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明治世相百話(リンクのない新着テキスト)

2006年02月05日
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ニツク・カアタア
 飛田《とびた》遊廓の漏洩問題については主務省と府の当事者と互《たがひ》に責任の塗《なす》りつこをして、自分ばかりが良い児《こ》にならうとしてゐる。
 ニツク・カアタアといへば、活動写真好きの茶目連は先刻御存じの探偵物の主人公だが、以前巴里にこの名を名乗つて大仕事をする宝石商荒しがあつた。巴里の宝石商といふ宝石商は、ニツク・カアタアの名前を聞くと、怖毛《おぢけ》を顫《ふる》つて縮み上つたものだつた。時の警視総監は刑事中での腕利《うできゝ》として知られてゐたガストン・ワルゼエといふ男にこの宝石荒しの探偵を命令《いひつ》けた。
 ワルゼエはよく淫売狩をも行《や》つた男で、何でもその当時巴里で名うての白首《しろくび》を情婦にして、内職には盗賊《どろぼう》を稼いでゐた。その頃流行の探偵小説から思ひついて、ニツク・カアタアといふ名で宝石屋荒しを行《や》つてゐたのが、実はそのワルゼエ自身なので、上官の捜索命令
をうけた時は流石《さすが》に苦笑《にがわらひ》をしない訳に往《ゆ》かなかつた。所が間《ま》が悪く徒党《なかま》の一人が捉《つか》まつたので、到頭|露《ば》れて逮捕せられてしまつた。
 自分は知事や警部長などいふ、役人を親戚《みうち》に有《も》たないやうに、神様をも伯父さんに持合はせてゐないから、はつきり見通した事は言はれないが、世の中には随分巴里の宝石屋荒しのやうな事は少くないと思ふ。呉々《くれ/゛\》も言つておくが、自分は知事や警部長や神様やを伯父さんには持つて居ない。自分の伯父さん達は何も知らない代りに、何も喋舌《しやべ》らない人ばかりさ。






最終更新日  2006年03月03日 10時26分33秒
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栖鳳の懐中時計
 芸術に技巧家があるやうに生活にもまた技巧家がある。尾崎法相の生活は西園寺陶庵侯のそれと比べて技巧がいかにも態《わざ》とらしい。中村|鴈治郎《がんぢらう》の生活は片岡|仁左衛門《にざゑもん》や市村|羽左衛門《うざえもん》のそれと並べてみると、技巧が著しく目に立つ。画家《ゑかき》では竹内栖鳳の生活に技巧が勝つてゐるのは誰しも知つてゐる所だ。
 栖鳳と鷹治郎とがある所で落合つた時の挨拶を側《そば》にゐて聞いた者がある。その者の談話《はなし》によると、二人は柔かい牡丹刷毛《ぽたんばけ》で腋《わき》の下を擽《くす》ぐるやうなお上手ばかり言ひ合つて、一向|談話《はなし》に真実が籠《こも》つてゐないので、一|言《こと》でもいゝから真実《 んとう》の事を言はし度《た》いと思つて、
 「唯今は何時頃でせう。」
と訊《き》いてみた。
 すると、應治郎と栖鳳とはめいく角帯の間《なか》から、時計を取り出してみた。栖鳳氏は言つた。
 「私のは三時半です。一寸狂つてやしないかと思ひますが。」
 鳫治郎は一寸時計を振つてみた。
 「私《わて》のも三時半だす。さつきにから止つてたやうに思ひまんがな。」
 二人は忠実な自分の時計をすらお上手なしには報告出来ないのだ。それを見て取つた第三者は自分の信じてゐる基督の名によつて、二人の懐中時計を持主相応のお上手ものにして欲しいと祈つたさうだ。
 自分の霊魂《たましひ》と自分の女房《かない》を信じない人も、懐中時計だけは信ずる。その懐中時計をすらお上手なしに報告出来ない人は、世にも不幸《ふしあはせ》な技巧家である。






