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カテゴリ:明治世相百話(リンクのない新着テキスト)
その昔奥山名物五人男
変人、奇人、通人ぞろい 浅草公園の奥山時代、五人男といわれた変人が五名、観音堂の西、今の四区五区に集まって当時は有名であったが、今となるとだいぶ忘れられた。 本名は知らぬが墨画の竹に妙を得て墨竹仙人でとおった老翁、当時(明治十五、六年頃)百四歳という途方もない高齢にもかかわらず、すこぶる頑健、見上げるばかりの大男でツルツルの薬缶頭、朴歯の高下駄、杖も突かずに往来し、今日は四谷まで行って来たとすましたもの、もちろんテクだから驚く。家は平家建ての格子造り、入口に自画の墨竹の額がかけてあって目印になった。 つぎは有名の淡島椿岳、本姓は小林、淡島さまの堂守であったが、画は椿年に学び、後には大津絵風の飄逸な筆致で、花卉《かき》も面白いが、鬼の念仏や閻魔《えんま》さまが得意、お堂のわきへ台をすえ、寒冷紗や漉《すき》返しの紙に描いた自画の上へ、小石を置いて飛ばぬように並べて売っていた。その画が今日では椿岳党がたくさん出来て大したもの、その子息の寒月氏は西鶴丈学の鼓吹者となった。 伊井蓉峰の父北庭菟玖波も五人男の花形で、写真の率先者、ヘベライともいった。今の花屋敷の東隣り、家の周囲には西洋の草花を植えて珍しがられた。生人形の亀八翁が大の懇意で、ある時ひとつ撮ってくれというと、写真は商売だからと剣もホロロの挨拶、それではよろしいとそのまま出て一丁ばかり行くと後からオーイオーイと呼び止め、今のは表向きだよとわざわざ連れ帰って撮影した。あれはよっぽど変りものでしたと亀八がよく話した。 その隣りの下岡蓮杖、これも九十二歳の長寿を保ったが、写真、洋画等文化の先駆者で、当時桐の大箱へ眼鏡(レンズ)をはめ込み西洋風景のクローム画を入れて「万国のぞき眼鏡」と称し、家の前へ七、八個並べて観せていた。江戸ヅ子で、足袋屋の小僧だったが、その頃は足袋を足に合わせて誂《あつら》えるものが多く、小僧の蓮城は顧客の足を計るのを憤慨して十三歳の時出奔、狩野菫川の門人になったという、子供の頃からの変り物。 最後はシナ人で羅雪谷という画家、指頭画をよくし、小指の爪を長くして墨を含ませ山水花鳥を画くが、まず俗画であった。愛らしい小犬がいて主人が月琴を弾くと必ず前へ坐って唄うつもりでうなっていた。犬までが変りもの、以上五人男の時代は奥山も藪沢山の幽境で、今の公園とは全然空気が違う。 (終) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年10月08日 21時35分44秒
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