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晴ればれとBlog

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第3代会長就任60周年記念 

2020/06/06
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〈第3代会長就任60周年記念〉 

広布史アルバム  4 

昭和35年6月、福島での激励​


 生命即宇宙の悠々たるリズムで
 1960年(昭和35年)5月23日、南米チリで観測史上最大の巨大地震が発生。津波は太平洋を横断し、翌24日未明に東北を襲った。


 池田先生の行動は迅速だった。第3代会長就任から3週間。早朝、学会本部から、次々に見舞いと激励の電報を打つ。同時に災害対策本部を設け、津波の被害がなかった周辺地域に救援を呼び掛けた。


 6月3日、先生は東北の同志を励ますため、福島の郡山(こおりやま)へ。翌4日、東北総支部幹部会(郡山市民会館)に出席した。


 津波襲来(つなみしゅうらい)から、まだ10日余り。太平洋沿岸を走る鉄道は津波で断たれ、バスで何時間もかけて駆(か)け付けた同志も多かった。


 「どうしようもない津波というような三災七難……科学でも、政治でも、経済でも解決できないものは、たくさんあります」


 「いずれの時代、いずこの国でも、宗教を根底としない文化、政治というものは、砂上(さじょう)の楼閣(ろうかく)です」
 登壇した池田先生は、苦難に直面する友を全精魂を込めて励ましつつ、災害の根本的な解決への道を訴えた。
  
 

「日蓮大聖人の生命哲学は、宇宙即生命、生命即宇宙であります。御本尊に題目をあげれば、365日、生命が大宇宙のリズムにキチッと合致して、悠々たるリズムの上に立った人生を生きていけるのです」
  
 

「仏法は勝負です。勝つか負けるかが仏法です。個人の宿命転換のためにも勝負です。生活革命のためにも勝負です。日本のためにも、世界のためにも、全部、勝負が根本です。その勝負も、御本尊が宇宙大の力をお貸しくださるわけですから、各々の立場で、洋々たる前進の戦をしていただきたいと思います」


1万3000人を超す不屈の同志が集った東北総支部幹部会で、第2・第3会場にも足を運び、励ましを送る(1960年6月、郡山市で)
「私は若いですから、今後、いくらでも苦労していく決心でございます」――東北総支部幹部会の第一声で、「会員第一」の前進を宣言(同年6月、郡山市で)


(2020年6月6日 聖教新聞)







Last updated  2020/06/06 11:33:34 AM


​​第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶」
第8回 「創立の志は世界へ」
初代会長・牧口先生生誕の日

牧口先生の偉業を永遠に顕彰するために築かれた東京牧口記念会館で、池田先生ご夫妻が牧口先生の座像を見つめる(2001年7月)

 きょう6月6日は初代会長・牧口常三郎先生の生誕の日である。
​​

 1871年(明治4年)、新潟の荒浜で生まれた牧口先生は、北海道で苦学の末に、小学校教師となる。子どもの幸福を第一にした教育に奮闘しつつ、地理の教授法を探究し続け、32歳の時に、大著『人生地理学』を発刊。


 その後、女性の通信教育を行う機関を設立するなど、全ての人に教育の光を送るべく奔走した。



 入信は1928年(昭和3年)。その感動を「言語(げんご)に絶(ぜっ)する歓喜を以(もっ)て殆(ほとん)ど60年の生活法を一新するに至(いた)った」と述懐(じゅっかい)している。30年(同5年)11月18日、自身の経験と理論を集大成した『創価教育学体系』第1巻を出版。この日が、創価教育学会(現・創価学会)創立の日となる。今年で90周年を迎える。



 牧口先生は、貧困家庭の子どものために学校給食を実施するなど、あふれんばかりの「情」を尽くす一方で、教育も宗教も、自身が納得するまで徹底して「理」を尽くし、研究を重ねた。
牧口先生が使用していた御書。「開目抄」の「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」の一節に朱線が引かれている
 牧口先生の御書には、厳格な研さんの跡が残る。池田大作先生は、青年時代に初めてそれを目にした感動を書いている。「二重線もあれば、傍点(ぼうてん)もある。重要な一節が四角く囲まれている。複数のペンの書き込みがあったり、難解な御文の余白に『検討』『再検討』と記されたページもある」


 特に多くの朱線が引かれたのが「開目抄」。「行者とは何ぞや」「折伏」「大願」「諸難」等と書き込まれ、広布への気迫があふれる。



 軍部政府の弾圧によって、治安維持法違反(ちあんいじほういはん)、不敬罪(ふけいざい)の容疑で逮捕・投獄。家族に宛てた手紙に「三障四魔が紛起(ふんき)するのは当然で、経文通りです」とつづり、取り調べの場でも法を説くなど、獄中でも正法流布への闘志を燃え上がらせた。そして逮捕の翌44年(同19年)11月18日、妙法に殉じたのである。



 共に投獄されていた戸田城聖先生は、獄死した先師の仇(あだ)を討(う)たんと広布に一人立った。その不二の弟子・池田先生の大闘争によって今、世界に日蓮仏法の太陽は昇った。創価教育の学びやからは平和貢献の人材が陸続と育つ。牧口先生の生誕から149年。創価の三代は断固と勝ったのである。


(2020年6月6日 聖教新聞)







Last updated  2020/06/06 11:29:45 AM
2020/05/29

​〈第3代会長就任60周年記念〉 広布史アルバム 3 昭和35年5月
私は進む! 私は戦う!

