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2005年10月14日
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 暫らくして、紀が再び広縁に現われた時は、竪矢の字の背後に、医師の中田《なかだ》玄竹を伴っている。
「玄竹、見えたか」
 さもさも待ち兼ねたという風にして、但馬守は座蒲団の上から膝を乗り出した。
「見えたから、ここにおりまする」
 玄竹は莞爾《につこり》ともしないで言った。
「また始めたな、玄竹。その洒落《しやれ》は古いそ」と、但馬守は微笑んだ。
「古いも新しいも、愚老は洒落なんぞを申すことは嫌いでございます。江戸っ子のよくやります、洒落とかいう言葉の戯《ざ》れ遊びは、厭でございます。総じて江戸は人問の調子が軽うて、言葉も下にござります。下品な言葉の上へ、無暗に「お」の字を附けまして、上品に見せようと企《たくら》んでおります。味噌汁《みそしる》のことをおみおつけ《、、、、、》、風呂のことをおぶう《、、、》、香のもののことを|おしんこ《、、、、》……」
「もういい、玄竹。そちの江戸攻撃は聞き飽きた。のう紀」と、但馬守は玄竹のぶッきら棒に言いたいことを言うのが、好きでたまらないのであった。江戸から新しくこの町奉行として来任してから丁度五ヶ月、見るもの、聞くもの、癪《しやく》に障ることだらけの中に、町医中田玄竹は水道の水で産湯を使わない人間として、珍しい上出来だと思って感心している。
「玄竹さまは、わたくしがお火のことをおし《、、》と言って、ひ《、》をし《、》と訛《なま》るのをお笑いになりますが、御目分は、し《、》をひ《、》と間ちがえて、失礼をひつれい《、、、、》、質屋をひち屋《、、、》と仰っしゃいます。ほほほほほほ」と、紀は殿様の前をも忘れて、心地よげに笑った。
「紀どのは、質屋のことを御存じかな」と、玄竹の機智は、敵の武器で敵を刺すように、紀の言葉を捉えて、紀の顔の色を赧《あか》くさせた。
「料理番に申しつけて、玄竹に馳走をして取らせい。余もともに一献酌もう」と、但馬守は、紀を立ち去らせた。
「殿様、度々のお人でございまして、恐れ入りました。三日の間城内へ詰切りでございまして、漸く帰宅いたしますと町方の病家から、見舞の催促が矢を射るようで、そこをどうにか切り抜けてまいりました」
「それは大儀だッた。どうだな能登守《のとのかみ》殿の御病気は」と、但馬守は容《かたち》を正して問うた。
「御城代様の御容態は、先ずお変りがないというところでございましょうな。癆症《ろうしよう》というものは癒《なお》りにくいもので」と、玄竹は眉を顰《ひそ》めた。
「前御城代|山城守《やましろのかみ》殿以来、大塩《おおしお》の祟《たた》りで、当城には碌《ろく》なことがないな」
「猫間川《ねこまカわ》の岸に柳桜を植えたくらいでは、大塩の亡魂は浮ばれますまい。しかし殿様が御勤務役になりましてから、市中の風儀は、見ちがえるほど改まりました。玄竹、弁ちゃらは大嫌いでござりますので、正直なところ、殿様ほどのお奉行様は昔からございません」と言って、玄竹は剃《そ》り立ての頭を一つ、つるりと撫でた。
「誉められても嬉しくはないそ。玄竹、それより何か面白い話でもせんか」と、但馬守の顔には、どうも冴《著ご》え切らぬ色があった。
「殿様のお気に召すような話の種は尠《すくの》うござりましてな。また一つ多田院《ただのいん》参詣の話でもいたしましょうか」
「うん、あの話か。あれは幾度聴いても面白いな」と、言いかけた但馬守は、不図《ふと》玄竹の剃り立の頭、剃刀創《カみそりきず》が二ヶ所ばかりあるのを発見して、「玄竹、だいぶ頭をやられたな。どうした」
と、首を伸ばして、覗《のぞ》くようにした。
「いやア」と、玄竹、頭を押さえて、「御城内で、御近習に切られました。御城内へ詰め切りまつと、これが一つの災難で……」と、医者仲間では厳格と偏屈とで聞えた玄竹も、矢張り医者全体の空気に浸って、少しは軽佻《けいちよう》な色が附いていた。
「能登守殿の近習が、そちの頭を切るか」と、但馬守は不審そうにして問うた。
「左様でござります。愚老の頭を草紙にして、御城代様のお月代《さしかやざじ》をする稽古をなさいますので、なるたけ頭を動かしてくれということでござりまして。どうも危ないので、思うように動かせませなんだが、それでもだいぶ創《きず》が附きましたようで、鏡は見ませんが、血が浸染《にじ》んで居りますか」と、玄竹は無遠慮に、円い頭を但馬守の前に突き出して見せた。畳三枚ほど距《へだ》たってはいるが、但馬守の鋭い眼は、玄竹の頭の剃刀創をすっかり数えて、
「創は大小三ヶ所だ。……大名というものは、子供のようなものだのう。月代を剃らせるのに頭を動かして仕様がないとは聞いていたが、医者の坊主の頭を草紙にして、近習が剃刀の稽古をするとは面白い。大名の頭に創を附けては、生命《いのち》がないかも知れないからな」と言いながら、但馬守は「生命がない」の一語を口にするとともに、少し顔の色を変えた。





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最終更新日  2005年10月16日 18時55分57秒
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