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カテゴリ:教学
〈教学〉 11月度座談会拝読御書 異体同心事 拝読御文
「分断は悪」「結合は善」です。 仏界の生命は、すべてのものが互いに結びつく宇宙の実相を悟(さと)った智慧(ちえ)で、現実を生きていく生命です。 仏とは、分断の悪にあえぐ人間たちが織り成す現実の中で、人間と人間を結びつけ、安国の理想実現に尽力しつつ、全人類の平和を目指していく価値創造の生命に他ならない。 ゆえに「悪は多けれども一善にかつ事なし」と仰せです。 善の太陽が昇れば、いかに深い悪の闇(やみ)も、直ちに、そして必ず滅します。 「一善」とは、大聖人の一門のことです。 それは、大聖人の一門にこそ、障魔との戦いを恐れず、妙法という根本の善を弘通しぬく戦いに徹する決意と実践があるからです。 私たちは、法華経の理想を実現する広宣流布の戦いに生きています。 誰にどう批判されようと、「民衆の力」を解放し、「民衆の時代」を築くために、汗を流し、足を鉄板のようにして歩き、岩盤に爪(つめ)を立てる思いで戦ってきたのは、創価学会だけです。その事実があるからこそ、世界からの賞讃が絶えないのです。 一面から言えば、私たちが築いてきた「異体同心」の哲学と実践は、今、世界で注目される段階になったともいえます。(中略) 「善」と「善」の連帯を築き上げていく、私たちの「異体同心」の実践を、世界が待望しています。どこまでも、威風堂々と前進し、勝利の歴史を築いていきましょう。(『希望の経典「御書」に学ぶ』第3巻)
「異体」とは、それぞれの個性や特質が異なっていることです。 「同心」とは、志や目的を同じくすることです。 大聖人の仏法を実践する私たちにとって「異体同心」とは、互いの違いを認め合い、尊重し合いながら、広宣流布という大目的に向かって心を合わせることといえます。 一般的に団結とは、共通の目標を達成するための「手段」と考えられます。しかし、創価の「異体同心の団結」は、自他共の幸福を築く麗(うるわ)しい連帯であり、それ自体が広宣流布の「目標」ともいえます。 「団結しよう」と言うだけで、容易に団結することはできません。だからこそ、大切な広布の組織を守り、絆(きずな)を結ぶ努力が欠かせません。 大聖人は、「法華経を持つ者をば互(たがい)に毀(そし)るべからざるか、其故(そのゆえ)は法華経を持つ者は必ず皆仏(みなほとけ)なり仏を毀りては罪を得(え)るなり」(御書1382ページ)と仰せです。妙法を持つ同志は、皆が尊(とうと)い仏子(ぶっし)です。互いに尊敬し励まし合いながら、広布に前進することで、麗しい団結が築かれていくのです。 戸田先生は「異体同心の心は、信ずる心です。信仰が同じという意味です」と述べています。 つまり、単に仲が良いといった次元にとどまらず、お互いが妙法を根本とした不退の信心を持つことが、信心の団結においては重要なのです。 コロナ禍で生活様式が大きく変わろうとする今、一人一人の幸福を願う発露から、創意工夫を重ねて行学の実践に励む学会員の信心によってこそ、異体同心の団結が築かれるのです。
これに対し、少数であっても信心の団結があれば、「大事を成じて」「一定法華経ひろまりなん」と、打ち勝つことができると仰せです。 すなわち、広宣流布の伸展を決定づけるのは、人数の多少ではなく、広布に心を定め、心を一つにできるかどうかです。一人一人の持てる力が足し算ではなく、あたかも掛け合わされるように発揮されることで、前進の力は何倍にも増します。 その上で心すべきは、広宣流布は仏と魔との闘争であるということです。広布を阻もうとする魔の働きは、人々の心を分断させます。 だからこそ、「悪は多けれども一善にかつ事なし」との仰せを心肝(しんかん)に染めていくことが大切です。異体同心の仲良き団結で広布にまい進する限り、あらゆる障魔を打ち破り、必ず勝ち越えていけることを約束されています。 「一善」の勢力こそ大聖人一門であり、現代においては創価学会です。わが地域に善の連帯を広げ、学会創立90周年の「11・18」を晴れやかに迎えていきましょう。
最終更新日
2020.11.07 12:22:15
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