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カテゴリ:明治世相百話(リンクのない新着テキスト)
田口米作と永田錦心
不思議な縁で生れた大家 清親についで漫画の先駆者「四睡の巻」「長短の巻」など奇想天外の傑作を遺した田口米作画伯は、もっぱら古画によって学んだ人で、その画風は真に瓢逸の点で天下一品、しかし漫画以外は気に向かぬと描かないので、その作品は至って少ない。 明治三十五年の一月十日、師の清親方へ年始に行って、午後三時ごろ帰宅すると突然脳貧血を起し心臓病を併発して、七日間ぶっ通しに昏睡したまま、ついに永眠。 芝桜川町の家へ通夜に駆けつけた清親翁、落胆しつつ語る、「もう二十五、六年前だ、私が愛宕山へ写生に毎日出かけたが、いつも傍へ立って熱心に見ている子供があった。いかにも熱心なので絵を教えてあげようかというと、ぜひ願いますというので一緒に家へ行って両親に話し、こっちからとうとう弟子にしたのがこの米作君で、その時の様子が今でも思いだされる」と感慨無量。 和漢の古画及び浮世絵にも精通し、ことに色彩の研究にはもっとも熱心で、その遺著『色彩新論』は当時前人未発の卓見として金子子や末松男から大いに推賞された。一時は茶道にも凝って、ちょっと画筆を持っても妙な手付きをするので、なんの真似ですというと「これは茶杓の扱い」、要するに趣味の広い人であった。 桜川町の塾へは七、八名の門人が通って来たが、内弟子の永田武洲という少年が玄関にいた。当時十八、九歳、快活で無邪気で画もなかなか巧者であった。 あるとき師の米作氏いわく「永田は画よりも琵琶が上手で全く天才ですよ、確かに物になります、その内一つやらせてお聞かせ申そう」と、これが後に薩摩琵琶で一流をだした永田錦心とは当時夢にも思わなかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年10月08日 10時44分40秒
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