 全生命
  賭(と)して 指揮執(しきと)る
   時 来(きた)り
  広宣流布の
   陣頭(じんとう) 我なり

 1960年(昭和35年)5月3日、第3代会長就任のその日、池田先生は詠(よ)んだ。
 この歌の決意のままに、先生は就任5日後の5月8日に関西総支部幹部会に出席したのをはじめ、旭日の勢いで各地を回り、同年末までに全方面を訪れている。
 先生は行く先々で、メンバーの輪の中に飛び込んだ。
 どこまでも会員を大切に──その行動は、就任当初から一貫して変わらない。
 池田先生は、会長就任50年となる2010年のスピーチでこう振り返った。

 50年前の昭和35年5月6日。第3代会長に就任して、初めて関西へ向かう前、私は日記に書いた。
 「一人ひとりに、親しく接しよう。一人ひとりと語り、論じ、そして、生涯、苦楽を共にしてもらおう。これが私の信条だ。
 私は進む。私は戦う。私は苦しむ。
 如来の使い、大衆の味方の誉れ高き、無冠の勇者として」
 愛する同志を仏のごとく大切にし、自分が犠牲となって苦しんでいく。この一念で戦い続けたゆえに、この50年の、奇跡の大発展がある。

 学会は、庶民の王者の集まりだ。
 広布へ戦う人こそが最も偉大である。
 その人を「軽(かろ)んじてはならない」「蔑(さげす)んではならない」と、大聖人は厳命された(御書342ページ、趣意)。
 誰に対しても、恐(おそ)れる必要などない。皆、同じ人間である。我らは胸を張(は)って正義を叫(さけ)び、新しい時代を開きたい。

「この旗は、折伏の旗印(はたじるし)です」「しっかり戦ってください!」――関西総支部幹部会の席上、真剣なまなざしで支部旗を授与する池田先生(1960年〈昭和35年〉5月8日、大阪府立体育会館で)。会長就任後、初の地方指導は、同志と苦楽を共にした関西からスタートした。教学の研鑽などに力を入れ、幸福の連帯で人材の大城を築いていこうと訴えた。

 鶴見(つるみ)・京浜(けいはん)・横浜の3支部合同幹部会(同年5月17日、神奈川・川崎市内で)。鶴見方面は、恩師の事業が最も苦境(くきょう)にあった時期に、池田先生が奮闘(ふんとう)した地。先生は当時を述懐(じゅっかい)しつつ、苦難の時に信心を貫く重要性を強調し、師子王の心で前進しようと呼び掛けた。

 北海道総支部幹部会終了後、会場に入れなかった同志を激励(同年5月22日、札幌市内で)。幹部会では、「湿(しめ)れる木より火を出し乾(かわ)ける土より水を儲(もう)けんが如く強盛に申すなり」(御書1132ページ)の御文を拝し、強い信心で題目を唱え切って宿命転換をと望んだ。​


(2020年5月29日 聖教新聞)








Last updated  2020/05/29 12:00:04 PM
2020/05/28

​​第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶」
第7回 「永遠なれ 友好の『金の橋』」


新しい時代の扉は、待っていては開きはしない”――英国領だった香港(ホンコン)の羅湖(らこえ)駅から徒歩で中国へ(1974年5月)
 池田先生の初訪中は1974年5月30日。まだ中国への直行便がない時代だった。
 なぜ中国へ行くのか。小説『新・人間革命』「友誼(ゆうぎ)の道」の章には、中国への第一歩に当たり、アジアの平和と民衆の幸福を願い続けた戸田先生の真情を、山本伸一が述懐する場面が描かれる。不二の弟子として、何をなすべきか――「思索を重ねた結果、中国と友好を結び、確かなる交流の道を開かねばならぬと、心に深く決意したのである」と。
 
 初訪問に先立つこと6年、池田先生は68年9月8日に「日中国交正常化提言」を発表。「アジアの繁栄と世界の平和のため、その最も重要なかなめ」として、日本と中国の関係改善を訴えた。
 提言発表後、学会本部には嫌(いや)がらせや脅迫(きょうはく)の電話、手紙が相次いだ。中国との友好を口にすれば、身の危険も覚悟しなければならない時代だった。しかしその後も先生は、新聞連載中の小説『人間革命』で日中平和友好条約の締結を提唱。歴史と未来への大局観に基づく信念は揺るがなかった。

周恩来総理が愛用したペーパーナイフと鄧穎超超夫人が愛用した筆立て。ともに夫人から贈られた
池田先生が1981年に揮毫した書「金乃橋」​​
 それらの行動を、じっと見つめていたのが周恩来(しゅうおんらい)総理であった。74年12月5日、先生の2度目の訪中の折に「池田会長には、どんなことがあっても会わねばならない」と、病身を押して一期一会の会見。共に繁栄するアジアの未来を展望した総理の思いは、池田先生に託された。
 
 以来、約半世紀。池田先生の訪中は10度に及ぶ。山あり谷ありの日中関係にあって、先生は平和・文化・教育の交流をたゆみなく推進し、青年部や婦人部などの派遣団交流をはじめ、幾重にも民間交流を進めてきた。

