網迫の電子テキスト新着情報

フリーページ

2005年09月22日
XML
 計介はただ心当てに、足に任せて走るのみであるから、いずれが敵の陣とも、味方の哨兵線とも知らず、さながら暗中を模索して行くのである。うっかり人に尋ねて、もし疑われでもすれば、このあたりの人心ははかり知ることが出来ぬのみか、佐々友房の一連一千余人の肥後士族が、賊に加担した中に、この辺の人が多いと聞いているので、計介は少しも油断せぬだけに、道一つ尋ねることも出来ない。
 やがて高瀬近くなると、果して官軍は精鋭を尽して、長駆ただちに熊本城を救うべく、第一旅団の将士は、野津司令官の下に、力をあわせ心を一にして、賊軍を圧迫しつつ、南下するらしい。計介は百難を排した甲斐があって、初めて天日の光を見たような心地がした。
 計介が賊軍の見張りを潜行した時には、麦の芽の寸々にして青き畑をはい歩き、森林の間を匍匐《ほふく》し、人を恐るる野鼠の出没するがごとくに、一足ずつに様子をうかがいて十町余りに五時間も費し、始めて味方の哨兵線へと辿りついた。かれは天地を拝して、神明の佑護を謝した。
「止れッ誰か」と、官軍の哨兵は、銃剣を構えて、計介の胸元に擬した。
「僕は熊本鎮台歩兵第十三聯隊の伍長谷村計介と言う者だ。城を脱け出て、連絡に来たのじゃから、本部へ案内したまえ」
「いかん」と、哨兵は没義道に言った。
「嘘を言え、貴様のような汚ない官軍はおらんぞ。案内などが出来るものか」と、哨兵は神経が亢奮《こうふん》して、木も草も皆敵に見ゆるらしい。うかつに物を言えば、すぐに銃殺されそうである。
 計介は敵の哨兵にこそ細心の注意をしたれ、味方には全く思い到らなんだのである。彼は味方の軍に行きさえすれば、どこでも喜んで助けてくれると信じていたのであるから、今更案に相違して、呆れ惑いながらも、ばかばかしくなった。
「貴様のような乞食が官軍におるか。貴様は賊のしのびに違いないぞ」と、哨兵は頑として聞き入れない。かれは賊へ行けば官軍と言われ、官軍へ来れば賊と疑われるのである。
「不審に思うなら、僕を縛って連れて行ってもよい。このとおり、小刀一本持ってはいないのだ」
 彼は縄の帯を解いて、身に寸鉄も帯びざることを示した。
「どうしようか」
 兵士は同僚にさややいた。
「何を言うか解らんけれど、捕縛して連れて行けば仔細なかろう」
 兵士の間に相談がまとまった時にぱ、計介は縛られながらようやく安心した。
 殺伐の修羅に馴れて、情を知らぬ兵士は、計介を高手小手に縛め、荒々しく船隈の本営へと護送して、怪しき密偵を捕縛したことを誇り顔に報告した。
 計介はすぐに参謀部へと回されたが、幸いに彼の顔を知る者があったので、始めて司令官の前へ引き出された。計介は張りつめた気が緩むとともに、思わず声を立てて泣いた。
「乃公《わし》は野津じゃ。貴様よく城を脱けて来られたな」
 野津少将は谷村の憐れな姿を見て、途中の辛苦を思いやった。
「闍下、私は歩兵第十三聯隊の伍長谷村計介であります。谷司令官閣下のご命令を受けて、友軍に連絡をとるため、ようやく当旅団へ参りました。……途中危険ですから、手紙も何も持ちません。私が口上で申上げます」
「よろしい。熊本の様子はどうか」
「谷司令官閣下始め、皆ご無事であります。佐官以上では与倉聯隊長が戦死いたされました」
 計介ははっきり言ったが、たちまち当時の悲惨な様を思い出し、与倉夫人のけなげなさまなどが胸に充ちて、思うように語ることさえ出来ない。
「鎮台では、十九日に天守を焼きました。失火とはございますが、原因は解りません。そのため糧食全部を失いました。しかし弾薬だけは、児玉参謀が火の中に飛び込んですくい出されましたので、幸いに無事でございました」
「オゥ、児玉は無事か。……児玉さえいれば、まだまだ熊本を落すようなことはせぬわい」
 児玉参謀が計介を知るごとく、野津少将は児玉参謀を知っている。計介は自分を信じられたほどに嬉しい。
