近代日本文学史メジャーのマイナー

2014/03/15(土)08:43

「小説の書き方」のほぼベスト!

昭和期・三十年女性(17)

  『小説の秘密をめぐる十二章』河野多恵子(文春文庫)  例えばこんな個所を挙げてみます。  最も便利な譬えとして音楽の場合を借りると、創作とは作曲と演奏(または歌唱)が一つになって成り立つものなのである。創作の過程がそうであり、完成した作品もそうである。そして、凡そでいえば、作品の前のほうでは作曲の要素の比重が大きく、後へ進むにつれて演奏の比重の度合いが増してゆくようである。その比重の度合いが途中で、それも幾度か入れ替わることもある。とはいえ、どういう場合でも、双方の比重の差は僅かなものである。基本にあるのは、双方の拮抗なのである。創作のそのような体質を心得ておいてこそ、作品に自然な、力強い、創造性に富んだ展開が生まれてくるのである。  創作を「作曲と演奏」に喩えるというのはさほど驚くような比喩ではありませんが、両者の比重が前半と後半で異なるとか、幾度か入れ替わるとかの説明は実践に裏打ちされた観察と理論であり、いかにも「卓見」、唸ってしまうほど上手ですね。  冒頭の文庫本から、こんな「卓見」個所を抜き出していくと切りがないのですが、抜き出すだけでも心地よいので、もう一つ抜いてみます。  しかし、作家の基本条件としての才能の有無は、そのようにたやすく判断することはできない。新人の作品を読み、大成するかどうかは別として、作者の才能を感じることが時々ある。その判断が必ず当たっているとは言いきれなくても、才能があると判断することは寧ろ容易である。むつかしいのは――というよりも、全くお手あげなのが、才能がないと判断するほうなのだ。才能が感じられないからといって、ただちに才能のない証とはいえないからである。  ここも見事に書いてありますねー。  才能は、「ある」判断より「ない」判断の方が難しい。いえ、そもそも「ない」判断はできないのだと言い切ってしまうあたり、惚れ惚れするような気っぷの良さであります。  ……あのね、ここまでの部分だけでも十分面白いんですがね、実はこの後、樋口一葉の例が書かれてありまして、ここがまた、とても面白い!   そこで、引き続き、抜き出してみます。  例えば、かの樋口一葉の処女作「闇桜」に、私は才能の片鱗も感じない。如何にも見よう見まねであるだけでなく、妙な科を作っている様子の噴き出したくなるような文章なのである。ところが、一年も経たぬうちに、とても同一人の作とは思えぬ「うもれぎ」を発表し、これが出世作となる。  ……という風に抜き出していけば、本当に切りがないのでここで少し置いて(でも、この後私が駄文を綴るより、本書の抜き出しの方が遙かに面白いのは明白なんですがー、うーん、困ったものです)、まー、ちょっと考えてみますね。  さて冒頭の文庫本は、タイトルからも分かるように、簡単に言いますと「小説の書き方」であります。  何を隠そう、わたくし、この手の本は、今までまーまーの数を読んでいるんですね。  そしてはっきり言って、それらの書籍は「玉石混淆」というのがほぼ正しい評価だと思うのですが、しかし「玉」の本にしても、それを読めばすらすらと小説が書けるに至るわけではありません。  でもそれは、考えれば当たり前な話でもありまして、特に私の好きないわゆる「純文学小説」ということになりますと、大切なことは単なる小説の技術ではなく、何と言いますか、生き方とか人生観とか、要するに「総合的人間力」みたいな、なかなか文章に表しにくいものが中心になってくると思います。  ところが本書ですが、例えば目次をランダムに見ますと、「デビューについて」「名前のつけ方」「標題のつけ方」「虚構および伏線」等、かなり細かい技術的な事柄に深く踏み込んでいます。  そしてその一方で、上記に引用したような実体験に裏打ちされた素晴らしい経験則が随所に散りばめられていて、読んでいて何度もはっとさせられました。  しかも、その経験は、現文壇の中で私がもっとも信頼を置かせていただいている河野多恵子氏の経験ときています。  ……えーっと、こういう本のことを名著って言うんでしょうね。  テーマからいって、さほど広く読者にアピールする作品ではないかも知れませんが、まさにタイトル通り、小説の作りや仕掛けについて、より深いことを知りたい味わいたいと考える読者にとって、本書ほど「名著」という評価にふさわしい作品は、わたくし、ちょっと思い浮かびません。  よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村

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