信仰体験 親子2代で作る“一期一会の牛革バッグ”
目指すのは「信心の横綱」
【茨城県鉾田市】手作りの牛革バッグ工房「イデツ工芸」は今年、初代の出津豊吉(いでつとよきち)さん(78)=副支部長=から、長男・広宣さん(34)=男子部部長=へと代が移った。年季が入った豊吉さんのミシンと、比較的新しい広宣さんのミシン。並んで置かれたミシンが、時代の流れを感じさせる。
革の匂いが染みつき、壁に何種類ものバッグの型が掛けられた作業場で、黙々と鞄を作り続けてきた父。その背中を息子はじっと見続けてきた。
「私に残せるものはバッグ作りと、信心しかありませんから」。そう言って笑う職人の顔が親父の顔へと変わった――。

豊吉さん㊨と長男・広宣さん㊧
イデツ工芸のバッグは、一つ一つが手作り。革用包丁を使い、手で裁つのも感触を確かめてから。どの部分の革かによっても具合は異なる。「革の一枚一枚にクセや個性があります。同じバッグは二つとありません」
バッグ職人として60年。豊吉さんは「ただひたすら、バッグを作り続けてきただけ」と、仕事のことは多くを語らない。
しかし、信心の話となると、表情が和らぐ。「こんなに楽しいことはありませんよ」と、目をキラキラさせながら話し始める。
職人である以上に、一人の信仰者として広布に生き抜いてきた。

農家に生まれた豊吉さんは、幼い頃から畑に出て家計を支えた。しかし、中学3年の時、誤って栗のイガを踏んでしまい、それが元で右足が骨髄炎(こつずいえん)に。
3年間の入院生活のうち、最初の1年は寝たきり、その後も松葉づえを突いて歩くのがやっとだった。5回の手術のかいもなく、右足は曲がらなくなった。
そんな時、同じ病室の人から「この信心で絶対に歩けるようになる」と、創価学会の話を聞き、1961年(昭和36年)に入会する。
題目を唱え始めると、しばらくして松葉づえなしで歩けるようになった。“この信心は本物だ!”
退院後、この足では農業はできないと、バッグ職人を志して上京。住み込みで働いた。ほとんど休みもなく、朝から晩までバッグを作り続ける。あまりの厳しさに同僚は次々と職場を去っていった。

右足は相変わらず固まったまま、骨髄炎も再発を繰り返した。そんな状況でも、豊吉さんの心は晴れやかだった。
わずかな昼休みの時間を使って折伏に歩く。仕事が終わると、すぐに学会活動に向かう。どんなに疲れていても、学会の同志に会うと元気になれた。
東京・台東体育館で行われた会合。池田先生が出席すると聞き、少しでも先生を近くで見ようと、社長に頭を下げて早めに駆け付けた。
先生の姿を見た瞬間、腹の底から力が湧いた。“この信心だけは絶対に手放さない!”。師の前で固く誓った。

68年にメーカーの下請けとして独立。その後、妻・幸子さん(67)=婦人部グループ長=と結婚し、翌年、広宣さんが生まれた。
89年に鉾田(ほこた)に戻ってからも、バッグ作りで生計を立てていたが、バブル経済の崩壊を機に雲行きが怪しくなった。さらには海外ブランドの進出や、海外製の安価なバッグが、デパートのショーケースを埋め尽くし、豊吉さんの仕事は激減。98年(平成10年)には注文が完全に止まった。同業者は次々と倒産し、仕事を変えた。
“この足では他の仕事はできない。俺にはバッグ作りしかない”。祈れば祈るほど迷いは消えた。
余っていた革を使ってバッグを作り、一軒一軒、売りに歩いた。徐々に買ってくれる人が現れ、口コミで評判が広まっていく。

あるお客から、「オーダーや修理もできる、製造直売のバッグの店をやってみたら?」と言われたことをきっかけに、99年に下請けから個人客への直売に切り替え、店名も「イデツ工芸」とした。
広宣さんも、高校卒業と同時に父の工房に入った。幼い頃から、題目をあげては黙々とバッグを作る、ブレない父の背中を見てきた。
“お父さんのバッグを、もっと多くの人に知ってもらいたい。俺が店を守り立てるんだ”。ホームページを開設したり、SNSを駆使したりと、父の技術を広めた。

茨城空港で販売も
すると、辺りは畑ばかりの店に、「ネットを見て来ました」と、徐々に客足が伸びていく。
2010年には、茨城空港で販売されることに。16年には鉾田市ふるさと納税の返礼品にも選ばれ、今では、県外からもお客が来るまでになった。

親子の作るバッグには、アクセサリーやロゴの類いが一切ない。常に持ち主の傍らにあり続ける物を。その信念のまま、少しでも軽く、取り回しの良い物をと追求していくうちに、今のシンプルな形になったという。
「バッグを作り終えても、まだ完成ではありません。お客さまが使い、手になじんでいって、本当の意味で“お客さまの物”になった時が、完成なんです」
ロゴマークを付けないこだわりも、お客の手に渡った瞬間から「イデツ工芸のバッグ」は「お客のバッグ」に変わるとの心意気だ。
「ブランド物にはしたくない。使い慣れた持ち主との一体感が、新品の時よりも、ずっとバッグを魅力的に輝かせていくんです」
お客と顔を突き合わせる中で、その人を思いながら作り上げる“一期一会の牛革バッグ”。

現在は、コロナ禍でこれまで以上に厳しい経営状況。しかし、広宣さんは地域の商工会の一員として、イベント等ができない中でも、広告事業に力を入れ奮闘する。
師の励ましが親子の胸に常にある。かつて、二人が作ったバッグが届けられた際、「信心の/横綱目指せや/この人生」との句が――。
「池田先生の指導を読むたび、御本尊の前に座るたびに、背筋が伸びて腹が決まるんです」と語る豊吉さんは今年、仕事を引退。広宣さんに一切を託した。

「今までは、父の手伝いっていう意識だったけど、2代目になる以上は、父のバッグを守り、発展させたいっていう、自覚が生まれました」
そんな息子の姿を、父も頼もしく思った。
「冬は必ず春となる」(御書1253ページ)と大樹のごとき父。そんな父の生き方を見てきた広宣さんも、腹を決めた。
「父とはけんかも多い。でも、仕事の腕と、信心の姿勢は、本当に尊敬しています。ブレない“横綱の信心”も、受け継がないと」
豊吉さんが珍しく、「まあ、息子の仕事は、丁寧(ていねい)できれいですよ」と、ぼそっと一言。
目の前の一人のために作る“一期一会の牛革バッグ”は、父から子へ確かに受け継がれていく。
( 2020年12月3日 聖教新聞)