2013/03/10(日)15:10
心の中の深い闇
『十九歳の地図』中上健次(河出文庫)
たぶんあの本にあったとは思いながら、探すのが面倒で、ごまかしごまかし書くのですが、三島由紀夫であります。(そういえば、こういう書き方も書き手の不誠実を表すと、これは『小説とは何か』に書いてありましたが。)
確か三島がこんな感じの事を書いていたと思います。
君が二十歳で無一文であるならばそれは素晴らしい。未来はすべて君のものであるからだ。……というニュアンスの文章です。
「二十歳」という年齢設定は、ひょっとすれば、ちょっと違っているかも知れません。
一方で三島は「十六歳では早すぎる。十八歳では遅すぎる」という警句もまた書いていると、この知識もなんだか出所がはっきりしませず、うーん、私って、本当に不誠実で、誠に申し訳ありません。
とにかく、二十歳前後で何も持っていない、という状況であります。
冒頭の小説集ですが、四編の短編小説が収録されています。
中上健次は、実はわたくし、ほとんど読んでいません。それは、あかんやろとは思いつつ、何と言いましょーかー、ちょっと読むべき時期を逸してしまったんですね。本当なら、大江健三郎にのめり込んでいた頃か、その後くらいに読めばよかったのにと思うのですが、今思い出しますと、ひょっとしたら私はそのあたりから、読書だけのいびつな演劇青年になっていったんじゃなかったかしら。もっともそんなことは、理由にも何にもならないですが。
ともあれ、私にとって中上健次の小説は二冊目であります。前回の読書は『枯木灘』で、これはもちろん評判通りの素晴らしい作品だとは思いましたが、それがこのー、まー、やっぱり重いですわな、この中上の世界は。それで、怯んだんでしょーなー。あ、ちょっと、これ、あとまわしに、しょ、と。
と言うわけで今回ほとんど初読に近い状況で読みましたが、やっぱり凄いですよねー。
ひしひしと作者の力量が、肌で感じられてくるようです。
その中の、総題にもなっている『十九歳の地図』でありますが、ここでやっと冒頭の話題に戻ってくるのですが、寮に住み込みの、何も持っていない、十九歳の新聞奨学生の予備校生の話であります。
主人公は、新聞配達担当区域の家にいたずら電話を掛け人を不愉快にしたり、ターミナル駅に脅迫電話を掛けて、人々が混乱するのを想像したりします。明確な犯罪行為であります。
ただ、小説という存在は、いつの時代も犯罪と併走する側面を持ちます。ドストエフスキーの『罪と罰』を例示するまでもなく(そういえば冒頭にあげた三島由紀夫も、たくさんの犯罪小説を書きました)、犯罪行為の中には、人間存在、人間精神が持つ「暗部」を考える鍵となる、きわめて大切な要素が数多く含まれるからです。
事実、様々な犯罪は小説やドキュメンタリーとなり、表現のテーマになっています。
そこに描かれる犯罪者の精神は、それを実行した・実行しないという決定的な分水嶺を持ちながらも、しかし、自らの内面深くに絶えず視線を降ろそうとしている者にとっては、自分の心の中にも存在していると気づかせずにはおかないものであります。
我々はラスコリニコフに共感するように、様々な犯罪者の心の闇にもやはり感情移入をし、そして、自らの心の深さ広さ不思議さ複雑さなどに改めて思いを馳せ、恐れと眩暈のような感覚を持ちながら、しみじみと感じ入ります。
『十九歳の地図』の無一文の主人公の持つ、ぶよぶよと肥大した強烈な不満、自意識、そして劣等感は、本当に反吐の出そうな薄汚いものでありますが、しかし同時に、間違いなくそうしたものが、自分の心の片隅にも密かに佇んでいることに、我々は読んでいてはっと気付きます。
坂口安吾は、人生の持つ、氷の彫刻を抱きしめるような冷たさと愛おしさを文学のふるさとと書きましたが、文学のふるさとの一方には、この眩暈を覚えるような人間精神の深さと闇があるように思います。
優れた才能は見事にそれを見抜き、我々にそれを直視させようとします。
そんな直視などしたくもないものを読者の前にさらけ出す才能こそが、中上健次の持っていたものでありました。
その後それは一定の開花をしさらに深化を求めつつ、しかし十分に叶うことなく四十六歳で筆者が亡くなってしまったことは、言葉無きほどにいかにも残念であります。
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