「城は二十三日から全く囲まれました。しかし賊には大砲が少のうございますから、何分か悲惨の損害を減じております。……将校や県官の夫人たちを城内に避難させましたから、籠城の苦痛は一層加わりました。ことに連絡が絶えて、官軍の情勢が解らぬため、兵士の中には意気沮喪する者が出来ようかと、司令官始め、将校方が、心痛いたされまするで、私が連絡を通じに出たのでございます。途中二度も賊のために捉まりまして、言語道断の拷問に逢いましたが、命だけは取り止めましてございます」
 谷村計介は感極まって、ホロホロ涙を流しながら、痩せ衰えた眼に喜びの色をうかべた。
「それは大儀であった。児玉や川上がそちを選抜いたしおっただけ、よく成功いたしくれた。実は当方でも鎮台の様子が少しも解らんのであったが、それを聞いて安心いたした。しかし一刻も早く救援せねばならぬ。……ついてはいろいろそちに様子を聞かねばならぬことがあるから、当方に滞在いたしおれ、そしてよく療治いたしたがよかろう」
「ハイ、お言葉でございますが、私はこのことを一刻も早く城へ報告したいと思います」
 計介の一心は、三千余人の戦友の安危あるのみで、この疲れたる身体に、よろめく足を踏みしめても、再び城内へ辿りついて吉報を聞かしたいのである。官軍救援のしらせは、城兵にとって、甘露の慈雨より悦こぼしい。
「いや、それは当方から人を出すことにいたす。そちのように疲れておっては、再度の密使はかえって危うい。……安心して療治いたせ」
 情深き将軍の言葉に、計介は強て争いかね、後方に退いて軍医の手当を受けた。
 野津将軍の第一旅団は、計介の密報によって、旦夕の危急に瀕するを知り、俄かに全軍の運動を起し、三好少将の第二旅団と連絡して高瀬口より玉名郡の木の葉に突出し、稲佐山の堡塁を落し、進んで田原坂《たばるざか》の賊軍に迫った。別軍は吉次越より大久保に出で、一手はさらに河内通りを南下し、三面相応じて賊を圧迫したが、田原坂の嶮をたのめる賊軍は、驃悍《ひようかん》無双の篠原国幹が決死の兵を率いて死守するので、官軍の死傷は刻一刻におびただしく、戦うごとに追い返されて、容易に攻め落すことは出来ない。天地に震う両軍、吶喊《とつかん》の声と、大小砲の響とは、深山幽谷に鳴りはためきて、世は今を限りと覚ゆるまでに、手いたき激戦に及んだのは、同じ年の三月四日であった。
 谷村計介はこの時まで司令部に止まっていたが、先鋒の銃声を聞いては、しばしも安閑とされない。まして櫛の歯をひくごとき報告は、味方の苦戦と聞こえるので、計介は脾肉《ひにく》をたたいて立上り、ずかずかと参謀部へ行った。
「私は無事にいることが、実に苦痛でございます。どうか戦線へ編入して下さい。ただ一発でも撃ちたいです」
「相変らず愉快な男じゃ」と、司令官は、手にした地図を石の上に置いた。
「しかしそちは鎮台の預り者じゃから、怪我でもさせては乃公《わし》が谷に済まんでなあ」
「ハイ、しかし同じ陸軍の軍人でございます。ただ見物するだけでも、お許しを願います」と、容易に承引しない。
「そうか、しからばそちに伝令を申し付けるから」
 野津将軍は計介の熱心に動かされて、比較的危険の少ない伝令の任を授けた。
「有難う存じます」
 計介は蹶起して戦線へと馳せ向った。
 前線の戦は今やたけなわである。賊は胸墻《きようしよう》を山上に設け、えいえい声して攻め登る官軍を、逆《さかし》まに選み撃ちするので、見る見るうちに将校の多くは、バタリバタリと倒れる。突撃兵は木の根岩角に伏して、敵の射撃の衰えるを待ちて、また進み始めれば、たちまちごうごう然と一斉に撃ち出すので、行く者も行く者も皆全滅してしまう。なまなか地物に拠ったものは、撃ちすくめられて動くことが出来ない。塁上からは大石巨木を転ばしかけるので、味方は将棋倒れに谷へと落ちて、苦しみ悶える声は、耳も聾せんばかりである。
 名に負う薩南の驍将篠原国幹の率いる将卒は名を惜しみて命を知らざる猪突の健児、しかも九州第一の天険たる田原坂に拠るのである。まして守将篠原国幹は、己の策の容れられざるに憤激し、屍をこの地に曝して、名を千載|竹帛《ちくはく》に垂れんと期するものから、官軍必死の攻撃も、寸地をだに占領することが出来ない。