最終更新日  2006年03月03日 10時26分10秒
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食物の味
 詩人の蒲原有明《かんぱらありあけ》氏は、どんな好《よ》い景色を見ても、そこで何か喰《た》べねば印象が薄いといつて、異《かは》つた土地へ往《ゆ》く度《たんび》に、土地《ところ》の名物をぱくづきながら景色を見る事にしてゐる。
 「僕は景色を見るぱかりでは満足出来ない、その上に気色を喰べるんでなくつちや……」
とは氏が例《いつ》もよく言ふ事だ。
 野口|米次郎《よねじらう》氏は「墓《かへる》を食ベるのは、その唄をも食べるといふ事だ。七面烏を頬張るのは、その夢をも頬張るといふ事だ。」といつて、よく唄やら夢やらを頬張つてゐる。
 つまりこの人達は物を食べる時は、想像をも一緒に嚥《の》み下《くだ》してゐるのだ。
 西川一草亭氏はこれとは反対《あべこべ》に、物を食べる時には、その値段から切り離して持前の味のみを味はひ度《た》いと言つてゐる。甘藷《さつまいも》は廉《やす》いからとか、七面烏の肉は高価《たか》いからとかいふ、その値段の観念に煩《わづら》はされないで、味自身を味はひ度いといふのだ。
 女房と朝飯《あさめし》とー双方《どちら》が人世《じんせい》に関係する所が大きいだらうと疑つた者がある。
 「なに朝飯さへ甘《うま》く食べさせて呉れるなら、女房のする事は大抵見遁《たいていみのが》してやるさ。」
と言つたものがある。






最終更新日  2006年03月03日 10時25分25秒
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涙と汗の音曲《おんぎよく》
 洋画家の満谷《みつたに》国四郎氏はこの頃《ごろ》謡曲に夢中になつて、画室《アトリエ》で裸体画の素描《デツサン》を行《や》る時にも、「今はさながら天人《てんにん》も羽根《はね》なき鳥の如くにて……」と低声《こごゑ》で謡《うた》ひ出すのが癖になつてゐる。
 先日《こなひだ》備中酒津《びつちゆうさかづ》に同じ画家《ゑかき》仲間の児島《こじま》虎次郎氏を訪ねて、二三日そこに逗留《とうりう》してゐたが、満谷氏が何《ど》うかすると押売《おしうり》に謡ひ出さうとするのを知つてゐる児島氏は、奥の一|室《ま》に子供が寝かしてあるといふのを口実に巧《うま》く難を遁《のが》れたといふ事だ。
 以前京都で月に一度づつ琵琶法師の藤村|性禅《しやうぜん》氏を中心に平曲好《へいきよくず》きの人達の会合が催されてゐた事があつた。場所は寺町《てらまち》四条の浄教寺で、京都図書館長の湯浅半月氏を始め二三の弾手《ひきて》が集まつたが、聴衆《きゝて》はいつも十人そこ/\で、それも初めの一二段を聴くと、何時《いつ》の間にかこそ/\逃げ出して、肝腎の藤村|検校《けんげう》が出る頃には、聴衆《きゝて》は一人も居ないといふやうな事が少くなかつた。
 これではならぬと、仲間の歌詠《うたよみ》や画家《ゑかき》に塗《なす》つて貰つた短冊《たんざく》を五六枚と、茶菓子一皿を景品のつもりで、最後まで聴いて呉れた人に送ることにしたが、短冊と茶菓子の人並外れて好きな京都人も、矢張り最後まで居残る人は一人も無かつたので、折角の名案も何の役にも立たなかつた事がある。
 人間に馬鹿と悧巧と二|種《いろ》あるやうに、音曲にも二つの種類がある。一つは涙を流す音曲。今一つは汗を流す音曲。






最終更新日  2006年03月03日 10時24分52秒
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2005年10月08日
   その昔奥山名物五人男
      変人、奇人、通人ぞろい
 浅草公園の奥山時代、五人男といわれた変人が五名、観音堂の西、今の四区五区に集まって当時は有名であったが、今となるとだいぶ忘れられた。
 本名は知らぬが墨画の竹に妙を得て墨竹仙人でとおった老翁、当時(明治十五、六年頃)百四歳という途方もない高齢にもかかわらず、すこぶる頑健、見上げるばかりの大男でツルツルの薬缶頭、朴歯の高下駄、杖も突かずに往来し、今日は四谷まで行って来たとすましたもの、もちろんテクだから驚く。家は平家建ての格子造り、入口に自画の墨竹の額がかけてあって目印になった。
 つぎは有名の淡島椿岳、本姓は小林、淡島さまの堂守であったが、画は椿年に学び、後には大津絵風の飄逸な筆致で、花卉《かき》も面白いが、鬼の念仏や閻魔《えんま》さまが得意、お堂のわきへ台をすえ、寒冷紗や漉《すき》返しの紙に描いた自画の上へ、小石を置いて飛ばぬように並べて売っていた。その画が今日では椿岳党がたくさん出来て大したもの、その子息の寒月氏は西鶴丈学の鼓吹者となった。