 先生は語る。――民衆は海であり、民衆交流の海原が開かれてこそ、あらゆる交流の船も行き交うことができる。――いかなる風雪があろうと、“海”さえあれば、船は前進し、往来は続いていく。ゆえに民衆交流こそ、揺るがぬ平和を築く王道である――と。
 原点を忘れず、先人の労苦に学ぶ。次世代にその志(こころざし)があれば、友好の「金の橋」は万代に続く。


(2020年5月28日 聖教新聞)








Last updated  2020/05/29 10:27:07 AM
2020/05/25

第3代会長就任60周年記念​「師弟凱歌の記憶」​
 第6回   ​「民衆に捧げる栄冠」​

モスクワ大学の総長室で行われた名誉博士号授与式(1975年5月)。池田先生は、ホフロフ、ログノフ、サドーヴニチィの歴代総長と深い親交を。創価大学とモスクワ大学の学生の往来は、これまで500人を超える
 大学や学術機関が優(すぐ)れた人物に対して授与する名誉学術称号は、その機関が“この人に学べ”という模範と認め、威信をかけて贈る「知性の宝冠」である。


 池田先生が受けた最初の名誉学術称号は、M・V・ロモノーソフ記念モスクワ国立大学の「名誉博士号」。本年で創立265年を迎えた、ロシア最古の知の殿堂からの栄誉である。受章者には、ゲーテ、シラー、ダーウィンら、人類史に輝く偉人が名を連ねる。
 市街の中心部からも見える同大学の本館は、高さ240メートル、32階建て。最高峰にふさわしい威厳(いげん)をたたえるが、開学当初の大学は、薬局だった建物を改装した小さな校舎だったという。“あらゆる階層の人に開かれた大学に”との創立者・ロモノーソフの理想が灯(とも)る学舎は、時を経てゴルバチョフ元ソ連大統領らノーベル賞受賞者をはじめ幾多の英才を育んできた。
 先生への名誉博士号授与は、同大学哲学部から発議があり、教授会の決定をみたもの。1975年5月27日、ホフロフ総長(当時)ら大学首脳、教授や学生の代表が見守る中、本館9階にある総長室で厳粛に行われた。
平和と友好の活動を讃え
 贈られた学位記には「文化と教育の分野における実り多い活動、並びに諸国民の平和と友好の深まりをめざす積極的な活動を讃え」と。折りしもこの年は、SGIが発足した年。かつて“貧乏人と病人の集まり”と揶揄(やゆ)された創価学会が、池田先生のリーダーシップのもと、人類を結ぶ平和・文化・教育の一大民衆運動を世界に本格的に広げゆく暁鐘(ぎょうしょう)の年であった。
 先生は授与式を振り返り、つづった。草創のころより、地位も栄誉も求めず、世のため、人のためにひたむきに汗を流してきた人々の、身を惜(お)しまぬ敢闘(かんとう)があって今日のSGIの発展がある――と。「尊い労作業を、陰の労苦を、誰が忘れよう。私がいただいた称号や勲章は、すべて、それらの人々のものである。私は、ただ、営々黙々(えいえいもくもく)とこの運動を担い、支えてこられた無位無冠(むいむかん)の人々のために、今後も働きゆくのみである」
 モスクワ大学からは2002年6月、重ねて「名誉教授」の称号も贈られた。池田先生の人間主義の行動に贈られた「知性の宝冠」は現在、396に及んでいる。


(2020年5月25日 聖教新聞)







Last updated  2020/05/25 12:39:42 PM
2020/05/20

​​第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶」
第5回   「世界に広がる音楽隊」

池田先生が香港の音楽隊員を激励する(1991年1月)。“創価文化の旗手”である音楽隊は、世界各地で同志の心を鼓舞する
 若き日の池田先生が音楽隊の結成を提案した折、先輩幹部は、こぞって反対した。ただ戸田先生だけが「大作がやるんだったら、やりたまえ」と理解し、励ました。1954年(昭和29年)5月6日、正式に音楽隊が発足。初の出動は、その3日後となった。
 メンバーは16人。楽器は方々から借り集めた。当日は屋外での演奏だったにもかかわらず、雨。それでも隊員たちは“悪条件だからこそ絶対に負けられない”と闘志を燃やし、勇気の調べを奏でた。この日、池田先生も音楽隊の演奏に合わせて、雄渾(ゆうこん)の指揮を執った。その姿を戸田先生が見守った。この5月9日が、永遠の原点たる「音楽隊の日」となったのである。

池田先生が墨痕鮮やかに揮毫し、音楽隊に贈った書​​


 池田先生はまもなく、費用を工面して楽器を購入し、音楽隊に贈っている。その後も折あるごとに励まし、広布の“楽雄”たちを、たゆみなく育んでいった。
 隊員は、心と技を徹底して磨いた。そして、学会の会合で、地域の友好の集いで、人々の心を揺り動かす妙音を響かせながら、平和と文化の大行進を続けてきた。


 全ての音楽隊員が心に刻む言葉が音楽隊訓。結成10周年の64年(同39年)に、池田先生が示した不滅の指針である。先生は叫んだ。「幾千万の、地涌の菩薩の士気を鼓舞し、苦しい同志に、悩める同志に、希望を与え、勇気を与える、音楽隊の使命を、全うしていただきたい」


 師の“手作り”の音楽隊は今や日本のみならず世界30カ国・地域で活躍する。各地でパレードやコンサートに出演。大会に出場し、栄冠に輝く団体も多い。
 従来の練習ができない現在、隊員はオンラインで励まし合い、合奏・合唱練習を行う。さらに“あらゆる人に希望を”と、動画投稿サイトに演奏を公開した。


 音楽隊訓には、こうある。「新しき時代、新しき民衆は、必ずや新しき音楽を、新しき人を待望していることは、必然である」。前進の息吹を生み出す楽雄がいる限り、師弟の凱歌は轟(とどろ)き続ける。

池田先生が初代音楽隊長に贈った指揮棒
手元には「廣布の指揮を共に」との先生の文字が力強く


(2020年5月20日 聖教新聞)







Last updated  2020/05/20 10:10:00 AM
2020/05/19

​​​〈第3代会長就任60周年記念〉 
広布史アルバム 2    昭和55年5月の激励


信心修行の労苦を忘れるな!

