「人間革命の歌」誕生の淵源
『新・人間革命』第23巻「勇気」の章より
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新しい学会歌が必要だ「タイトルは『人間革命の歌』にしよう。
7月1日、東京上野の美術館で開催されている・第三文明展「に向かう車中、山本伸一は」同乗していた2人の幹部に語った。
2人は、はあ「と答えたものの、キョトンとした顔をしている。
彼らは、この時伸一が、なぜ、、人間革命の歌「という新しい学会歌を作ろうと思ったのか」理解しかねていた、ちょうど。6月の19日から、映画、続・人間革命「が上映されていたことから」それにちなんで、歌を作るのかと思ったりもした。
伸一は新しい歌を作ろうと考えた時、既に、タイトルは、人間革命の歌「にしようと決めていた」それ以外にはないと思った。
それぞれの幸福境涯の確立も家庭革命も、社会の建設も、世界平和の創造も、すべては人間革命から始まるからだ。
そしてその人間の変革を推進している、唯一無二の団体が創価学会である、まさに創価学会は。人間革命の宗教「であるからだ。
しかし2人の幹部は、歌の意義を考えるよりも、“歌は誰が作るのだろう、制作委員会をスタートさせ。準備に当たれということなのか”等と、思案を巡らせていたのである。
すると伸一が言葉をついた。
歌詞は『君も立て我も立つ……』から始めようと思う「この2、3日、いろいろ考えて。イメージは、ほぼ出来ているんだ。
今夜は戸田先生ゆかりの方々と、先生が出獄された『7・3』を記念する集いがあり、明日は、東京の同志の代表と『恩師をしのぶ会』を行う、そして。明後日は、学会本部で、先生の出獄記念勤行会だ。
私は戸田先生を偲び、心で対話しながら、師弟の共戦譜となる『人間革命の歌』の制作に取り組もうと思っているんだよ。
今年の後半からは、この歌を皆で声高らかに歌って、誇らかに前進していくんだ、
広宣流布の歩みは学会歌の調べとともにある、躍動する生命の歌声とともにあるのだ。
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7月16日――この日は、文応元年(1260年)に、日蓮大聖人が「立正安国論」を、時の最高権力者・北条時頼に提出した日である。この「立正安国論」をもって、国主を諫暁されたのである。
そこから、松葉ケ谷の法難や伊豆流罪、さらには、竜の口の法難・佐渡流罪など、津波のごとく襲いかかる、大聖人の大難の御生涯が始まるのである。
しかし、大聖人は叫ばれた。「日蓮一度もしりぞく心なし」(御書1224ページ)と――。
16日、山本伸一は、東京・大田区の座談会に出席するなど、多忙を極めていた。だが、そのなかで、大聖人の大闘争に思いを馳せながら、「人間革命の歌」の歌詞を作り終えたのである。1番が5行からなる、3番までの歌であった。
翌17日は、権力の魔性と戦い抜いた伸一の、出獄の日である。朝、伸一は、歌詞を推敲し、さらに手を加えた。この日も、学習院大学会の総会に出席するなど、諸行事が詰まっていた。
そして、夜、自宅で曲想を練り上げていったのである。軽やかで、それでいて力強く、勇気を燃え上がらせ、希望の光が降り注ぐような曲というのが、伸一の思いであった。
彼の頭のなかで、曲のイメージが出来上がった時には、午後11時を回っていた。
本部幹部会当日の18日は、朝から作曲に取り組んだ。昼からは、創価文化会館の3階ホールに、作曲経験のある音楽教師の青年を呼び、ピアノを弾いてもらいながら、曲作りに励んだ。しかし、本部幹部会までに、曲は完成しなかったのである。
彼は、後世永遠に歌い継がれる、最高の歌を作りたかった。だから、安易に妥協したくはなかった。
“努力を重ねてきたのだから、もうこれでいいではないか”との思いが、進歩、向上を止めてしまう。その心を打ち破り、断じて最高のものを作ろうとする真剣勝負の一念から、新しい知恵が、力が、創造が、生まれるのだ。
語句の解説
◎松葉ケ谷の法難など
松葉ケ谷の法難は、文応元年(1260年)8月、鎌倉・松葉ケ谷の大聖人の草庵を、武装した念仏者らが襲った事件。翌弘長元年(1261年)の5月、大聖人は、伊豆流罪となる。
竜の口の法難は、文永8年(1271年)9月、幕府の権力者らが策謀をめぐらし、鎌倉・竜の口で首を斬ろうとした事件。だが、失敗し、幕府は、大聖人を佐渡流罪にした。
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「……陽出ずる世紀は
凛々しくも
人間革命 光あれ」
本部幹部会で山本伸一が「人間革命の歌」の歌詞を発表すると、怒濤のような歓声と拍手が起こり、いつまでも鳴りやまなかった。
