2013/08/06(火)16:01
高橋和巳は「メジャーのマイナー」か。
『堕落』高橋和巳(新潮文庫)
明治時代以降の近代日本文学史の中の、どちらかと言えば「マイナー」な作家とか作品を読んでいこう、ってのが、まぁ、本ブログのタイトルの命名由来なんですが(ちょっとだけ別の意味も本当は少し含んでいるのですが、今回はそれは置いて)、なかなかそうはなっていません。
やはりメジャーな作品を読むことが結構あります。
だって取りあえず有名どころをという感覚って、少しはしたないですが、誰にもありますよねぇ。
というより、数をこなしていくと何となくそんなことが肌で感じられて、さりげなく「マイナー」を手に取るのを逡巡してしまうのですが、どんなことを肌で感じるかというと、……えーっと、ちょっと身も蓋もない言い方をしてしまうんですが、こういうことですね。
「マイナーにはマイナーの訳がある。」
うーん、やはり「それをいっちゃーおしめーよ」的表現になってしまいましたが、えらいもので、ここがもう一歩とか、もうひと踏ん張りとか、ちょっと気になるところがあるのがマイナー作品なんですよねー。難しいところであります。
で、今回の読書報告ですが、さて、高橋和巳ってどうなんでしょ。
どうって、「おしめーよ」的表現で言うと、高橋和巳はマイナー作家なのかどうかと言うことでありますがー。
たとえば、再三本ブログに顔を出す私の持っている高等学校国語科副読本の『日本文学史』の本の「昭和30年代の文学」の説明には、この3人の小説家しか書かれてありません。
石原慎太郎(1932)・開高健(1930)・大江健三郎(1935)
うーん、いくら何でもこの3人だけで昭和30年代が終わってしまうのは淋しいだろうとは思いますが、まー、この3人は取りあえず昭和30年代の作家の「メジャー」であると言うことですね。
で、高橋和巳ですが、世代的には全くこのお三方と同世代、誕生年は1931年であります。ただ、彼は早くに亡くなりましたからねー。没年は1971年、40歳になる間際でありました。
これはちょっとつらいですね。もちろん早熟の天才は近代日本文学史の中にも結構いらっしゃいますが(梶井基次郎・中島敦あたりを筆頭に、探せばけっこういると思いますが)、やはり人生のほとんどにおいて同様のことが言えると思いますが、「長生きしたもんの勝ち」という側面が明らかにある、と。
まー、長生きするから大家が生まれるんですよねー。
結局高橋和巳は、己の才能の十分な収穫時期を迎えること亡くなくなったってことですかね。
それにこの度、年譜を見まして私は初めて気づいたのですが、この方はそもそもほとんど「専業作家」の時期を持っていません。(大学に勤めていたんですね。)亡くなる前の2年間くらいだけです。
これはかなり、「致命傷」ッぽい所ですね。
というより、この方は本当にこれからと言う時に亡くなったということでありましょうか。
さてここまで、分かったふりをして書いてきましたが、実はわたくし、高橋和巳の作品はこの度初めて読んだのであります。(すんません。)そして思った事が、ここまで書いてきた、高橋和巳はメジャーか否かと言うことなのですが、なぜそんな感想になったのかという理由は二つあります。
ひとつめは、かつて大昔、私が高校生だった頃、以前にも少し触れたことがあったように思いますが、軟派な文学青年をしていた私並びに同様の文学青年の間に「アイドル」作家が数名いました。こんな方でしょうかねぇ。
大江健三郎・開高健・三島由紀夫・倉橋由美子
これらの方々にもう少し「芸術派」ッぽいメンバーを加えるなら、川端康成・吉行淳之介あたりが加わったかもしれません。
しかしその一方で、じっくり高橋和巳を読んでいた、軟派じゃない文学青年がいたんですねー。
……えー、どうなんでしょうねー。
昔はよかったなぁみたいなことを言い出せば、まぁ人生もテンカウント間近だと思いますが、つい言っちゃいそうになって何とか止めようとは思うのですが、そういえば高橋和巳を読んでいたN君は、ソルジェニーツィンなんかも読んではりましたなぁ。
……時代、ですねぇ。
一度、私は彼に、こわごわ「その本、おもしろいか」と尋ねたことがありました。
彼は即座にかつむっつりと「おもしろい」と答えてくれましたが、私は結局ソルジェニーツィンも高橋和巳も手に取ることなく現在に至ってしまいました。
ただ、軟派な文学青年の私にも、高橋和巳という「凄そうな」作家がいるらしいという感覚は残ったのでした。
えー、今回も変な展開になってしまいました。
二つあると言った、高橋和巳はメジャーか否かの設問理由の二つ目が(一つ目も十分には)書き切れていませんが、すみません、次回に続きます。
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