近代日本文学史メジャーのマイナー

2016/12/24(土)10:46

ヴィヨンのさっちゃんについて(前編)

昭和期・新戯作派(27)

  『ヴィヨンの妻・桜桃』太宰治(岩波文庫)  本短編集を読んでいて、なるほどそうだったかなー、と思っていたことがありました。  それは、作品の最後の一節についてであります。  収録作『日の出前』から始まって『親友交歓』『ヴィヨンの妻』『家庭の幸福』『桜桃』など、主だった作品がみんな、最後の一節を標的にしてきりきりと弓を絞っていくような短編小説ばかりです。  本短編集は太宰治の戦後の作品から十編を選んで編まれたものだそうですが、最後の一節が標的の作品と言えば、戦前戦中の作品からでもすぐに浮かびます。  有名どころをちょっと、挙げてみますね。  さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。(『津軽』)  性格の悲喜劇というものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れています。(『瘤取り』)  「女は、恋をすれば、それっきりです。ただ、見ているより他はありません。」  私たちは、きまり悪げに微笑みました。(『女の決闘』)  申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。(『駆け込み訴え』)  ……と、列挙していけば切りがないのですが、なるほどたくさんの太宰作品が、森鴎外『最後の一句』ではありませんが、最後の一節を目指して描かれていますね。  ざっと見たところ、筆者の生涯の中盤以降の作品にそれが多いと思いました。(何が関係しているのでしょうかね。)  でももう少し考えてみると、最後の一節だけではなく、太宰の小説は書き出しもとっても奮っています。  もう列挙しませんが、例えば「メロスは激怒した。」のたぐいですね。いきなり作品世界にぐいと引っ張り込むような力業の冒頭です。  書き出しの上手な小説については、上記に触れた『女の決闘』に、「書き出しの巧いというのは、その作者の『親切』であります。」との説明があります。  太宰自身がいかに書き出しについて、考えに考えて工夫を凝らしていたかが分かる一文です。  さて、そんな短編集を読みました。  私は、太宰の作品についてはかつて新潮文庫を中心に読んでいたので、太宰の戦後の短編集についても岩波のものは初めてです。でもやはり収録されているほとんどの作品は、再読以上になるものでした。  それにしても太宰作品は読みやすいですよねー。  易しいとか軽いとかじゃなく、また上記の冒頭の魅力という話だけでなく、とにかく心の中にすっと入ってきます。これが太宰のとっておきの「芸」なんだろうなと思いつつ、読んでいて心地よいのはとても嬉しいことです。  そんな十編の作品から今回は『ヴィヨンの妻』について取り上げてみたいと思います。  それは、本書収録作の中で最も秀逸な作品と考えるからであります。  さて『ヴィヨンの妻』ですが、太宰の作品の中でも人気作ですよね。  特に晩年の人気作に区切っていえば、何と言っても『人間失格』と『斜陽』が双璧ではありましょうが、その次にと指を折るのは『ヴィヨン…』あたりではないでしょうか。  並んで本書の標題になっている『桜桃』も有名どころではありますが(「桜桃忌」なんて太宰の忌日があるせいもあって)、作品のできとしては『ヴィヨン…』の方がいいように思います。(作品の長さも関係しているとは思いますが。)  ではその『ヴィヨン…』の魅力とはいったい何なのか、ちょっと考えてみました。  まず女主人公の夫(詩人の大谷)から考えてみますが、この人物設定は、太宰作品にはしばしば現れるキャラクターですね。デビュー作から『人間失格』まで、その原型は間違いなく太宰本人にあると思われる「無頼派」の人物です。  しかしこの人物は本当に魅力的かと考えてみれば、……うーん、もちろん個人的な好みはあるでしょうが、再読三読していくと、さほど魅力的ではないんじゃないか、と。  少なくとも熱に浮かれているような青春期が終わって改めて読んでみればそうではないか、と。  ……えー、反対意見や苦情もある(「お前は太宰の苦悩がわかってない」等)と思いますので、えー、次回まで、ちょっと考えてみますね。すみません。  よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓  俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村

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