民法第九六八条)と我民法が規定しているによっても明である。諸外国の法律もまたこれを認めている。  なお人が生れない以前に於てすら、既に生活権を持っていることは、文明国の法律が概ね堕胎を禁じていることによっても、証拠立てられている。  ここにいうところの生活は、「人間としての生活」ではなくて、「動物としてまたは生物としての生活」即ち棲息に過ぎない。それすらも、またこの如くに保障されているとすれば、胎児が生れた後、人間として生活する権利が保障されねばならないことは、論を待たない。  しかも、この生活権は生活の赤裸々なる必要品を要求する権利のみではなく、アメリカの独立宣言が宣言しているが如く二定の譲渡すべからざる権利」である。単に生活の希求のみならず、自由と幸福とを希求する権利もまたそのうちに含まれているが上に、なお、これらの希求は各個人に対して平等に認められねぽならない。にもかかわらず、今日の国家はこれを認めていない。法律的には、これを認めているけれども、実際に、これを認めていない。これ私たちが、ここに国家に対してその承認を求めんとする所以である。  生活という観念中には、労働が含まれていない胎児、幼児は無論の事、病人、廃疾者は労働しない。彼等は遊食者である。遊食者たるが故に、俗にいうところ穀潰しであるが故に、その生活を保障せずとするならば、国民の大部分は国家の保護圏外に抛り出されねぽならない。  ソヴェート.ロシアの原則「働かないものは食ってはならない」という観念は、一見合理的であるけれども、再見悖理的である。現にロシアではこの働かないものにも食わせているではないか。児童を国有としてすら保護しているではないか。だから、この原則を認めない諸他の資本主義国家では、先ずこの労働し能わないもの、即ち国民の大多数に食を与、兄なければならない。況《いわん》や労働し得るにもかかわらず、失職して労働し得ざるものに於てをや。  一言にして、そして極論していえば、人は「遊食権」即ち「遊んでいて食う権利」を持つ。生れざれば止む、一旦生れたる以上、彼は遊んでいても食って行く権利を持つ。そして、国家はこの厄介者を、またポテンシァルな労働者や次代を食わせて行く義務を背負わねぽならない。でなければ、国家は存在し得ないにもかかわらず、今日の国家は、経済的に、残酷にも、また彼みずからの不利益にもこれら遊食の徒を見殺している。これ近代の国家が、到るところに戦慄すべき「革命」によって脅威されつつある所以である。  既に個人の生活権を認める以上、国家はこれを保障して、これに生活の資を支給しなければならない。でなければ、国家はこの機能を発揮したものとはいえない。たとい最少限度の生活費と雖もこれを与えないで、そして生きよというのは、近代的なる社会に於ては、生きよというのではなくて、寧ろ死せよというに等しい。だから、国家は個人に生活を維持すべき職を与うるに先だって、これに生活の資を与えなければならない。  人口も少く、食物も豊富であり、人が遊んで食って往けた時代に於ては、国家なるものは必要がなかった。従って、人は自由に生活して、自由に幸福を享楽し得た。だが、今日では反対であって国家あるが為に、私たちは「夥多裡の貧乏」に苦んで餓死せしめられんとしつつある、結局国家がその機能を完全に働かしめないからである。                                 (昭和十年七月)

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