2010/01/16(土)10:02
文壇の大物の小さな代表作
『田園の憂鬱』佐藤春夫(新潮文庫)
佐藤春夫は、近代文学史上の大物の一人ですよね。
私の持っている『筑摩現代日本文学大系』でもまるまる一冊があてがわれていますし、韻文・散文共に極めて高い評価がありそうです。
一時期、門弟が三千人いたと(まー、「白髪三千丈」ですなー)、そんな事の書いてある文章を読んだような気がします。
ちょうど、「文壇の大御所」と呼ばれ、芥川龍之介が「我が英雄(ヒーロー)」と呼び、大衆小説で大ヒットをとばして文芸春秋社を立ち上げた菊池寛と、時代的にも双璧ですかね。
ただ、そんな佐藤春夫の代表作はと考えると、はて。
例えば詩で、圧倒的に人口に膾炙された作品なら、詩集『殉情詩集』(近代文語定型詩集の絶品です)発行後、時をおかず発表された「秋刀魚の歌」ですかね。
「あはれ秋風よ情あらば伝へてよ」
という書き出しは、私でも知っているくらいですが、この一編が、佐藤の私生活のスキャンダルと重ね合わされ、広く巷間の子女の涙を絞らせました。
ただ、今読めばこの詩は、その内容において、あまりに筆者自身の私生活上の事件に寄り掛かりすぎているような気がしますね。
例の谷崎潤一郎との確執、「細君譲渡事件」ですね。
実は、私事ですが、遙かな昔大学を卒業するとき、文学部の卒業論文として取り上げたのが谷崎潤一郎でありまして、扱った作品が『蓼食ふ虫』という作品で、ちょうどこの「細君譲渡事件」あたりの出来事がモデルとなった小説であります。
それで、この事件については少しだけ知識があるんですが、それはともあれ、この「秋刀魚の歌」は、今となっては、やはりモデルとなった事件に少し寄り掛かりすぎているように思います。
さて一方、散文の方の代表作はと考えると、うーん、やはり、この『田園の憂鬱』となるのですかね。
私の持っている高校国語日本文学史の教科書にも『都会の憂鬱』とセットで、名前が書かれてあります。
しかしねー、この作品は、新潮文庫でわずか110ページほどですよ。
いえ別に、110ページでも、いいんですがね。芥川の『羅生門』なんか10ページほどですし。上述の谷崎の代表作『春琴抄』だって70ページほどですものね。
ただ、芥川にしても谷崎にしても今挙げた作品と同程度の作品が、他にもいっぱい(谷崎は中長編いくつか)あるんですよね。
ところが、佐藤春夫はこれ以外には、ちょっと挙がらない、んじゃなかろうか、と。
かつて、秦恒平の文芸評論でしたか(卒論作成時に読んだんだと記憶するんですが、ということは、遙か昔)、その中に、正確な言い回しはもう忘れてしまいましたが、佐藤春夫自身が晩年、自分は、自分の持っていた文学的才能を、「ばら銭」にして使い果たしてしまったと、功成り名を遂げた後に、述べたとありました。
(ちょっと補足しておきますと、この発言は、盟友・谷崎潤一郎との比較という文脈の中で述べられたそうです。うーん、谷崎との比較、ではねー。)
さてそんな佐藤春夫の代表作『田園の憂鬱』ですが、一読後の感想はたぶんこれしかないと思います。
第一に圧倒的な筆力、第二に完成された筆力、三四がなくて、五に筆力。
どこを取り上げても絶品なんですが、例えばこんな部分。田園の中を流れる「幅六尺ほどの渠」の描写であります。
或る時には、水はゆったりと流れ淀んだ。それは旅人が自分が来た方をふりかえって佇むのに似ていた。そんな時には土耳古玉のような夏の午前の空を、土耳古玉色に--或は側面から透して見た玻璃板の色に、映しているのであった。快活な蜻蛉は流れと微風とに逆行して、水の面とすれすれに身軽く滑走し、時時その尾を水にひたして卵を其処に産みつけていた。その蜻蛉は微風に乗って、しばらくの間は彼等と同じ方向へ彼等と同じほどの速さで一行を追うように従うていたが、何かの拍子についと空ざまに高く舞い上った。
ここはわりとさわやかな描写の箇所ですね。作品の前半部です。
私は、漱石の『草枕』を青年版にしたような瑞々しさを感じました。こんな箇所を読んでいると、門弟が三千人いたというのも、(感覚的には)肯けそうな気がしますね。
ところが、こういった描写が、真ん中あたりから倦怠感と共に、「憂鬱」=メランコリーへと繋がっていくんですね。
そして後半、前半部にあった瑞々しい描写は、感受性の過剰から徐々に濃厚へ、さらには狂気へと姿を変えていきます。
それはなかば必然的のようにも思えますが(そういった狂気の描き方は他の作家にも多く見られそうです)、私としては、重苦しくて、少し面白くなかったです。
結局「憂鬱」を描いた作品でありますから、これでいいのかなとも思いますが、110ページの小説からさらに広がる部分をと考えますと、作品の構造的なところにやや弱さを持つのかなと、(不遜ながら)思いました。
いえ、それが別に、「代表作」が他に挙がらない理由であると、言い切っているわけではありませんが。
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