 伊井蓉峰の父北庭菟玖波も五人男の花形で、写真の率先者、ヘベライともいった。今の花屋敷の東隣り、家の周囲には西洋の草花を植えて珍しがられた。生人形の亀八翁が大の懇意で、ある時ひとつ撮ってくれというと、写真は商売だからと剣もホロロの挨拶、それではよろしいとそのまま出て一丁ばかり行くと後からオーイオーイと呼び止め、今のは表向きだよとわざわざ連れ帰って撮影した。あれはよっぽど変りものでしたと亀八がよく話した。
 その隣りの下岡蓮杖、これも九十二歳の長寿を保ったが、写真、洋画等文化の先駆者で、当時桐の大箱へ眼鏡(レンズ)をはめ込み西洋風景のクローム画を入れて「万国のぞき眼鏡」と称し、家の前へ七、八個並べて観せていた。江戸ヅ子で、足袋屋の小僧だったが、その頃は足袋を足に合わせて誂《あつら》えるものが多く、小僧の蓮城は顧客の足を計るのを憤慨して十三歳の時出奔、狩野菫川の門人になったという、子供の頃からの変り物。
 最後はシナ人で羅雪谷という画家、指頭画をよくし、小指の爪を長くして墨を含ませ山水花鳥を画くが、まず俗画であった。愛らしい小犬がいて主人が月琴を弾くと必ず前へ坐って唄うつもりでうなっていた。犬までが変りもの、以上五人男の時代は奥山も藪沢山の幽境で、今の公園とは全然空気が違う。


(終)






最終更新日  2005年10月08日 21時35分44秒
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   風雅界の名物寒山
      楽書だらけの四枚の障子
 下谷忍川のほとり、上野町にいた山田寒山翁、つとにシナへ渡って当時無住の「月落烏啼」の蘇州寒山寺の住職となり、帰来寒山和尚で通した奇人。書画|篆刻《てんこく》そのほか楽焼陶器に妙を得て風流に浮身をやつす。そのくせ、才気もあっていろいろ新案のある中に、例の寒山寺箱と称する唐本型の巻紙封筒入れなど、ひとかどの商品価値。
 向島|三囲《みめぐり》の土手下に楽焼の窯《かまど》を開いたのが明治三十年頃、丈人墨客の出入り絶えず、丈士では紅葉、思案、麦人なども遊びに来て、縁側の障子四枚はそれらの連中の楽書きでいっぱい、これが風流と和尚大喜び、俳句あり都々逸あり、中に紅葉の俳句は自慢の一つ、座敷の棚には小蘋、米華、探令、米作諸画伯のかき散らした花瓶や茶碗、道楽気分の盗れたもので面白いが、和尚なかなか手離さない。
 呉冒碩についたという篆刻は立派な腕前、伊藤公に招かれ大磯の滄浪閣へ出かけて公の水晶印五|顆《か》を彫った。その印譜をわざわぎ持って来てくれたが、素人目にも荘重典雅、銅印石印も巧いが陶印はことに得意であった。画は墨竹に妙を得てすこぶる達筆、寒山寺釣鐘勧進のため墨竹十万講を催したが、一々絹を取り代えつつ描いていては間に合わぬ。描いた絹は自動的にソバからまくれて行くような工夫はあるまいかと本気に考えたほど全く早業。
 十万講は一万講にもならなかったが、どう工面してか釣鐘は鋳金家小林誠義氏に嘱して見事に出来、賑やかに突き初《ぞ》めを行って和尚大得意、晩年もすこぶる元気で、茶の絹紬《けんちゆう》の被布に椀形帽子、半白の頤《あご》ひげをなびかせて飄然と来たり、なにかしら新案を持ち込んで、宜しく頼むというかと思えばサッサと帰る。仙人の如く俗物の如く当時雅界の名物男。