〈岐阜〉 岐阜・各務原文化会館で約1,000人の友を激励。「一人残らず、栄冠の幸せの人生を勝ち取ってもらいたい」と語り、ピアノで「荒城の月」「夕焼け小焼け」「人生の並木路」など5曲を演奏した(1980年〈昭和55年〉5月11日)。名古屋から始まった5日間の中部指導で、110回の記念撮影を行った

 一人の胸中に信心の灯をともす。
 青年を育て、希望の未来を開く。
 いついかなる時も、池田先生の行動は、「励まし」という一点に貫かれている。
 会長就任20周年となる1980年(昭和55年)5月もそうだった。
 第5次訪中を終えた池田先生は、4月30日に長崎から福岡へ向かい、大阪、愛知、岐阜、静岡、神奈川を駆け巡った。
 宗門の悪侶と退転・反逆者らによる、師弟の絆を分断しようとする謀略の嵐が吹き荒れていた。行動を制限されていた中で、それでも先生は一人一人に励ましを送っていった。
 ある時は、ピアノを奏で、友の勇気を鼓舞した。電車での移動中、通過する駅のホームに駆け付けた同志へ、窓ごしに懸命に手を振った。行事の役員を務める青年に声を掛け、未来部の子どもたちを温かく包み込んだ。また、功労者宅を訪ね、懇談を重ねた──。 ​​​


 静岡では、会館の大広間で、正義の青年たちと語り合った。先生は当時の思いを、随筆に記している。
 聖教新聞の記者が、ぜひ写真を掲載したいと言ってきた。当時は、それさえも戦いであった。聖教に載った私の写真が大きすぎる等々、宗門から、幼稚な、陰険な苦情があったからである。
 私は、凜々しき青年たちと一緒に写真に納まった。この一枚の写真で、わが同志を元気づけるのだ!
 それは、激しき権威の宗門との攻防戦のなかでの知恵であった。
 
 私は、記念撮影に続いて、青年たちと勤行したあと、強く語った。
 「今こそ、信心修行の労苦を忘れるな!」
 「広宣流布に生き抜く『身軽法重(しんきょうほうじゅう)』の精神を忘れるな!」
 そして、「社会と職場で勝利者たれ!」と。
 200畳を超える大広間で、50人ほどの青年との、ごく短時間の、小さな懇談会であった。真剣な語らいのなかから、たった一人でもよい、身命を惜しまず、獅子となって立ち上がる丈夫をつくることを願った。
 一人立つ勇者さえあれば、必ず二陣、三陣と続くことは間違いないからだ。

 あれから40星霜──。苦難の時に結ばれた絆は、今も同志の心の中で、勇気と希望の光彩を放ち続けている。


(2020年5月19日 聖教新聞)








Last updated  2020/05/19 11:50:03 AM
2020/05/12

​第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶」 ​

​第4回「トインビー博士との語らい」

トインビー博士と池田先生が語り合う。その様子を、ベロニカ夫人(右端)と香峯子夫人が見守る(1972年5月、イギリス・ロンドンで)。対談集『21世紀への対話』は、多くの識者・指導者が座右の書として愛読する

 「長い間、この機会を待っていました。やりましょう! 21世紀のために語り継ぎましょう!」
 
 83歳のトインビー博士が、44歳の池田大作先生に呼び掛ける。1972年(昭和47年)5月5日、両者の対談は、イギリス・ロンドンにある博士の自宅で始まった。
 
 “20世紀最大の歴史家”と称される博士から、先生に手紙が届けられたのは、その3年前の69年(同44年)秋。「貴殿を英国にご招待し、現在、人類の直面している諸問題に関して、二人で有意義な意見交換ができれば幸いです」
 
 現代文明の危機を乗り越える高等宗教としての可能性を、大乗仏教に見いだしていた博士は、急速に発展する学会に“生きた仏教”として大きな関心を抱いていたのである。
 
 語らいは、初日から8時間にも及んだ。
 
 「私は新しい種類の宗教が必要だと感ずるのです」「新しい文明を生み出し、それを支えていくべき未来の宗教というものは、人類の生存をいま深刻に脅かしている諸悪と対決し、これらを克服する力を、人類に与えるものでなければならないでしょう」とトインビー博士が鋭く語れば、池田先生は、「現在から未来にかけての一切の問題に、人類が一体となって取り組むのに役立つ宗教でなければならない」「このような普遍的な宗教を見いだすことこそ、現代に生きるわれわれの、最大の課題であると考えるのです」と応じる。
 
 宗教とは、人間とは、世界平和を実現する方途とは――対談は翌年5月にも行われ、計40時間にわたった。
 
トインビー博士と池田先生の対談の収録に使用されたマイク、テープレコーダーなどの機材トインビー博士と池田先生の対談の収録に使用されたマイク、テープレコーダーなどの機材