この幹部会で、伸一は、広宣流布の指導者として銘記すべき、6つの心得を示した。
「個人指導を大切に」
「小会合を大切に」
「言葉遣いを大切に」
「ふだんの交流を大切に」
「その家庭を大切に」
「その人の立場を大切に」
なぜ、個人指導が大切なのか――一人ひとりの置かれた立場や環境も異なれば、悩みや課題も、千差万別である。皆が、その悩み、課題に挑み、乗り越え、希望と歓喜に燃えてこそ、広宣流布の確かな前進がある。ゆえに、どこまでも個人に照準を合わせた個人指導が、最も重要になるのである。
次に、小会合を大切にするのは、納得できるまでよく語り合い、綿密な打ち合わせを行うことによって、運動の大きな広がりが生まれるからだ。
大会合が動脈や静脈だとすれば、小会合は毛細血管に譬えることもできよう。毛細血管が円滑に機能してこそ、血液は体中に通うのである。
小会合の充実がなければ、組織の隅々にまで、信心の息吹が流れ通うことはない。小会合をおろそかにすれば、その組織は、やがて壊死していくことになりかねない。
さらに、リーダーにとっては、ことのほか言葉遣いが大切になる。
「声仏事を為す」(御書708ページ)である。私たちは、語ることによって、仏の聖業を担うことができる。その言葉遣いが悪ければ、法を下げることにさえなる。
言葉は、人格、人間性の発露である。
日蓮大聖人は、「わざわい(禍)は口より出でて身をやぶる」(同1492ページ)と戒めておられる。
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山本伸一が、4番目に、日ごろからの交流の大切さを訴えたのは、学会の活動においても、また、交友においても、大事なのは人間関係であるからだ。そして、その人間関係は、日々の交流の積み重ねのなかで築かれていくものだからである。
足繁く通って対話する。あるいは、電話や手紙なども含め、意思の疎通を図り、励ましを送る。その不断の努力のなかに、信頼が育まれ、強い人間の絆がつくられていくのだ。
5番目に彼が、「その家庭を大切に」と語ったのは、リーダーが、メンバーの各家庭の状況を理解し、配慮をめぐらしていってこそ、皆が無理なく活動に励んでいくことができるからである。
皆、それぞれに家庭の事情がある。食事や就寝時間など、生活の時間帯も、家庭によって異なる。さらに、病気の家族がいるお宅もあれば、受験生がいるお宅もある。また、家族が未入会の場合もある。訪問する際には、事前に連絡をして伺うなどのマナーも、当然、心掛けなければならないし、玄関先で会話をすませるなどの配慮も大切である。
また、自宅を座談会場などとして提供してくださっている家庭に対しては、特に、こまやかな心遣いが必要であろう。
最後に、伸一が、「その人の立場を大切に」と訴えたのは、すべての人を尊敬、尊重していくことは、仏法者としての、生き方の根本姿勢であるからだ。それを、自分の感情で人を叱ったり、後輩に対して威張り散らすようなことがあっては、絶対にならない。
大聖人は「忘れても法華経を持(たも)つ者をば互(たがい)に毀(そし)るべからざるか、其故(そのゆえ)は法華経を持つ者は必ず皆仏(みなほとけ)なり仏を毀りては罪(つみ)を得(え)るなり」(御書1382ページ)と言われている。
広宣流布に生きる同志は、皆、等しく尊厳無比なる存在である。互いに尊敬し合う心の連帯が、創価学会なのだ。
伸一は、リーダーの留意点として、この6項目の指針を発表し、皆の健闘を讃えると、本部幹部会の会場を後にしたのである。
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山本伸一は、創価文化会館の3階ホールに戻ると、再び「人間革命の歌」の作曲に取りかかった。曲は、一応、かたちにはなっていたが、まだ納得がいかないのだ。
彼は、本部幹部会の終了までに完成させることができれば、ぜひ、参加者に披露したいと思っていた。
伸一は、この本部幹部会で、彼が入場する前に、ピアノとマリンバを演奏した、2人の女子部員にも来てもらい、意見を聞いた。音楽大学を出て、民主音楽協会に勤務している植村真澄美と松山真喜子である。彼女たちにも手伝ってもらいながら、作曲を続けた。
午後3時半、伸一は、彼女たちと一緒に、本部幹部会の会場となった五階の大広間に上がった。既に会合は終了していた。
伸一は、大広間のピアノを使って、引き続き、作曲に挑戦した。なんとしても、この日のうちには歌を完成させようと、固く心に決めていたのである。
伸一は、2人の女子部員に言った。
「決して、遠慮しないで、気がついたことがあったら、どんどん意見を言ってください。みんなの力を借りて、後世永遠に残る、名曲を作りたいんだ」