最終更新日  2005年10月08日 14時17分49秒
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2005年10月07日
   田口米作と永田錦心
      不思議な縁で生れた大家
 清親についで漫画の先駆者「四睡の巻」「長短の巻」など奇想天外の傑作を遺した田口米作画伯は、もっぱら古画によって学んだ人で、その画風は真に瓢逸の点で天下一品、しかし漫画以外は気に向かぬと描かないので、その作品は至って少ない。
 明治三十五年の一月十日、師の清親方へ年始に行って、午後三時ごろ帰宅すると突然脳貧血を起し心臓病を併発して、七日間ぶっ通しに昏睡したまま、ついに永眠。
 芝桜川町の家へ通夜に駆けつけた清親翁、落胆しつつ語る、「もう二十五、六年前だ、私が愛宕山へ写生に毎日出かけたが、いつも傍へ立って熱心に見ている子供があった。いかにも熱心なので絵を教えてあげようかというと、ぜひ願いますというので一緒に家へ行って両親に話し、こっちからとうとう弟子にしたのがこの米作君で、その時の様子が今でも思いだされる」と感慨無量。
 和漢の古画及び浮世絵にも精通し、ことに色彩の研究にはもっとも熱心で、その遺著『色彩新論』は当時前人未発の卓見として金子子や末松男から大いに推賞された。一時は茶道にも凝って、ちょっと画筆を持っても妙な手付きをするので、なんの真似ですというと「これは茶杓の扱い」、要するに趣味の広い人であった。
 桜川町の塾へは七、八名の門人が通って来たが、内弟子の永田武洲という少年が玄関にいた。当時十八、九歳、快活で無邪気で画もなかなか巧者であった。
 あるとき師の米作氏いわく「永田は画よりも琵琶が上手で全く天才ですよ、確かに物になります、その内一つやらせてお聞かせ申そう」と、これが後に薩摩琵琶で一流をだした永田錦心とは当時夢にも思わなかった。






最終更新日  2005年10月08日 10時44分40秒
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   日本一の愛猫家物語
      子猫の嫁入り先が四十六軒?
 明治の文士で廓《くるわ》通の片山友彦君、五丁庵通里と称して通人肌の好人物であったが、見かけによらぬ奇行家、かつて東海道の名物の袋や商標を集めて貼込帳を作った。五十三次たいていそろったが、保土ヶ谷だけが、名物もなにもないのでわざわざ用もないに保土ヶ谷へ出かけ、一晩泊って宿屋の受取を持ち帰り「これでようやく大そろいだ」と涼しい顔。
 一家そろって大の猫好き、おばあさん猫を始め、娘猫、孫猫と母子三代がみな丈夫でお産をする。子猫はたいてい所望者がついて片づくが、それでも自宅には常に十何匹が鼻づらをそろえて玄関の次の間にずらり。見知らぬ客がうっかり入ると、大小一度に背中を丸くしてフーッと来る。さながら怪猫屋敷、有馬様でもこれほどではあるまいと気の弱い客はぞっとする。
 さすがの猫好きも少々気の毒になって、今度は二階に追い上げる。子猫でも好い気になって、天井の鼠公以上に荒れまわり、襖を破るやら掛物を引き裂くやら大変な騒ぎ、それでも主人公平気で玉よ駒よと、本当の猫撫で声、さすがは日本一の愛猫家と友人どももあきれ返った。見よ、茶の間の障子の腰板から五寸ばかり上の方が一直線に泥の痕、聞けば親猫が外からお帰りの節、開けてくれとたたくのだとは、いよいよもって無気味の至り。
 十数年のながの年月、同家で生れた子猫の数はおびただしく、随って嫁入り先も少なからず、おせっかいの友人が、嫁入り先を調べたら驚くなかれ四十六軒。一つそのもらい主を集めて大懇親会を開いたらどうだというと、一人が「惜しいことをした、そんなにあったら三味線屋へ売っても大したもの」に主人公苦い顔。