 対談を終えて、博士は先生に語る。「人類の道を開くのは、対話しかありません。あなたはまだ若い。これからも、世界の知性との対話を続けてほしい」
 
 そして同行者に、ローマクラブ創立者のペッチェイ博士ら、対話を進めてほしい識者の名を記したメモを託したのである。
 
 「トインビー博士との語らいによって、私の世界の識者との対話は、本格的に幕を開けたといっていい」――先生が紡いできた各界の識者・知性との対話は1600回を超える。
 
 博士逝いて45年。対談集『21世紀への対話』は、29言語に翻訳され、今もなお世界中で読み継がれている。


(2020年5月12日 聖教新聞)


池田大作・トインビー対談『21世紀への対話』|創価学会公式サイト








Last updated  2020/05/12 11:50:05 AM
2020/05/05

​​​​​第3代会長就任60周年記念特集――
「人間革命」の証明の劇 第5回「一人を励まし続けた人間指導者」
学会の会長とは、一言でいうとどんな仕事なのか。池田先生の姿を見続けてきたある人は「人生励まし業」と称した。第3代会長就任以来、先生が歩んだ60年とは宗教者として、文化人として、教育者として、何よりも人間として苦悩する友に寄り添い、生きる勇気と希望を送り続けた60年だった。「5・3」記念特集の掉尾となる⑤では「一人」を励まし続けた人間指導者の軌跡を追う。​​


Ⅰ「師弟の原点」
戸田先生の第2代会長就任後、東京・市ケ谷にあった学会本部の分室には連日、指導を求めて多くの会員が集まった(1953年4月)
 苦悩で押しつぶされそうになっている友を、戸田先生が「どうした?」と包み込む。
 1951年(昭和26年)5月3日に第2代会長に就任して間もない頃から、東京・市ケ谷にあった学会本部の分室には、指導を求める会員たちが続々と訪れた。狭い廊下にまで列をなしている。
 「こんな自分でも、幸せになれるでしょうか?」。同志が抱えていた悩みは千差万別である。経済苦、病、仕事、家庭不和……。戸田先生は、わが事として胸を痛めながら、相手の生命を揺さぶるように温かくも力強い言葉を紡ぐ。
 「大丈夫。この信心をして幸福にならないわけがない。心は王者でいきなさい。創価学会の名誉ある一員として誇りも高く生き抜きなさい」
 戸田先生の個人指導は常に真剣勝負だった。「私は、一本の旗をもって、たった一人で、濁流の中に立っているみたいなものだよ。少しでも油断すると、旗と一緒に、濁流に流されてしまう」と述懐したこともある。
 それでも「一人」を励まし続けたのには理由がある。
 大きな会合での指導や組織的な結び付きだけでは、本当の信頼関係は生まれない。
 目の前の一人の悩みに寄り添い、共に幸せになろうと励まし、心と心を通わせる中にしか、一切衆生の幸福を目的とする広宣流布の広がりも、実体も、ないからだ。


戸田先生「民衆の“最大の味方”となって進んでいきなさい」
 戸田先生は、若き日の池田先生に遺言のように語った。「民衆ほど強いものはない。民衆のなかで、民衆の最大の味方となって、進んでいきなさい」と。
 恩師が一対一の膝詰めの対話を心掛けてきたように、池田先生もまた、民衆の中に飛び込んで、一人一人と心を通わせ続けた。
 戸田先生の構想の実現へ、池田先生が弘教拡大の指揮を執った蒲田の二月闘争、文京の戦い、札幌夏の陣、大阪の戦い、山口開拓指導――。
 池田先生は一人の幸せを願い、一人と会い、一人を励まし抜いてきた。先生から直接激励を受け、苦境を勝ち越えた同志のエピソードは枚挙にいとまがない。
 「一人を大切に」。この学会精神が千波万波と広がり、他に類を見ない“自他共の幸福に尽くす一大民衆勢力”が築かれたのである。


Ⅱ「建設と飛翔
 池田先生が第3代会長に就任すると、激励の舞台は日本全国、世界各地へと広がる。
 その一方で、先生のまなざしは、今まで以上に一人一人へと深く注がれていった。
 会長就任1年前の59年1月と、60年4月――秋田生まれの一人の青年が、先生から手紙を受け取っている。彼がいた場所は、日本から見て地球の反対側にある国、アルゼンチンだった。


 57年に青年は日本で入会し、仕事を求めてアルゼンチンへ。まだ同志が少なく、途方に暮れていた折、“困った時は池田先生に相談するように”との先輩の言葉を思い出し、手紙を送ったのだ。
 一度も会ったことのない一青年からの手紙に、返信を書いてくれるとは――彼が驚いたことは言うまでもない。便箋(びんせん)には力強い筆致で、海外にいる同志の姿は「世界の黎明を意味して居る」等とつづられていた。また、「題目を声高らかにあげ、勇敢に堂々と生活に事業に戦い、大陸の大勝利者に」とも。
 その後も励ましは続いた。青年は、やがてアルゼンチンSGIのリーダーとなり、93年2月には、同国を初訪問する先生を迎えたのである。
 どんな小さな出会いもおろそかにせず、勝利を祈り、見守り続ける。それが池田先生の行動にほかならない。
 69年3月、本州最北の下北半島に住む中等部員が部員会の集合写真を先生に送った。


