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2005/05/05(木)23:57

桐生悠々「言論自由の再実現」

リンクのない新着テキスト(1233)

 第五の宣言は、吏道の振粛、行政機構の更新に関してであり、この個条は、潮(恵之輔)内相の主張によって挿入されたものであると伝えられ、その後、この個条に関して種々の刷新が示唆され、まことに結構に相違ないが、私たちは、特に記者自身は、このさい広田内閣に対して言論自由の再実現を、真先に要求せざらんと欲するも能わざるものである。その理由は私たちが、爾来、本誌に於て屡力説し、特に前号に於て或はまたもや当局の注意を刺戟するだろうと思われる程度にまで、これを力説したから、ここにこれを再びしないが、叛軍事件の後を承けて成立した広田内閣が、その使命を完うし得るや否やは、一に言論機関を如何に取扱うかに繋っているとまで、私たちは思うものである。偶前号所報の如き一読者の「軍人にも言論の自由を許せ」を読むことにより、益この念願を強化せずにはいられない。  明治大帝の軍人に賜わった御勅諭の再読を、このさい軍人に力強く要求するものがあるならば、叛軍事件の如き昭代の不祥事は、断じてこれを見なかったであろう。言いかえれば、彼等にしてこの御勅諭を遵奉し「世論に惑わず、政治にかかわらず只々一途に己が本分の忠節を」守っていたならぼかくの如き不祥事は、断じて起らなかったであろう。然るに、政府当局は爾来軍部の勢力に圧倒されて、この違勅的行為をすら黙視していた。偶民間の言論機関にして、この軍勅に触るるものあれば、政府は周章狼狽して、これを発禁し、少くとも、これに対して消極的なる注意を加え来ったその結果として、叛軍事件の惹起を見るに至ったのは、寧ろ当然である。政府これを力説することを恐れるならば、冀くは民間の言論機関をしてこれを力説せしめよ。  軍人が政治に干与するの悪弊一にここに至る。だが、今や、それは一の既定事実となって、私たちの眼前に横たわっている。だから、私たちは、この事実に対しては、寧ろ厳粛に再考しなければならない。そして時世の進歩、変遷が、これを余儀なくしたりとするならば、次には、これを利用するの手段を熟考しなければならない。軍人にも政治に干与するの権利を許すと同時に、これに関する彼等の議論を国民の前に発表せしめ、そして国民の批判を請わしめなければならない。彼等も今や、この点に関して目ざめ、最近続々として、パンフレットを発行して、その趣旨を貫徹せんとしているが、これに対して自由の批判を許していない。これに対して国民の、特に言論機関の自由なる批判を許さず、兵営内に於けると同様、強制的の態度を以て、彼等がこれに臨みつつある限り、その誤謬は指摘されず、従って何等の修正さえも加えられずして、直に、これを実行に移さんとする。危険これより大なるはなし。私たちの眼より見れば、時としては、その政治論の素朴にして哄笑を禁じ得ない程度のものさえもあり、無責任の甚しきものすらもある。エヴォリューションを捨てて、一気にレヴォリューションを取らんとするものすらもある。叛軍事件が、その最も顕著なる一例でなくて何であろう。  ナポレオン三世の暴虐に反抗して、ヴィクトル・ユーゴーは言った「剣筆を殺さずんば筆剣を殺さんと」少くとも剣の使い方を矯めるものは、筆の力である。破邪顕正の剣は国民の正化(ジャスチフィヶーシ・ン)を通じて揮わしめなければならない。唯感情的に、一途に思い込って揮う剣は、動機が如何に破邪顕正であっても、実際には、その目的が達せられず、往々にして反対の結果を見ることがある。広田内閣は、特に軍部は、この点に関して再思三顧しなければならない。言論機関をして「軍部」という言語にすら伏字を使わしめつつある今日の世態は、天に口なし人を以て言わしむる真理そのものを抹殺せんとするものである。            (昭和十一年四月、本号発禁)

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