最終更新日  2005年10月08日 09時42分58秒
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2005年10月06日
   千歳村の蘆花先生
      洋行前の初見参
 丈壇の聖者といわれた蘆花《ろか》徳富健次郎氏、市外|千歳《ちとせ》村の邸に閉じ籠って、いっさい客を絶ち俗界と絶縁、京王電車の下高井戸で下車、畑道を約五丁ばかり、生垣を繞《めぐ》らした一軒の平家建て、それが先生のお宅で、ぐるぐる回っても門がない。裏木戸の柱に木札が下って「御用の方は女中へお申し聞け下さい」。
 面会不能で通った先生が、なんたる幸いそ、逢おうという御通知、さっそく参上して裏木戸を無事に通過、庭先から奥の八畳の客室へ罷《まか》り通った。なんら気取った装飾もなく、床には名を忘れたが勤王家らしい人の書幅、紫壇《したん》の机を中央に主客相対す、先生は古風なネルのシャツに荒い縞物の綿入れ、薩摩絣《さつまがすり》の羽織という木綿ずくめに当方の|べんべら《、、、、》、いささか面目ない。 艶のよい丸顔で、小肥りのがっちりした体格、一言一句真心の籠ったような話振り、にこにこと優しい目でじっと見られる。私は思わず敬虔《けいけん》の念に打たれてなんとなく胸がいっぱい、この時の印象は深く頭に残っている。用談後は一層うちとけて近々洋行の準備やら聖地巡遊についての話があってお暇、庭先まで送って出られ、一本の若松を指さして、「ちょっと見て下さい、この松はここへ来た当時ほんの小松を自分で植えたのがこんなに大きくなりました」と、多少感慨の体。
『不如帰』でも知らるるとおり、先生の著作を一冊出せば本屋は身上が建て直る。その上に店の格が上るので、なんとかしてと望んでも、それはまず不可能で、その許しを得たのは二、三に過ぎぬ。例の『みみずのたわごと』を出版した書肆の主人が二年余り日参してようやく願いが叶《かな》いましたとは、まんざら嘘でもないようだ。原稿を持って回るソコラの先生とは大違い。






最終更新日  2005年10月08日 08時10分21秒
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   「東京にて有人様」
      採菊翁へ宛てた珍郵便
 幕末以来魯丈とともに中本作家と知られた山々亭有人の条野採菊翁、明治初期の小説家であり、『やまと新聞』社長であって、かつ劇通の大先達、そうとう羽振りを利かしたものだ。それが今では鏑木清方画伯の厳父と一々断らねば通ぜぬほど時代は遷《うつ》る。
 背のあまり高くない丸顔の肥った老人、洗煉された江戸式の大通五世川柳の門下で柳風はお手のもの、三題噺流行のころ粋狂連の頭取で、当時の評判記にも大上上吉の位付、常に魯文、黙阿弥、芳幾等と一つ穴で、彼の黙阿弥の傑作「魚屋の茶碗」に織り込まれた身投げの件は、文久三年正月、粋狂連の頭目高野氏に伴われ、魯丈、芳幾とともに両国の青柳から船での帰るさ、両国の橋下で出逢った実話を、翁が黙阿弥に語ったのだとは有名の話。
 川柳に「低くいひ高く笑ふは面白き」とある、翁の話振りがその通り、低声で何か言っては、あっはっは、と大きく笑う。小説など口の中でぶつぶつ言いながら丈句を練る。丈章は至って速いが字は筆の先で小さく書く、ちょっと読みにくかった。五代目菊五郎が贔屓《ひいき》で大の仲よし、そのほか劇壇や芸界で翁の息のかかった連中は尠なくない。円朝や九女八などは就中その筆頭で、常に翁を相談相手。
 明治の初年駅逓局ができて、初めての郵便制度に珍談のいろいろ、中にある時、「東京にて有人様」という宛名の郵便が翁の許へ届いた。翁は内心わが高名を誇っていたが、後で聞くと局員が持て余した末のお笑い草に、件の一通を長官の前島密氏に見せた。もとより昵懇《じつこん》の長官、これは我輩の知人条野だ、と翁の住所氏名を告げたので無事配達された次第、と判ってみれば別段高名の故でもなんでもないので大笑いさ、と有人様の直話。






最終更新日  2005年10月08日 01時20分15秒
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