 後日、先生から書籍が届いた。扉には「下北の中等部員の成長と栄光を ぼくは いつも祈ろう。此の写真の友と十年後に必ず会おう」と。
 末尾には「1969・4・2」、さらに、「1979・4・2」と記されていた。


 その後も、「下北の わが中等部 嵐征け」と、激励の言葉が届く。


 79年1月14日、先生は青森文化会館へ。頼もしく成長した中等部員たちと会い、約束を果たした。
 「よく来たね!」「御本尊に誓ったこと、約束したことは破ってはいけない。実行することが最高に尊いことなんだ」「君たちは勝ったんだよ」
 写真を届けた友らは師との誓いを胸に、それぞれの使命の舞台で実証を示していく。
どんな時も 友の笑顔を守るために
 79年4月に会長を辞任した後も、先生の行動は変わらなかった。草創からの功労者宅への訪問を開始。その数は600軒を超えた。
 「立場は変わっても、精神は変わらない。姿勢は変わらない。決して後退しない。行ったところ行ったところで、友を励まし、友を讃え、広布のため、同志のため、前へ前へ進んでいく。それが学会精神である」――この信念のままに、先生は世界を駆けた。
 先生の激闘によって、SGIの連帯は192カ国・地域へと拡大。師の姿を命に刻んだ後継の友らが、今いる場所で励ましの輪を広げている。


Ⅲ「世界が称賛」
縁する友を苦悩の人を 一人も残らず幸せに!
ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領「池田SGI会長の力は人格であり、哲学の深さ、人間性の大きさです」
 目の前の一人と「人間」として誠心誠意、向き合い、信頼の絆を結んでいく。相手が市井の人々でも、国家指導者でも、池田先生の姿勢は変わらない。
 元ソ連大統領のミハイル・ゴルバチョフ氏との交流も、そうだった。
 先生との初会見は今から30年前の1990年7月27日、モスクワのクレムリンで。今日に至るまで続く友情は、先生の次の言葉から始まった。
 「きょうは、大統領と“けんか”をしに来ました! 火花を散らしながら、何でも率直に語り合いましょう」
 ユーモアあふれる第一声に氏も破顔一笑。「池田会長の活動はよく存じ上げていますが、こんなに情熱的な方だとは――」「私も率直な対話が好きです。本当に、池田会長とは、昔からの友人同士のような気がします」と応じた。
 会談で氏は、“来春に訪日したい”との意向を表明。同日夜のNHKニュースが大きく報道したほか、日本の主要各紙も翌日付の1面トップで伝えた。そして、翌91年4月に氏の初来日が実現したのである。


 当時、ソ連は変革の渦中にあった。氏が大統領として主導した「ペレストロイカ(改革)」は、その思想の先進性ゆえ、反感を抱く人も少なくなかった。保守派によるクーデターが勃発し、ライサ夫人と共に軟禁状態に置かれたこともある。
 ソ連解体後、大統領の座を辞した途端、多くの人が氏のもとを離れた。だが、池田先生との友情は、一段と深まりを増していった。
 大統領辞任の4カ月後(92年4月)、東京で氏と会った先生は「『偉大なる道』は、偉大さのゆえに多くの困難があり、苦渋もある。長い戦いとなる」「しかし『偉大なる道』には未来の喝采が待っています」と励ました。そばにいたライサ夫人にも「奥さまが、カントやヘーゲルなどを含め、幅広く哲学を学ばれたことも、よく存じております。大哲学者のご夫妻です」と称賛を送っている。


 その後も先生と氏との語らいは重ねられ、96年には対談集『二十世紀の精神の教訓』が発刊された。
ゴルバチョフ氏と池田先生が発刊した対談集『二十世紀の精神の教訓』。氏は「1997年11月20日の出会いは私の生涯の思い出です」と記して関西創価学園生に贈った
 97年11月20日、氏はライサ夫人と共に関西創価学園を訪問。この時が、池田先生ご夫妻とライサ夫人との最後の語らいとなった。
 99年夏、ライサ夫人が急性白血病で倒れてしまう。闘病中、逝去後も、先生ご夫妻は何度も電報や手紙を寄せた。
 毎回、池田会長ご夫妻の真心に包まれる思いでした」――2001年11月、先生と再会した氏は、そう振り返っている。氏がライサ夫人と共に訪れた関西創価学園での思い出を語ると、先生は「私たちも一生、忘れません。偉大な、あまりにも立派な奥さまでした。崇高な人生でした」と最大にたたえた。


 ゴルバチョフ氏は言う。
「池田会長の力は、権力でもなく、腕力でもありません。会長は詩人であり、哲学者です。その会長の力は、人格であり、哲学の深さであり、人間性の大きさです。それを心から尊敬しています」
 「生きている限り、私は池田会長との友情、会長との交流を続けたい」​​​


国家指導者から庶民まで 友情と信頼の絆を結び

日中友好の未来を一緒に――北京・北海公園で出会った少女と握手を交わし、温かく言葉を掛ける(80年4月)

メキシコ・ベラクルス空港にて。次の目的地へ向かおうとする時間の合間にも、寸暇を惜しんで友への激励の言葉をつづる(96年6月)

病を克服し、広布に走る壮年の奮闘を心からたたえて(91年8月、北海道・大沼で)

アルゼンチンの未来部員に最大の敬意を込めて(93年2月、ブエノスアイレス市郊外で)