伸一は、常に、皆の意見を聞くように努めていた。何事も、そこに発展があるからだ。
「多くの人の声を尊重してこそ、智者となることができる」(注)とは、中国・三国時代の蜀漢(しょくかん)の丞相(じょうしょう)・諸葛亮孔明(しよかつこうめい)の名言である。
会場には、本部幹部会に参加した、学生部の音楽委員会の代表もいた。彼らにも、曲を聴いてもらった。
皆に意見を求めながら、伸一は、曲作りを進めていった。しかし、納得のいく曲はできないまま、時が過ぎていった。
伸一は、もう一度、歌詞を推敲した。
歌詞は、5行詞である。どうやら、これが、作曲を難しくしているようだ。
「5行ある歌詞を、思い切って4行にしては、どうだろうか……」
彼は、こう言って、皆に視線を注いだ。
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集っていた音楽関係者の一人が答えた。
「5行詞を4行詞にすれば、確かに、作曲は、しやすくなると思います」
しかし、“歌詞のどの部分を削るのか”となると、山本伸一は、困惑せざるを得なかった。熟慮に熟慮を重ねてきた歌詞である。一言一言に、深い思いが込められていた。
どこを削除するか、歌詞を読み返した。
削るとすれば、2行目だと思った。1番の歌詞の2行目は「同志の人びと 共に立て」、2番は「同志の歌を 胸はりて」、3番は「同志の人びと 共に見よ」である。
「残念だが、2行目を削ろう。この『同志の人びと』というところには、深い意義があるんだね……。でも、仕方ないな」
伸一が、この言葉を使った背景には、若き日に読んだ、山本有三の戯曲『同志の人々』への共感があった。
――この作品は、幕末の文久2年(1862年)、寺田屋騒動で捕らえられた8人の薩摩藩士が、薩摩に護送されていく船の中が舞台である。寺田屋騒動は、討幕を計画した薩摩藩士らが、京都・伏見の船宿・寺田屋で、藩によって鎮圧された事件だ。
荒波に翻弄される船で、藩士たちは“これから、どうなるのか”“途中で処刑されるのではないか”“これまでやってきたことは無意味だったのか”と、不安にさいなまれる。
そこに、“目つけ”から、船底に幽閉されている、公家の臣下である父と子を殺害すれば、2、3カ月の謹慎という軽い刑にすると告げられる。この父子は、藩士らとともに、討幕を誓った同志であった。
薩摩藩としては、幕府の機嫌を損ねたくないため、この父子を、薩摩にかくまうことは避けたかった。しかし、表立って処刑すれば、公家に義理が立たない。そこで、船の中で、仲間割れが起こって殺されたことにしたいというのだ。8人の藩士は動揺した。
最悪な事態、最大の窮地に立たされた時、何を考え、どう行動するか――そこに、人間の奥底の一念、本質が現れるといえよう。
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護送されている薩摩藩士が、公家の臣下である父子を手にかけずとも、父子は、役人によって殺害されるにちがいない。そして、罪は、藩士に押しつけられ、重罪に処せられることになろう。
どちらにせよ、助からないのなら、討幕の再挙をはかるために、殺害することもやむを得ない――という意見が出される。
同志を殺して、自分たちの罪が軽くなることを選ぼうとする皆の心を、是枝万介という藩士は見抜き、真っ向から異を唱える。
「生死を誓った同志ではないか。生きる時はいっしょに生き、死ぬ時は、潔くいっしょに死ぬのが道ではないか」
だが、藩士たちは、「再挙のため」を理由に、父子の殺害を決める。
では、誰が、その役を担うのか――。
名乗り出たのは、是枝であった。彼は、自害を勧めようと考えた。それが、武士の情けであると思ったからだ。また、自分も、共に死のうと、心を決めたのである。
是枝は、父と子に、維新を成就させるため、同志の犠牲となって切腹するよう、説得にあたる。だが、息子は、聞き入れない。
「不正なものを倒して、正しい世の中にしたいと思えばこそ、今のいのちが惜しまれるのだ」
やむなく是枝は息子を斬り、深手を負わせる。その息子を介錯したのは父親であった。
詫びる是枝に、父親は、自分は切腹することを伝え、介錯を頼む。そして、自分たちの死を、犬死にに終わらせることなく、維新の成就を訴える。
――「ほんとうの悲壮なことに出あわれるのは、むしろこれからですぞ」「これからは貴殿たちの時代です。どうか、しっかりやってください」
苦難のなかで呻吟し抜く覚悟なくしては、大義を貫くことなどできない。
死せる父親が、従容として語った遺言は、「ただ同志の方々に、よろしくとお伝えください」であった。
*参考文献 山本有三著『同志の人々』岩波書店