2013/05/12(日)16:31
かつての「無意味」の対極
『官能小説家』高橋源一郎(朝日文庫)
冒頭の長編小説の読書報告の後半であります。
前回は、ワーグナーとブラームスは結局ベートーヴェンでもあり夏目漱石と森鴎外でもあるが半井桃水と高橋源一郎はとっても小林秀雄っぽい、ということでありました。たぶん。
ところで本小説は、わたくし、再読であります。
だいぶ昔に一度読みました。その時の私の読書メモにこんな風に書いてあります。
「前半はひどかった。中盤はさすがに読ませた。終盤は又すかすかしてきた。全体としてはまあまあかな。」
かなりわがままな感想ではありますが(どうもすみません)、本書再読後に改めてみてみると、今回の読後感想もほぼその通りではないかと、少々厚かましくもそう思ったのでありました。
まず、前半はひどかったという感想ですが、かつての私がそう感じたのは、たぶんこんな所だと思います。
後は「億万長者と結婚する方法」だ。藤原紀香の脚は、この世で見る価値のある数少ないものの一つじゃないだろうか。まあ、あくまで脚に限るけど。それから、「ナースのお仕事3」。もちろん、観月ありさの脚が出てくるところが素晴らしい。それに神田うのに松下由樹か。あんな看護婦ばかりいる病院がほんとにあるだろうか?
……うーん、この意味ですが、……うーむ、後で、考えてみますね。
次の、中盤はさすがに読ませたというかつての私の感想ですが、これは、ある意味高橋源一郎の小説の読ませどころですね。
半井桃水と樋口一葉のラブストーリーを書いた部分ですが、実は筆者の小説はポップな衣装を纏ってはいますが、その中に描かれる感情は「透明感のある切なさ」というような言葉でまとめることのできる、かなり広くポピュラリティのあるものです。
しかしもしも、この「透明感のある切なさ」という感情の描写やテーマが、少し感傷的でありはしないか、通俗的でありすぎはしないか、あるいは芸術性に欠けるのではないかという不安を、筆者自身が持ったとしたら……。
さて、この度私が本書を再読して気が付いたのはそのことであります。
そして、前半のマゾヒステックなまでの物語の壊しぶりや、終盤の「すかすか」の原因こそこれではないのか、と私は思ったのでありました。
作品の最後のあたりに、鴎外の思いとしてこんな事が書かれています。
だが、結局のところ、鴎外は一度も満足したことはなかった。
ある作品は毀誉褒貶に晒され、ある作品は無視された。また、格別の評判を得る作品もあった。その度に、喜び、哀しみ、また無知や無理解に怒りを感じたこともあった。やがて、鴎外はほとんどなにも感じなくなった。人々あるいは世間というものの評価に興味をなくした。
それではいけない。何度もそう思った。この世界から切り離されたところで自分のためにだけ書く「芸術家」だけにはなるまいと心に決めていたからだ。だから、冷えきった心に鞭打ち、乏しい残り火をかきたてるようにして新しい作品に立ち向かってきた。
しかし、それはいったいなんのためだったのだろう。
前回のこの欄に私は、筆者がとても真面目に書いている(真面目に不真面目に書いている)ということに触れましたが、そもそもこんな小説家小説を書くというのがきわめて「本気」でありますよね。
そしてまさに「冷えきった心に鞭打ち、乏しい残り火をかきたてるように」書いたのが、この悪ふざけのように見える「物語の解体」の部分であったのかもしれません。
そういえば、筆者はデビュー当時、もっともっとわがままに小説を書いていたような気がします。もっと「無意味」のそばで遊んでいたように思いました。
それに比べれば(本作においてだけなのかもしれませんが)、本作はかつて筆者の自家薬籠中にあった「無意味」の対極に位置するようなお話になっていると、この度私は思ったのでありました。
なるほど、生きている作家とは、やはり大変なものですね。
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