78年1月、香川・高松講堂(当時)の建設予定地を視察した池田先生のもとへ、地域の同志が一斉に駆け寄る。一人も残らず幸せに!――創価家族を抱きかかえるように、先生は受け止めた

世界広布の旅の途次、無事故のフライトに努めた機長に最大の感謝を(96年6月)

沖縄・石垣島で行われた八重山祭。ハッピ姿で鉢巻きを締め、友の輪の中へ(74年2月)



(2020年5月5日 聖教新聞)







Last updated  2020/05/05 12:11:01 PM
2020/05/04

​​​​​​​​第3代会長就任60周年記念特集――
​「人間革命」の証明の劇  第4回「文化の価値創造 作家・詩人・写真家として」​
 ウズベキスタン元文化・スポーツ大臣のトゥルスナリ・クジーエフ氏は言う。池田先生は、著作を通して「いかに、相互理解を構築していくか。いかに人生の困難を乗り越えていくか――その難題への解答を示す『平和の哲学』『幸福の方程式』を記されてきた」と。さらに「博士の写真には見る人の心を勇気づける哲学があり、人と人を結ぶメッセージがある」とも述べている。「5・3」記念特集④では、先生の「作家」「詩人」「写真家」としての足跡に光を当てる。


Ⅰ「師弟の原点」
詩歌と小説で紡がれた師匠と弟子の絆
 仏法の人間主義の思想を世界的な文化・平和運動として花開かせた池田先生。恩師・戸田城聖先生との師弟のドラマは、「詩歌」によって彩られている。
 1947年(昭和22年)8月14日の師弟の出会い。その運命的な場面で、19歳の池田先生は「旅びとよ いずこより来(きた)り いずこへ往(ゆ)かんとするか……」との即興詩を詠んだ。
 恩師の大きな苦境の中で交わされたのは、和歌だった。池田先生は戸田先生の経営する出版社「日本正学館」に入社。少年雑誌などの編集に携(たずさ)わり、戸田先生の事業が窮地(きゅうち)に立たされた時、一首の和歌をささげる。「古(いにしえ)の 奇(く)しき縁(えにし)に 仕(つか)へしを 人は変れど われは変らじ」と。
 そこには、“師匠を支え抜こう”との弟子の誓願が込められていた。戸田先生は「色は褪(あ)せ 力は抜けし 吾(わ)が王者 死すとも残すは 君が冠(かんむり)」等の2首の返歌で応えた。


“戦う文化人”の魂を継承
 戸田先生もまた、牧口常三郎先生が獄死した後、先師の遺志を継いで一人立つ決意を、獄中で詩「独房吟(どくぼうぎん)」に託したことがあった。
 若き日から詩歌などに精通していた戸田先生であったが、文学は“余興”や“趣味”ではなかった。
 それは、広宣流布という未聞の民衆運動に生き抜く情熱の発露であり、時には師匠への厳粛(げんしゅく)な「誓い」として、時には弟子への万感の「励まし」として、表現されたのである。
 その“戦う文化人”の魂を継承したのが、池田先生だった。
 戸田先生は、広宣流布について、「仏法を基調とした平和・文化の開花でなくてはならない」と構想した。


 「『妙法の大地に展開する大文化運動』の先駆けたらん」と、池田先生は先頭に立ってペンを握り続けた。
 “妙法”にちなみ、戸田先生が「妙悟空(みょうごくう)」のペンネームでつづった小説『人間革命』。池田先生は恩師の筆名を引き継ぎ「法悟空(ほうごくう)」として、『人間革命』『新・人間革命』を書き残した。激務の合間を縫い、半世紀にわたる血のにじむような言論闘争だった。
 作家、詩人、さらに写真家としての先生の創作活動は今も続く。詩歌や小説を通じて紡がれた師弟の絆が、仏法を基調とした“文化の光”として、世界に光彩を放っている。


Ⅱ「建設と飛翔」
小説「人間革命」「新・人間革命」 日本一の新聞連載
 かつて池田先生は記している。


 「私は、書いて、書いて、書きまくってきた。目的があったからだ。友に希望を届けるために! 勇気を贈るために! 勝利を開くために!」
 間断なく続く先生の“ペンの闘争”。発刊された著作は膨大(ぼうだい)であり、その分野は多岐にわたる。


 海外出版は50言語に迫り、2000点を超える。
 今や世界中の人々が読み学ぶ時代となった小説『人間革命』(全12巻)と『新・人間革命』(全30巻)。
​​

 連載回数は『人間革命』の1509回と『新・人間革命』の6469回を合わせて、7978回となり、日本の新聞小説史上、最多を誇る。


​創作物語やエッセーを執筆
 また、世界の知性との語らいは、80点に及ぶ対談集として結実。“未来の宝”にエールを送る創作童話・物語は、1974年に発表した『少年とさくら』をはじめ、20作品以上を数える。
 70歳の時には「随筆 新・人間革命」をスタート。現在も“随筆”は本紙で続き、その他にも機関誌等に仏法哲理の講義やエッセーなどが掲載されている。​​


各国語で翻訳・出版されている池田先生の創作童話・物語
 希望は


 人生の宝なり。
 常に


 希望を持てる人は


 幸いなり。
 君よ


 貴女(あなた)よ


 決して負けるな!
 いかなる


 艱難辛苦(かんなんしんく)が


 あろうとも


 金色に輝く


 希望の光を


 断じて忘るるな!
 おお

 君たちよ


 私が心から信頼し


 愛する君たちよ


 希望に


 生き抜くのだ!


