高田保『ブラリひょうたん』「浅草歌劇」
本紙連載の「浅草の肌」は好評である。作者浜本浩君は昔から浅草にほれ込んでいたが、今もってだとみえる。小説でありながら作者がそのまま顔を出して、あのころはなどとぬけぬけ思い出を語ったりしている。昔の女におくる恋文みたいなところがあるが、そこがまた味で余計に面白い。 日曜のラジナを聴いていたら、歌劇「ボッカチオ」が流れて来た。あのころの浅草歌劇の代表的|演《だ》し物である。しかも歌い手が田谷力三で指揮が篠原正雄と来ればそっくり昔通りである。浜本君が聴いたらぽろぽろ涙を流したかもしれぬ。 あの中の「恋はやさし」とか「ベアトリねえちゃん」とか、今の歌謡曲同様に当時の大衆諸君の愛好歌だったものだ。考えると音楽に対する大衆のレベルというものはあのころの方がといいたくなる。あのころもしも「素人のど自慢」があったら曲目は今よりもずっと高尚なものになっていたろう。 とにかく「カルメン」全曲をそのまま初めて上演して興行になった時代なのである。大衆お構いなしの道楽企画を立てて大衆がついて来てくれたのだから愉快だった。あのころは「文化日本」だったといえぬまでも「文化浅草」だったとはいえるだろう。 この「カルメン」の時、ミハエラ役の安藤文子がホセ役の田谷力三に母親からの手紙を渡す。受取ってその封を切りながら母親をおもう心をホセが歌う。ある日その手紙を安藤文子が忘れた。 仕方なく大切そうに胸元から引出したのは彼女自身の、おもう人へ宛てた大切な恋文だった。宛名を書いて封をして、出すばかりにしてあったのを渡しながら、読んじゃ駄目よといったのだが、ホセとしてはそうはいかない。ぴりりと封を裂いた。 おもわずその中身を読んで、ついそれを釣りこまれ、危うく音楽を忘れてとんだトチリをするところだったと、ホセの田谷君が笑ったことがあった。 さて右の恋文、あて名は「戸山英二郎様」だったのである。おなじ仲間の一人だったが、そのころはすでにイタリヤへの旅に出ていた。だからいい工合に恋文も外国行きの横封筒だったので、これが日本式状袋だったら可笑《おか》しなものになっていたろう。 この戸山英二郎とは若き日の藤原義江のことである。毎日新聞社の初の演劇賞の特別賞が藤原歌劇団に贈られたが、その発表の日にラジオで昔通りの浅草歌劇が放送されたのだから折も折である。浜本君なら底抜けに飲んで踊り廻ったことだろう。 (二四・三・一)