 谷村計介は人のとどむるを聴かずに、戦線へと進んで、戦の有様を見ると、今や味方は敵の拔刀隊に追い捲られて、嶮しき阪道を雪崩を打って逃げ戻る。見る見るうちに、前後左右へ斬り倒さるる腑甲斐なさ。
 指揮官は刀を揮って怒髪逆まに「引くなッ、帰せ戻せ」と新手を率いて攻め登ると、塁上より俯瞰して釣瓶懸けに撃ち出す敵の弾丸は、飆々《ひようひよう》とすさまじき音を発して雨のごとくに降り注ぐ。檜や花柏《さわら》の木立は弾丸《たま》に砕けて、大枝小枝が、バラバラと飛んで来る。さながら暴風の一時に怒りて、百雷この時に震うがごとき有様である。
 かくと見て、歯を咬み腕を扼した計介は、我を忘れて馳せ出でた。言い甲斐なき味方の有様かな、わが熊本鎮台の猛兵なら、かほどの不覚はあるまいと思うと、計介の全身は無念の怒に燃えて、悪鬼の火焔《ほのお》を吹くがごとく、前後を忘れて弾丸雨飛の中へ飛び込み、倒れし兵士の手より銃を奪うて、弾薬を腰につけるや否や、
「俺に続けッ」と叫びざま、傷を負うたる猛獣のごとく、面も振らず敵塁へと突貫した。
「谷村殺すな、続け続けッ」と、指揮官は躍り上って絶叫した。味方はこれに励まされて、再びドッと盛返し、戦友の屍を踏越え踏越え、喚《おめ》き叫んで突進するや、敵の射撃はますます猛烈になり、さながら豆をまくがごとく、弾丸は冥鬼の叫ぶがごとき呪いの声を発して飛んで来る。真先に進んだ指揮官は、大喝一声「進めッ」と叫んだまま、真額《まびたい》を打たれて、仰向けに反り返った。
 進むも死、退ぞくも死、官軍は猛虎の狂えるがごとく、死物狂いに胸墻に取りついた。
「飛込めッ、飛込めッ」
 何者の叫び声とも知らず、官軍はこれに励まされ、胸墻に乗り入らんとして、我先にと焦り立てる。賊は塁上より銃を逆まにして、群がる官軍を打ち払うのである。
「飛込めッ、飛込めッ」
 天の声とも聞ゆる大音声は、再び官軍の頭上に轟いた。
 火出つるばかりの大激戦の中にも、官軍の勇士は驚いて振仰いだ。見ると夜叉王の怒りたるがごとき谷村計介は、全身に鮮血を浴びながら、胸墻の上に突っ立って、銃を振回しつつ絶叫している。
「谷村だぞ。それ続けッ」
 味方の勇士は、戦友の死骸を踏台にして、後れはせじと胸墻に取り付く途端、賊の銃手が狙撃したる一弾は、計介の胸板を貫通した。
「ばか!」
 天にも響けと罵しる最後の一声とともに、無残、計介は胸墻の上にクルクルと回ったが、真逆様に敵塁の中へと落ち込んだ。
「谷村が殺られたッ」
 官軍はたのみ切ったる勇士を討たれて、続いて飛入る者はない、見る見る敵に撃しらまされて、再び坂下へと退却した。
 見上ぐる坂道は、伏屍累々《ふくしるいるい》として、血は滝のごとくに流れ、硝煙低く地をはう田原坂の岨道《そばみち》に、人の世の戦を外《よそ》の菫《すみれ》の花は、踏みにじられながらも、夢のようにほのぼのと咲き出で、蝶の羽翅《はがい》は脆《もろ》く折れつつも、花にすがって動きもやらず眠っている。






最終更新日  2005年09月24日 00時21分53秒
コメント(0) | コメントを書く
[リンクのない新着テキスト] カテゴリの最新記事

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

楽天プロフィール

設定されていません

お気に入りブログ

「シン・ゴジラ」 … New! hongmingさん

コメント新着

 愛書家・網迫@ ありがとうございます ゼファー生さん、ありがとうございます。 …
 ゼファー生@ お大事に! いつもお世話になります。お体、お心の調…
 愛書家・網迫@ わざわざどうも 誤認識だらけで済みませんでした。お礼が…
 nakagawa_rio@ チラシの裏にでも書いてろ日記の管理人です。 こんにちは。私も恥ずかしいです。阻じり…

カレンダー


Copyright (c) 1997-2017 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.