 断固と


 勝ち抜くのだ!

​
 (長編詩「希望は人生の宝なり」)

寸暇を惜しみ、筆を走らせる。「力の限り、語りに語り、書いて書いて、書き続けるのだ!」と


 池田先生は、若き日から古今東西の詩人たちの作品に親しみ、自らも詩を詠んできた。
 その詩作の数々は、世界に平和の連帯を呼び掛け、苦難と戦う人々を励まし、傲慢(ごうまん)な悪を打ち破る、「希望」と「正義」の光にあふれている。
 古来、偉大な詩人は「桂冠詩人(けいかんしじん)」として、たたえられてきた。イタリアのダンテやイギリスのワーズワースらが、それに当たる。


 1981年、先生は世界芸術文化アカデミーから日本人初の「桂冠詩人」称号を受ける。その後、世界的な詩人団体から「国際優秀詩人」賞(91年)、「世界桂冠詩人賞」(95年)、「世界民衆詩人」称号(2007年)、「世界平和詩人賞」(10年)が授与されている。
 さらに、世界の各地に先生の詩の一節を刻(きざん)んだ詩碑が設置され、傑出(けっしゅつ)した詩業への共感が広がっている。
「悲劇の日々を幸福の日々に! 苦痛の日々を平和の日々に!」――アメリカ同時多発テロの被災地にささげられた詩碑

41カ国・地域151都市で「自然との対話」写真展
 「フォトグラフ(写真)」の語源は「光で描く」。
 まさに“光の詩”ともいえる写真芸術の創造に池田先生が着手したのは、1970年ごろ。広宣流布という大文化運動の一つとして「大自然の美」を捉(とら)え、「生命の讃歌」を表現したい、との思いからであった。

「負けるな! 強くあれ! 私とともに進もう」と、カメラで同志を励まし続ける。写真とは「歓喜と希望と勇気を送る、蘇生への光の弾丸」と
 法華経では、森羅万象(しんらばんしょう)が自己の「一念」に収まり、その一念が「全宇宙」をも包み込むと説く。先生の写真には「今、この時を逃さず、縁する一人の生命に、希望と歓喜の光を」との凝結(ぎょうけつ)した一念が脈打っている。


 先生の作品を紹介する「自然との対話」写真展は、国内はもとより41カ国・地域、151都市で開催され、「眼で詠まれた詩」(フランスの美術史家ルネ・ユイグ氏)、「無限の物語を表現する写真文学」(ネパール写真家協会のR・K・マナンダール元会長)などの称賛が寄せられてきた。
 また、フランスのヴァル・ド・ビエーブル写真クラブの「名誉写真芸術会員」、オーストリア芸術家協会の「在外会員」をはじめ、ハンガリー、ウズベキスタン、ネパール等の写真・芸術の団体から顕彰が贈られている。
 写真は趣味ではなく“戦い”――かつて先生は記した。「写真が一瞬の真剣勝負であるように、人生も『今を勝つ戦い』である。『今日を勝つ戦い』である」

世界詩歌協会 パドマナーバン名誉会長 「新思考で人々の覚醒を促す」
創造性に富んだ詩人や作家は、三つの「E」、つまり「Expose(暴く)」「Educate(教育する)」「Enlighten(目覚めさせる)」を忘れてはなりません。
 「暴く」とは「不正義(悪)と非寛容(ひかんよう)を暴(あば)く」こと、「教える」とは「人々に新たな価値と、人類愛、慈悲、愛、平等、公平、階級のない社会を教える」ことです。
 そして、「目覚(めざ)めさせる」とは「希望と大志あふれる明るい未来という新たなビジョンに目覚めさせる」ことです。
 池田博士は、世界にはびこる悲しむべき事態に疑問を投げかけます。不正義と非寛容を糾弾(きゅうだん)します。自然に目を向け、自然を愛でます。苦悶(くもん)を見つけ、安堵(あんど)を与えます。青年に大いなる希望を見いだします。
 新思考。新たな目覚め――博士の詩は、老若男女、青年、統治者も被治者も階級を問わず、人々を覚醒(かくせい)させる輝きを放っています。
 (2010年8月、同協会「世界平和詩人賞」授賞式での祝辞から)

シンガポール写真家協会 テイ前会長 「深い哲学が息づいた作品群」
 池田氏は、その名声と多忙さにもかかわらず、わずかな時間を見つけては、ご自身のカメラで写真を撮られています。氏が写真を撮影する目的は、「詩心を抱け!」と、友の心を鼓舞するためです。
 氏は、自らの詩的ビジョンによって、自然をとらえる「新たな視点」を生み出します。氏の写真には、氏の哲学が息づいています。
 写真芸術史家であるブラジルのジルベルト・フェレスは、こう言っています。「氏の写真が人を魅了してやまないのは、被写体がフィルムに映し出される前に、氏の哲学というフィルターを通ってくるからである」
 氏の写真はユニークであり、人の心に忘れがたい印象を残します。その写真は「目」だけでなく、「魂」にも訴えかけてきます。
 どんな文章によっても表せないような、具体的な光景を眼前に現してくれます。


 (1999年10月、同協会「終身名誉会員」称号授与式でのあいさつから)​​​​​


(2020年5月4日 聖教新聞)







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