菊池寛「無憂華夫人」「序曲」
話は、維新の変乱当時から始まる。 北越××の城主松平|美濃守《みののかみ》康忠は、隣国の△△の城主松平|采女正康之《うねめのしようやすゆき》とは、従兄弟《いとこ》同志であった。当主が従兄弟同志であるばかりでなく、この二藩は、三代将軍の時代に、お家騒動があったため、五十万石の家が、××の十二万石と△△の二十五万石とに分封《ぶんぽう》されたので、昔からの一家一門である。 その上、先々代に子がなかったため、△△の松平家から、××の松平家へ養子に来たのが、康忠の父の康成である。 だから、両家の関係は、濃い上にも更に濃くなっていた。 ところが、維新の変乱は、この両家を犬猿の間柄にしてしまった。それは、××の松平家が、家老の長沢|頼母《たのも》が勤王の大義を|詔《とな》えて、つとに一藩の輿論《よろん》を指導したため、徳川の親藩でありながら、薩長と気脈を通じて、北越における錦旗《きんき》の先鋒を承ったためである。 ところが、△△の松平家は、家老の河井主膳を初め、宗家徳川のために、一藩を焼土とするとも、最後の御奉公をしなければならないと云う藩論で、手痛く錦旗に抵抗し、一度官軍に取られた△△城を、再び奪還する等の激戦を演じた。 従って、官軍の先頭であった××松平家の兵と、△△松平家の兵とは、血と剣との間に、しばしば相見《あいまみ》えた。 △△松平家の藩士が、官軍を恨むよりも、親藩でありながら宗家徳川に背き、一門の誼《よし》みを蹂躙《じゆうりん》して、我が城下に攻め入って来た××松平家の主従を恨んだのは、当然であった。「薩長の犬となった××の奴め! 今に思い知らしてやるから。」 △△松平家の上下は、歯を噛んで叫んだ。 しかし、大勢|如何《いかん》ともなしがたく、家老の河井主膳は、創《きず》を包んで奮戦した甲斐もなく、散々に打ち破られて、越後へ退却中、担架の上で創重くして倒れ、主君の康之は、会津へ逃れたが、会津城主松平|容保《かたもり》と前後して、官軍に降を乞うた。 そして、△△藩は△△二十五万石から、奥州の僻地《へきち》一万五千石に移封《いほう》された。戦敗の惨禍と生活苦とが、前後して△△藩士達を襲うた。彼らは、苦しみながら常に、××松平家を恨んでいた。父や兄を戦場で失った者達は、××松平家を父兄の敵《かたき》のように考えた。 明治政府を恨むよりも、手近の××松平家の方が、彼らには囗惜《くや》しかったのである。 明治政府の恩恵が、彼らいわゆる賊軍の上にも恵まれて、藩主は特赦となり、華族制度|布《し》かれるや、康之もまた伯爵に叙せられた。 しかし、錦旗に抗したため、侯爵に列せらるべき家格に拘《かかわ》らず伯爵に止《とど》められた。それに反して、××松平家は、十二万石で伯爵に叙せらるるべきが普通であるに拘らず、勤王の功績によって、特に侯爵を授けられた。 元来、△△松平家は兄の家であり、××松平家は弟の家である。それにも拘らず、今では家格転倒した。維新以来、恨みを含んでいる△△松平家の上下が、××松平家に対して釈然たるべきはずはなかった。 △△松平家は、維新以来、××松平家と義絶してしまった。明治十二年五月、東京で△△松平家の旧藩士が、××松平家の康忠侯に対して、暴行を働かんとして捕えられたことがある。 だが、康忠侯も康之伯も、明治二十七、八年頃前後して他界した。 ××松平家を継いだ康為侯は、華族には珍しい|闊達《かつたつ》な才人であった。△△松平家を継いだ康正伯も、温厚な青年であった。 だが、両家の藩士達は、明治も三十年代になり、維新当時の恩怨《おんえん》はようやく薄れて行くにも拘らず、なお|睨《にら》み合いをつづけていた。××市が、自由党に味方すれば△△市は、猛烈な政府党だった。 両市で、師団の設置を競争した時は、血の雨を降らして戦った。片一方が物産共進会をやれば、片一方も負けずにやった。 だが、両方の旧藩主達は、藩士達の争いをだんだん苦々しく思っていた。 康為侯は、定年に達して侯爵議員となった。康正伯の方は、選ばれて、貴族院議員になった。二人は、華族会館などで会うと、目礼した。しかし、藩士達の手前を憚《はばか》って、親しい囗はきかなかった。 議会開会中の時だった。師団設置地の請願争いで、二人とも旧藩の有志達に頼まれて、大臣室へ時の陸相桂太郎を訪ねて行ったところ、大臣室前の廊下で、バッタリ顔を見合わした。「君も、例の問題の陳情か。」 と、康為侯が笑った。「うん、君もか。」 康正伯も笑った。「じゃ、君の方から先へ行け。」 康為侯が云った。「いや、僕は後でもいい、どうぞ君から。」 康正伯が譲った。「二人で、ジャンケンをしようか。」「ウン。」 康為侯が(紙)で、康正伯は(石)だった。「失礼。」 そう云って、康為侯が、先へはいった。 二人とも、血縁であるだけに、どこか似通った高貴な風貌《ふうぼう》をしていた。康正伯は、当時三十一で、康為侯は三十三であった。 二人は、お互に相手をなつかしく思った。一夕、飯でも一緒に喰いたいと思った。そして出来るならば、維新当時からの、両藩の宿怨を晴したいと思った。それは、××松平家の康為侯の方が、特にそう願っていた。何と云っても、自分の方が恨まれているからである。 康正伯も、相手の気持が分らないでもなかった。しかし、康正伯家の家令は、官軍のために傷つき倒れた河井主膳の子の鉄太郎が勤めていた。これが、父親以上の頑固者である。 二人の青年貴族は、その後も議会や、華族会館で時々顔を合わした。しかし、お互に目礼をし合うだけで、それ以上深入りはしなかった。もし深入りして、当時、なお情誼《じようぎ》の深かった旧藩子弟の感情を乱しては、ならないと思ったからであった。 康為侯に一人の妹があった。名を絢子《あやこ》と云った。 その頃の華族女学校で、松平絢子姫と云えば、咲き誇る名花中の名花として、学校中での評判令嬢だった。細面《ほそおもて》の品位のあくまで高い顔で、美しい鼻には父祖伝来の高貴な血脈が伺われ、ほっそりとした長身の均斉がよくとれており、淑《しとや》かで落着いた物腰は、昔の物語に出て来る姫君をそのまま、今に見る感じを懐《いだ》かせた。 ある畏《かしこ》き方が、学校へおいでになったとき、「あれが松平の娘か。」と、云うお言葉があったという噂《うわさ》まで伝わっていた。 学校を出たのが、十九歳であった。 それが、本篇の女主人公《ヒロイン》である。